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倭国大乱  作者: 明石辰彦
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第七話 決意の逃避

戦いがようやく終わった時、地に伏す屍の多さに、首長は息を呑んだ。

あの瞬間に耳をつんざいた仲間の叫び声も、武器のぶつかる甲高い音も、いまはもう遠い幻のように思える。


あれから数日が経った。

伊都国の調べによれば、攻めてきたのはやはり吉備国だった。

長らく出雲国など本州諸国と争っていたはずが、遂にこちらにまで矛先を向ける余裕を得たということか。


――敵は百余。我らはわずか四十。

誰もが討ち死にを覚悟したが、伊都国の援軍二百が現れ、形勢は一変した。


振り返れば、村の若者たちはよく耐えた。

傷だらけになりながらも、死力を尽くして矛を振るった。

中には、恐怖に呑まれてひたすら逃げ惑う者もいた。

だが、この戦力差で、しかも相手は訓練を積んだ戦闘集団である。長時間にわたり全滅を免れたこと自体、奇跡と言うほかない。まるで、何か見えざる力に護られていたかのように。


それでも死んだ者は多い。

首長は、戦に送り出した男たちの顔をひとりずつ思い浮かべ、胸に重く刻んだ。


――伊都国の援軍は、遅かった。

戦闘が長引いたのはそのせいだ。

あれほど近くに砦を構えていたというのに、我らが四十で百を引き受け、すでに半ば倒れ果てた後になって現れた。


偶然ではない。

奴らは意図して待っていたのだ。

我らが犠牲を重ね前線が崩れるほど、敵は深く懐に入り込み、疲弊する。

そこに現れて刃を振るえば、伊都国は最も効率よく戦果を得られる。

村の男たちが血を流し、地に散ったその死でさえ、伊都国にとっては計算の一部――。


首長は拳を握り、爪が掌に食い込む痛みでようやく己が生を確かめた。

悔しさではない。

冷たい確信が胸に広がっていた。

「このままでは、いずれ村そのものが食い潰される。」


思考は自然と、戦の最中から胸奥に抱いていた策へと沈む。

舟――すでに用意した十余艘。

女子供を含め、集落の人間すべてを運ぶことができる。

間道――岩山の背後に穿った、伊都国の集落の後方へ続く細い抜け道。遠目には決して気づかれぬ。

そして、吉備国へ放った密使。間道の存在を告げ、伊都国を背後から襲撃させる算段。


全ては、この日のため。

伊都国に飲み込まれる前に、村を海へ逃がすための布石。


首長はしばし目を閉じた。

戦場に横たわる亡骸のひとつひとつが、その背を押してくる。

元来、殺し合いを嫌い、同盟関係にある伊都国を売るなど思いもよらなかった。

だが今は違う。失われた命に報い、残された仲間を生かすためなら、すべてを賭ける覚悟がある。


葛藤はある。だが迷いは無い。


「もう、後戻りはできぬ。」


その言葉を心の奥で噛みしめ、首長はようやく顔を上げた。



夜。戦の余燼がまだ胸奥にくすぶる中、村の主だった者たちが集会小屋に集まった。

焚き火の炎が壁に揺らぎ、沈痛な顔を浮かび上がらせる。


首長は低く重い声で語り出した。

「……以上が我らの策だ。」


舟、間道、そして吉備国との密約。

すでに戦の前から準備を整えていたことを、首長は隠さずに打ち明けた。

この策を知る者はごく僅かで、今やその多くが戦で命を落とした。

思い出すたびに胸が曇る。


「だが首長……どこを目指すつもりなのだ?」

ひとりが震える声で問う。


首長は炎を映す瞳を細め、静かに告げた。

「――漢の国だ。」


小屋の空気が凍りついた。

「なんと……あの大海を越えてか?」

「狂気の沙汰だ!」

口々に声が上がる。


首長はうなずき、言葉を重ねた。

「馬韓から来た者が語っていた。倭や朝鮮のように小国が群立し、絶えず争うのではなく、ひとつの国の下に万民がまとまっている大国――それが漢だと。

そこでは小国同士の戦など、はるか昔に終わっている。」


「だが!」別の男が立ち上がる。

「海は危険すぎる。舟で渡れば、多くは波に呑まれるだろう。伊都国を吉備国に倒させ、その属国となればよいではないか!」


首長の瞳が鋭く光った。

「属国となって何が変わる? 伊都国が吉備国に替わるだけだ。搾取され、駒として死地に追いやられることは変わらぬ!」


重苦しい沈黙が広がる。

やがて別の者が低い声で問いかけた。

「……ならば漢でも同じではないのか。強大な国ゆえ、我らは結局、支配されるだけではないのか。」


