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倭国大乱  作者: 明石辰彦
第ニ章

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第六十二話 命を削る儀式

仕事の合間を縫っては、御子の神殿へ足を運ぶようになった。


神殿に至る道のりは2つある。

ひとつは、王の宮の玉座の裏から続く参道を抜ける道。

もうひとつは、神域にある御子候補たちの住居区を回り込むルートだ。


おいそれと王の宮を突っ切っていくわけにもいかないので、

自然と御子候補たちの家々の前を通って神殿に向かうことになる。


御子の方から「訪ねてくるように」と言われていたため、

俺がその道を通っても見咎める者はいない。

……とはいえ、男子禁制の場を男ひとりで歩くのは、やはり慣れない。


神殿の奥に入ると、巫女たちが忙しなく動き回っていた。

この神殿の中には祭壇のほか、御子の住居区もあって、常に身の回りの世話をする巫女たちが控えているようだ。


「お、持衰くん。久しぶり」

「ああ、最近また忙しくて」


於登が俺に気づき、軽い調子で声をかけてきた。

於登の年齢は27。

もう少し若いと思っていた。

巫女たちの中では最年長で、実はヒミコに次ぐ、次期御子の最有力候補だったらしい。


「於登、ヒミコは?」


小声で尋ねる。


「ヒミコ様は、すでに祭壇の前で御子様のお側にいるよ」


於登も同じように声を潜めて答えた。

以前、家で会ったときに、ヒミコには今日この日に御子へ会いに来てほしいと頼んであった。


「ねえ、ヒミコ様をお呼びしたってことは……つまり、そういうことだよね」

「ああ。於登の頼み、というか、今では俺自身の願いでもあるけどな。そのためにここへ来た」


御子に呼び出されたあの日以降、俺は何度か神殿を訪ねるようになった。


毎日通うこともあれば、月に数度しか足を運べないこともあった。

けれど、どれだけ日が空いても、御子は俺を咎めることはなかった。

あの静かで、どこか陰のある笑顔で、いつも俺を迎えてくれた。


御子と会っても、特別な話をするわけではない。

今年は雨が多いとか、どこそこの村で新しい家が建ったとか――

まるで、どこにでもいる親しい友人同士のような会話を延々と繰り返した。


そんな穏やかな日々の中、一度だけ、また新たに邪馬壹国への加盟を願い出る国が現れた。


前回と同じように神託の儀が行われた。

その時、俺は以前の於登のいた場所、薄幕のすぐ目の前に控えていた。

それだけで、俺が既に御子側の人間になっているのだと、王と都萬彦は判断しただろう。

御子に近づくとはそういうことなのだ。御子の願いを二つ返事で引き受けてしまったのは軽薄だったかもしれない。いや、邪馬壹国にとって、神の言は絶対だ。

都萬彦ならともかく、王は必ず御子の意向に従うように俺を説得しただろう。

これは不可抗力だ。

だからあんなに睨まないでほしかったよ。都萬彦……。


御子の祝詞は、つつがなく終わった。


外から見れば、何の滞りもなく、いつも通りの神託だった。

幕の裏に控える巫女たちは安堵の息をつくのがわかった。祭壇の前の者たちも、静かに頭を垂れている。


だが、俺の耳には――違う音が聞こえていた。


幕の向こうで、御子の息が乱れている。

最初は、儀式の余韻にしては少し荒いな、と思った。

けれど、それは次第に浅くなり、途切れ途切れになっていく。


幕の向こうの光がわずかに揺らぐ。

御子の体が支えを失って、ほんの少し傾いたのが見えた。

すぐに於登が駆け寄り、他の巫女たちが布を持って御子を囲う。


誰も声を上げない。

何も起きていないかのように、神殿の中は静まり返っている。

幕から離れている王たちには、何も異常は察することができなかっただろう。


ただ、俺たちは知っている。

度重なる儀式が、徐々に御子の身体を蝕んでいることを。


「御子様にこれ以上儀式を行わせないようにする。そのために、今日ヒミコを呼んだんだ」


