第七十六話 言葉の戦い
舟を岸につけ、俺たちは浜辺に降り立った。
「なあ、日御子。奴国との交渉だけど、勝算はあるんだよな?」
タケルのことで気が逸れてしまったが、元々はその話をしていたのだ。
俺は改めて、先ほどの話題を続けた。
「たぶん、上手くいく。父上と、わたしなら……。でも……」
日御子の顔が僅かに曇る。
「どうした」
「サイ、これから、父上に会ってほしい……」
「俺が、王に?」
「うん……。父上次第では、あなたの力が、必要になるかもしれないから……」
「王様次第ではって、どういう……」
その質問には答えず、日御子は黙って歩き続ける。
とにかく、今はついていくしかないようだった。
王と共に不弥国にやってきた邪馬壹国の兵たちは、
大型船や不弥国からあてがわれた住居に詰め合うようにして眠っていた。
しかし、邪馬壹国王には別格のもてなしが用意されていた。
不弥国王が最も立派な屋敷を差し出し、王はそこに宿している。
入り口の前には見張りの兵が二人。
だが、日御子の姿を見るや否や、無言で槍を引き、恭しく頭を垂れた。
当然のように道を開ける。
屋内には、王の姿がひとり。
厚く重ねた筵の上に、絹の布を敷いた寝床が据えられ、王はそこに横たわっていた。
「おお、日御子ちゃん、持衰……。突然いなくなったので驚いたぞ」
ここへは日御子と二人で来た。
日御子はタケルも連れて行こうとしたが、タケルがそれを固辞した。
自分は王においそれと会える立場ではないとのことだった。
まだ、先の戦いのことを引き摺っているのかと思ったが、タケルの表情からは、そういった卑下のようなものは感じられなかった。
客観的に、そうするべきでないと考えているだけのようだったので、先に帰ろうとするタケルを、日御子も強く引き止めることはしなかった。
王に目を戻すと、苦しそうに唸っているのに気付いた。
そりゃ、あれだけ呑んで騒ぎまくれば当然だろう。
「全く、羽目外しすぎなんだよ。ヤマさん」
先ほどフミちゃんこと、不弥国王に呼ばれていた愛称を、からかい半分で口にしながら、俺は王の近くに腰を降ろした。
王が渇いた笑い声を出す。
「いや、面目ないの、持衰。だがな、あれが不弥国を抱き込むには最も良い方法だったのだ」
そう言うと、王の瞳の奥が妖しく光った。
それは、先ほどの宴会で馬鹿騒ぎしていた人物のものとは、到底思えなかった。
「どういうことだよ」
「不弥国に実害は無かったとはいえ、都萬彦の行動によって、戦が激化しかけたのは事実だ。それは、不弥国やその他の国が、我らに抱く慈悲の国というイメージからは、かけ離れたものだ」
それに関しては、確かに王の言う通りだ。
だからこそ俺は、奴国の勢力を不弥国内から一掃し、防衛ラインを引いた後は、それ以上追撃せず、講和政策を取った。
だが、その方針は都萬彦によって崩されかけた。
王が止めてくれたとはいえ、不弥国は邪馬壹国に対して疑念を持っただろう。
「あの場で不弥国王の心を解きほぐすには、理を説くよりも、相手の懐に入り込む方が早いと判断したのだ。実際、儂は友達を作るのが得意での」
最後は冗談めかしていたが、王の顔は狡猾そのものだった。最初からこの人はそうだ。軽い物腰で笑いながらも、見るべきものは見ている。軽薄な振る舞いがどこまで本気で、どこまでが演技なのか。
「相変わらず、油断ならないな」
そう呟くと、王はにやりと笑った。しかしその笑みがふいに歪み、次の瞬間には激しい咳き込みが始まった。
「お、おい。大丈夫か」
咳は止む気配がない。慌てて背中を擦ると、日御子が素早く動き、部屋の隅の甕から粉末を掬い取り、王の口に含ませた。別の土器の水を柄杓で掬い、ゆっくりと飲ませる。むせ返りながらも、王はそれを呑み込み、ようやく呼吸が少し落ち着いた。
「日御子、これって…」
日御子は冷静に頷いた。顔には引き締まった緊張が残っている。酒のせいではなかったのだ。王を苦しめていたのは、別のものだ。
「すまんな、日御子ちゃん。少し楽になった」
王はそう言って杯を置いたが、胸の上下はまだ荒い。
「王様、こんな状態でどうして」
「都萬彦やお主に任せておきたかった。だが、そうも言っておれんようになったのでな」
それを言われると痛い。
