第七十七話 奴国
奴国。この時代における、北部九州最強の国。
その地位には、はっきりとした理由がある。
西暦57年。
今からちょうど140年前のことだ。
当時の奴国王が後漢の光武帝に朝貢を行い、その功により印綬を賜った。
これにより、奴国は正式に漢の冊封国として認められた。
東アジアの盟主・漢の後ろ盾を得たことで、倭国内での奴国の地位は、揺るぎないものとなった。
──ちなみに。
その真贋については、俺のいた時代でも議論が絶えなかったのだが、福岡県の志賀島で発見された金印、すなわち「漢委奴国王印」こそが、その証であると考えられている。
俺の時代では教科書の定番ネタだ。
歴史に興味がなくても、一度は耳にしたことがある。そんなレベルの話だ。
「その後、奴国は楽浪郡を通じて漢との交易路を維持。さらに、朝鮮半島からもたらされる潤沢な鉄器を活かして、他国に対して優位な立場をとっていったんだよね」
ナビが解説を挟む。
船上で俺は、どう奴国を言いくるめるか。その考えを整理するため、ナビに協力してもらい、この時代での奴国の状況をまとめている。
「現状は、末盧国や伊都国に押されて、光武帝に朝貢した頃ほどの勢いはない。それでも、奴国を中心とした北部九州の一強時代は、しばらく続くことになる」
「状況が変わったのは、後漢が衰退しはじめた頃か」
「そう。キミも現地にいたから分かると思うけど、宦官の専横で、後漢は加速度的に腐敗していった。そして、決定的だったのが黄巾の乱」
「……ああ」
あの地獄を思い出すのは、いまでも苦しい。
黄巾の乱そのものより、その混乱の中で歪められてしまった、孫堅の姿を思い出すからだ。
「止めは西暦190年。楽浪郡を含む幽州で、公孫度が半独立政権を樹立しちゃったことだね」
公孫度。良くは知らない。
知っているのは、反董卓連合が帝を救おうとしていたその裏で、火事場泥棒のように幽州を奪った男だってことだけだ。
あの頃、本気で国や民を思っていたのは、孫堅はじめ、限られた人間だけだった。
多くの諸侯は、乱世を自らの利益に変えようと血眼になっていた。
公孫度も、例外じゃない。
俺や孫堅が命を賭けて戦っていたその最中に……。
当時の怒りが、今も鮮烈に蘇る。
「公孫度が楽浪郡を奪ったことで、中国の東アジアにおける玄関口は塞がれた。その後、倭国や朝鮮半島からの朝貢品も、公孫氏が独占するようになっちゃったの」
「つまり、漢の衰退とともに、その冊封国だった奴国の権威も落ちた。
そして交易路が断たれ、国交も絶えた……」
「そう。まさに弱り目に祟り目だね。
奴国はいまだ強国ではあるけど、かつての絶対的支配はもう崩れはじめている」
「それが、今回の停戦交渉で、俺たちがつけ入る隙になるってことだな」
海を眺めながら、俺はその情報を元に、どう交渉を進めていくか組み立てはじめる。
「頼んだよ。成功の鍵は、キミが握っているんだから」
ナビがいつになく、積極的に応援してくれる。
「どうしたんだナビ。いつものお前なら、“観測者が歴史に干渉し過ぎるな”って止めに入ってくるはずだろ」
「そうだけど、日御子ちゃんが関わってるなら別。あの子を悲しませるようなことは絶対にしないでよね」
ナビの日御子贔屓も大概だな……。
けど、それで助かってるのは事実だ。
俺は苦笑して頷いた。
関門海峡を抜け、船はゆっくりと河口へと入っていった。
川幅は広く、潮の名残を含んだ流れが、まだ重くうねっている。
しばらく遡ると、両岸に集落が見えはじめ、やがて小高い丘の上に、立派な建物が姿を現した。
瓦のような板を幾重にも重ねた屋根、厚く塗られた白壁。あれが奴国王の王宮だろう。
ナビによれば、このあたりは俺の時代で言うところの北九州市・小倉北区にあたるらしい。
俺たちが今遡っている川は、現在の紫川に相当するという。
謁見の間には、俺と日御子の二人だけが通された。
広間は思いのほか簡素だが、床には厚く敷かれた莚が重ねられ、奥の一段高い場所には、王のための“座”が設けられていた。
背後には紅い布が垂らされ、松明の火が揺れている。その陰影が、王の輪郭をより大きく見せていた。