首長は長く息を吐き、炎を見つめた。

「支配は避けられぬ。どこにあろうと、弱きは強きに従わねばならぬ。

だが違うのだ。倭や朝鮮のように小国が乱立すれば、我らのような小さき村は常に戦の駒として使い潰される。

だが漢はひとつの国。そこに入れば、もはや国同士の争いに駆り出されることはない。

我らは“駒”ではなく、“民”として数えられるのだ。」


さらに言葉を重ねる。

「漢は広大だ。異なる肌や髪を持つ者すら受け入れるという。

しかも法――掟に似たものがあるらしいのだが。その掟に従うならば、我らも受け入れられる。

古くからも倭国から漢に使いを出し、朝貢をもって属国と認められた国もあると聞く。

望みを託すなら、そこしかない。」


声を強めた。

「重き税を課されようとも、命を賭して戦に出るよりは安らぎがある。

子らが無駄に血を流さず、女らが嘆き悲しまぬ世を迎えることができる。

その未来があるのは、漢しかない!」


炎が爆ぜ、会議の場に緊張が張り詰めた。

やがて反論は途絶え、重苦しい沈黙の中に、次第に納得の色が漂い始める。


首長は静かに告げた。

「……長い航海には、古き掟が要る。死を背負い、禍を祓う者――持衰を立てねばならぬ。」


場が凍りついた。

誰も口を開けない。互いに視線を避け、重苦しい時間が流れる。


「ワシに任せろ。どうせ老い先短いしの……」

長老が小刻みに震える手を上げた。


首長は眉をひそめた。

「爺様、気持ちは嬉しいがそれは無理だ。持衰は航海の間、誰とも話さず、飲み食いも最低限に抑えねばならぬ。体力が持たぬ。」

「お前みたいな若造に言われんでも分かっとるわ!」

長老は声を荒げる。周りの村人達がそんな老人を宥める。


やはり占術を用いて選ばねばならぬか……首長がそう思いかけた時――。


「……俺がやる。」


若い声が闇を裂いた。

一同が振り返ると、声を発したのは、あの青年の姿だった。


首長は知っている。

狩りは不得手、食も細く、いつも同年代に比べ小柄だったことを。

独り言が多く、村人から気味悪がられていたことを。

そして先の戦では、ただ必死に逃げ惑っていたことを。


そんな少年が、今は静かに立ち上がり、まっすぐ自分を見据えている。


驚きとざわめきが広がる中、首長は深く息を吸った。


――なぜ、この男が。


焚き火が揺れ、青年の影を長く映し出した。




その夜の会議から幾日、やがて決行の日が訪れた。

首長の使者が吉備国から戻り、「伊都国を討ち、村を庇護下に置く」との返答を携えていた。

だが首長は、その約定をただの方便として胸に納めた。

我らが生き延びる道は、すでに海へと定まっている。


夜陰に紛れ、吉備国の兵が村に忍び込む。

首長は彼らを迎え入れ、密かに岩山の間道へと導いた。

「ここから先は、お前たちの戦だ」

吉備兵に聞こえぬよう、小さな声で案内役の村人達にそっと告げる。

兵らが闇に消えてしばらく経つと、遠くで鬨の声が響き、やがて火の粉が夜空に舞い上がった。


「今だ!」

首長は叫び、村に残した吉備国の見張り兵に斬りかかった。

同時に村人たちが一斉に動き、女子供を連れて闇を駆け抜ける。

舟を隠していた入り江までは息を切らす暇もない。


荒い波に照らされ、並ぶ舟影が見えた。

十余艘の舟――これこそが村の未来。

「急げ! 一人たりとも取り残すな!」

首長は声を張り上げ、指示を飛ばす。

子らを舟に押し込み、女たちを抱き上げて乗せた。

早くしなければ、異変に気づいた吉備国の兵達が船で追ってくるだろう。


間もなく、間道へ兵を導いていた村人たちも駆け戻ってきた。

七隻の舟が埋まりかけたところで、村人全員が舟に乗り込み終わった。


「随分と減ったものだ」


この策のため、舟を造り始めた時には百人近くいた村人も、今は半数近くになってしまった。

余った舟はそのままに、首長は出港を大声で出港を命じる。

疲労と恐怖に顔を歪めながらも、彼らは迷わず櫂を握る。



舟は次々と波間に滑り出した。

村人たちの荒い息遣いと、櫂が水を裂く音だけが夜を満たす。

遠くでは、伊都国の砦を焼く炎と怒号がまだ渦巻いていた。


首長は舟の舳先に立ち、暗き海を見据えた。

この地に留まれば、いずれ滅ぶ――その確信が胸を締めつける。


「……我らは海へ出る。」

己に言い聞かせるように、首長は低くつぶやいた。


月明かりの下、舟影は次々と闇へと溶けていく。

倭国の乱世を背にしながら。

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