確かに、王がいなければ、あのまま戦いを続けるしかなかっただろう。
「軍事的に考えれば、都萬彦の判断は正しかった。北と南からの同時攻撃。更には西の動乱で奴国はすぐに軍を返せないこの状況だ。おそらくあのまま戦っておれば、奴国の東の領土を削り取ることができただろう。そもそも、それが目的であったしのう」
王はそこで言葉を切った。
少しは落ち着いたようだが、普通に話すのも辛そうだった。
「だが、都萬彦はやり過ぎた。あの方法は、今の邪馬壹国の在り方にはそぐわぬ。それは、都萬彦も分かっておるだろう。だからこそ、あえてそのような行動を取ったとも言える」
王の目が遠くを見つめる。
都に残してきた、長子のことを思っているのだろうか。
「あやつは、日御子ちゃんの働きによって作られた邪馬壹国を、どうしても認めるわけにはいかなかったのだ」
日御子が目を伏せる。
都萬彦があのような強引な戦を仕掛けた理由を、王だけでなく、彼女もわかっているのだろう。
彼女とその弟、穂北彦は同母姉弟だが、都萬彦の母は違う。
しかも、母系の家格としては、御子の妹を母に持つ二人のほうが圧倒的に上だ。
都萬彦が日御子たちのことを、政敵としか思っていないことは、他人の俺でさえも気付いていた。
だからこそ、俺は都萬彦を利用して、日御子を国の中心から遠ざけようとした。
このような自体に陥ったのは、巡り巡って自分のせいでもあるのだ。
それに気づき、急に俺は、此処にいるのがいたたまれなくなった。
「案ずるな持衰。お主は間違っておらぬ。寧ろ感謝したいほどだ」
俺の心を見透かしたように、王が言葉をかけてきた。
その目には、先ほどのような鋭利な輝きはなく、日御子が時折見せる、温かさを宿していた。
「あやつが歪んでしまったのは儂の責任だ。父としても、王としても不甲斐ない。ならばせめてその尻拭いはせねばな」
「……奴国との停戦交渉か。けど、不弥国のようにはいかないだろ」
「無論、やり方は変える。なに、儂に任せておけ……」
そう言って王は笑ったが、苦しげな表情はそのままだった。
翌日。多模が迎えの兵とともに、王のいる屋敷の前に現れた。
だが、出てきたのは日御子ひとりだった。
「日御子、やっぱり王は」
「ううん、そうじゃない……」
日御子が俺を安心させるように呟く。
「眠りを深くする薬を、処方した……。今日は、しばらく目を覚まさない……」
この時代の睡眠薬のようなものか。
確かに、昨日の王の様子を見るに、そうした方が賢明だろう。
「けど、停戦交渉はどうするんだ。まさか日御子1人で」
「もう一人いる。サイ、あなたにも来てほしい……」
「俺に?」
「昨日言ったのは、このことだったの……。父上次第では、あなたの力が必要になるって」
言った。確かにそう言っていた。
あの言葉の意味はそういうことだったのか。
けど、俺が同行した所でどうなる?
正直、この状態から、一国の王を説き伏せられる自信はない。
「なんて、言ってる場合でもないか」
日御子だって不安なはずだ。
それでも、彼女は国を背負って立ち向かおうとしている。
なのに、俺がビビっててどうする。
「わかった、行こう」
俺はそう日御子に返事をした。
彼女の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「邪馬壹国王は、参られないのですか」
今度は多模が、不安げな面持ちで口を開いた。
「多模。あんな酔いどれを行かせる方が心配だろ。俺と日御子に任せておけ。なんせ、俺たちは“神の使い”なんだからな」
強がって笑ってみせる。
先の戦いで、多模はある程度、俺を信頼してくれるようになっていた。
「持衰殿がそう言うなら」と、一応は納得してくれたようだ。
「おい、持衰。姉上を頼んだぞ」
隣にいた穂北彦が、真剣な眼差しで俺を見据える。
「ああ、もちろんだ」
俺は僅かに微笑み、穂北彦に頷き返した。
王の不在について、穂北彦は何も言わなかった。
父の病状を、すでに聞かされているのだろう。
護衛の兵たちと共に、俺と日御子は邪馬壹国の中型船に乗り込む。
目指すは、奴国の本拠。
波の音が、甲板を叩く。
俺は自分に言い聞かせた。
これは、戦だ。
剣ではなく、言葉の戦いだ。
遠く霞む海の彼方を、俺はじっと見つめ続けた。