王は豊かな体つきをしており、その肉付きの良さが、この国の富と安定を何より雄弁に語っていた。
短く刈られた髪、深く刻まれた皺。年の頃は五十を越えているだろうが、眼光は鋭く、油断のない光を放っている。
まさに、百年以上にわたり北部九州を支配してきた国の王の風格だった。
「停戦の申し出を受け、わざわざ私がこの場に出てきたのだぞ。なぜ、邪馬壹国王の姿が見えぬ」
声には怒気というよりも、明確な格の違いを誇示する圧があった。
広間の外に控える兵たちが、一瞬息を呑む気配がする。
日御子は一歩進み出て、深く頭を下げた。
「父王は病に伏しております……。名代として、わたしが参りました。名を、日御子と言います」
言葉遣いは丁寧だが、全く臆するところがない。
普段通りの日御子だ。
「なるほど、そなたが“日御子”か。噂はこの奴国にも届いておる。伝え聞く通りの……いや、それ以上の麗しさだな」
王が舐め回すような視線を向ける。
俺の胸の奥に、不快なものが込み上げたが、日御子は微動だにしない。
涼しい眼差しで、その言葉を受け流している。
「では、そちらが今回の戦を起こした兄君、都萬彦殿かな」
「いえ。俺は邪馬壹国に身を寄せる漢出身の倭人、持衰と申します」
「持衰?それに漢だと?」
王の眉がわずかに動く。
この地方では“持衰”といえば航海祈祷の生贄。
そんな名を名乗る俺を訝しむのは当然だろう。だが、それ以上に王の心を捉えたのは、“漢の人間”という言葉だった。
王は俺に対して、興味と警戒が混じった視線を向けてきた。
「貴殿は、漢から参ったと申すか」
「はい。先祖は遥か昔に漢へ渡った倭人です。我々は漢の地で生まれ育ち、そこで戦いも経験してきました」
「漢は今、数年前までの倭国のような乱世に陥っていると聞くが」
「はい。漢王朝に蔓延る宦官と言う、去勢された官僚たちが権威を恣にしたことで、皇帝の権威は失墜しました。俺がいた頃に、宦官は誅されましたが、今度は諸侯が勝手に領土を奪い合う、規律なき時代へと陥ってしまいました」
「漢の乱れは、国使の受け入れが停止たことで察してはいたが……。お主は、その渦中にて戦っていたと申すか」
「ええ。漢の忠臣であり、豫州刺史、並びに破虜将軍となられた、孫文台様の元に身を寄せ、その将として、漢王朝再興の為に戦っておりました」
孫堅、ちょっと名前借りるぜ。
俺の具体的な話しに、確かな信憑性を感じたのだろう。
奴国王の俺をみる目が変わってきたのが分かる。
彼の自身の源は、遥か昔に漢から正式に認められた冊封国であるという自負から来るものだ。
逆に言えば、奴国王は漢に弱い。
倭国においては、漢から印綬を賜った奴国の権威は相当なものだろう。
だが、漢の刺史やその将から見れば、小国の首長の一人にすぎない。
「なるほど。うまいね。“自分は漢の将軍の部下だった者だ。自分から見れば倭の国々なんて、どれも小さな集落と変わらない”。飽くまでそのスタイルで臨んで、奴国王の権威を無効化しようってわけね」
ナビがいたずらっぽく笑う。
俺も密かに口の端を吊り上げて応えた。
だが、元々ここに俺を連れて行こうと考えたのは日御子だ。
この展開は、彼女が意図したものでもあるだろう。
「俺は孫文台様のはからいで、父祖の故郷、倭国へと帰ることを許されました。しかし、俺は憂いています」
わざとらしく、俺は目を伏せる。
「幾年と経っても、倭国は尚も相争う戦乱の国のままだった。俺は、漢の地で得た力を、国々の発展に費やしたいと考えています。今は巡り合わせで、日御子様のいる邪馬壹国に身を寄せていますが、本来はこの倭国内全ての国々に広め、漢にも匹敵する大国にしたいと考えております」
「邪馬壹国の発展は、日御子殿の神聖によるものと聞いていたが、違和感があった……。その裏には、お主たちの尽力があったというわけか」
「いえ、全ては俺たちを快く受け入れて下さった、邪馬壹国の王族の方々の仁徳によるものです。俺たちは、その後押しをしただけに過ぎません」
「奴国も貴殿らを受け入れれば、その恩恵に預かることが出来ると」
察しがいい。
流石は九州随一の国の王だ。
「漢の乱れは、韓の国、ひいては倭国に波及しています。出雲や、吉備の国の動向にも警戒がいるでしょう。南の投馬国に、いつ寝首をかかれるかもしれない。今こそ筑紫島北部の国々が、一致団結する時です。俺たちの力は、平和の為に使いたいのです」
最後のは遠回しな脅しだ。
俺たちを受け入れるなら、力を授ける。だが、手を振り払うなら、お前たちが恐れる、漢で磨いた爪と牙で、喰い殺す。
実際にそんなことをするわけではないが、王に恐怖心を植え付けるには十分だ。
俺は穏やかに、だがその奥に冷たい殺気を宿して、奴国王を見つめた。
王が生唾を呑み込む。
「サイ……。それはだめ」
日御子が静かに俺の前へ出て、片手を軽く上げた。
その仕草は柔らかいが、決して否定を許さぬ強さがあった。
「日御子、どうして」
思わず問い返す。
奴国王はもう一押しだ。
北部九州は、漢との交易で得た鉄を独占してこそ最強であれた。
だがいま、漢は衰え、公孫氏が台頭し、出雲や吉備の国々までもが新たな交易の窓口を持ち始めている。
鉄はもう、奴国だけの宝ではない。
かつての絶対的な力は、とうに崩れ落ちている。
この王はそれを知っている。だからこそ、今、追い詰めれば落とせる。
なのに、なぜ止めるんだ。
俺の胸の奥に苛立ちと困惑が混じる。
日御子は王に向かって一歩、静かに進み出た。
その姿を見た瞬間、場の空気が変わる。
理ではなく、祈りにも似た静けさが広間を包んだ。
「奴国王、安心して……。わたし達は、あなたが手を振りほどいても、決して剣を向けない……」
優しく声をかけ、手を広げながら、日御子がゆっくりと奴国王に近づいていく。
まるで、獰猛な獣を落ち着かせるような仕草だった。
「何を言う。不弥国とともに攻めてきたのはそちらだろう」
奴国王が反論する。
日御子はふるふると首を左右に向けた。
「それは、あなた達が、無理矢理彼らを支配しようとしたから。争いで得たものは、また争いで奪い返される……」
「綺麗事を抜かすな。力がなければ、ただ搾取されるだけだ。それは過去が証明している」
王の言葉は真理だ。
俺は、漢でそれを嫌というほど学んだ。
「分かってる。でも、民はもう疲れ果ててる。誰も、殺し合いたいと思っていない。だから、わたし達が守る」
「守る?何を、何からだ」
「あなた達を、あなた達自身の力から。邪馬壹国には持衰がいる。わたしも、いる……。わたし達の力は、守るためだけに使う。あなた達が攻めてこなければ、わたし達は、絶対にあなた達を傷つけない」
ただの小国が言えば、それは力なき者の妄言だろう。
強国が言えば、狡猾な罠にしか思えない。
だが、邪馬壹国の日御子の言葉なら別だ。
彼女は数年をかけて、その慈愛を世に示してきた。
そして、その想いを支える、確かな力は、俺が証明した。
慈悲と武力。
今の日御子は、その両方を持ち合わせている。
「でも願わくば、その道をわたし達と共にしてほしい」
優しく語りかけながら、一歩また一歩と奴国王に近づいていく。
「奴国王、怖がらないで。わたしがいる限り、必ずあなたを守るから……」
「……貴女が、私を守ると?」
日御子は静かに頷いた。
「あなただけじゃない。あなたの家族も、兵も、そして民も」
その声は澄んでいるのに、どこか胸の奥に響く温かさを帯びていた。
日御子はゆっくりと王の間を見渡す。
その眼差しは、若き少女のものではなかった。
まるで、すべての命を包み込む、母のようだった。
誰ともなく、兵の一人が膝をついた。
それを皮切りに、次々と膝を折る音が広間を満たしていく。
鎧の擦れる音が、まるで祈りの調べのように重なり合う。
やがて、奴国王までもが静かに頭を垂れた。
今この瞬間、王の間にいるすべての者が、日御子に傅いていた。
その姿は、もはや“巫女”でも“王女”でもない。
人の形を借りて降り立った、女王神そのものだった。
誰もが、彼女に身を委ねることに、喜びを感じているようだった。
ただ、一人を除いて。
俺は目の前の光景に、抗い難い運命を感じた。
背筋に悪寒が走るのを、はっきりと意識した。