あの時の苦しそうな御子を思い出しながら、俺は於登に告げた。

於登も俺の言葉に頷き返す。


「お願いね。君とヒミコ様が頼りなの」


俺は於登と別れ、祭壇の脇にある、別棟へと続く出口へ向かった。

その奥が、御子の住まう区画になっている。

ここで御子は食事を摂り、身体を休めるのだ。


中に入ると、既にヒミコがいた。

彼女は御子の正面に静かに腰を下ろしている。


俺はヒミコに目で合図をした。

ヒミコも軽く頷き返す。


「御子様、お久しぶりです。間が空いてしまってすみません」

「いえ、持衰殿。こうして時々顔を見せてくれるだけでも十分です」


御子は笑顔で返してくれた。

今日は元気そうだ。

というより、儀式さえ行わなければ、彼女はいつも穏やかで健康そのものに見える。

だが、神託を告げたあとの憔悴ぶりが、回を重ねるごとに確実に酷くなっているのだ。


ナビ曰く、御子の“神託”の正体は、自発的なトランス状態に陥り、意識の奥に浮かんだ幻覚を「神の声」として認識しているに過ぎないという。

香に混ぜられた山の茸と少量の酒が、脳を軽く揺らし、感覚の境界を薄くする。

そこに、何百回と繰り返されてきた祝詞のリズムと呼吸が重なれば、現実と夢の境が曖昧になる。


「御子はね、意図的にその境界を越えてるんだよ」

ナビに言われた言葉が頭の奥に響く。

「脳のセロトニン系が過剰に働く状態を長年繰り返せば、神経は磨耗する。感覚は鋭くなるけど、身体は確実に壊れていく。御子になる条件って、如何にこのトランス状態に上手になることができるかどうかなんじゃないかな」

「じゃあ、御子候補達の修行っていうのは……」

「御子と同じことを、日常的に行っているんだろうね」

「そんな……。じゃあ、ヒミコや於登も」

「ヒミコの場合は大丈夫だと思う。彼女はトランス状態に陥る前に、すぐに何らかの“声”を聞くことができるから」

「共感覚か」


ナビが頷く。


「でも、御子やその候補たちにその力はない。普通の人間が御子になるには、おかしな話だけど、自分で頭を狂わす修行をしなければならない」


背筋がゾクリとした。

居もしない神と交信するために、日々自分を死へと近づけている。

それでは、漢で見た太平道のような邪教と同じようなものじゃないか。

俺は都萬彦とは別の意味で、この邪馬壹国のシャーマニズムに嫌悪感を抱いた。


神を信じる邪馬壹国の人々には申し訳ないが、こんなふざけた慣習は叩き潰す。

俺は覚悟を持って、御子の前に腰を降ろした。


「御子様。今日は折り入って、御子様にお話ししたいことがあるんです」

「持衰殿がそのようなことを言うのは初めてですね。聞きましょう」

「御子様は、俺に初めて会った時にこう言いましたよね。自分は長くないから安心していいと」

「確かに言いましたね」


静かに笑いながら、御子が肯定する。


「それは、貴女の身体が神託の儀に耐えられなくなる日が近い。そういう意味だったんですよね」

「……そうですね」


僅かな間を置いて、御子が答えた。


「ですから、このように持衰殿にお時間を取らせるのは、あともう少しです」

「いえ、そうはさせません」


御子の言葉をきっぱりと否定する。


「どういうことですか……」


御子の顔に、当惑の色が浮かぶ。


「貴女にはもう、神意を問わせません。普通に祈りを捧げるだけにしてください」

「ですが、邪馬壹国に加わりたいという者らは、また必ず現れます。その際に神意を得なければ……」

「ヒミコがやります」

「ヒミコが?」

「そのために、今日ここにヒミコを呼んだのです」


御子は目を丸くした。


「こんなことを言っては失礼ですが、ヒミコには御子様たちにはない、特別な力がある。それはご存知ですよね」

「そうね。確かにヒミコには、私が見えないものを見る力がある。流石は我が妹の子だわ」


御子がヒミコを優しく見つめる。

その顔には嫉妬心など微塵もなく、ただ才能溢れる姪に対する慈しみだけが宿っていた。

ヒミコは少し恥ずかしそうに顔を俯ける。


「御子様にお願いがあります。今後、邪馬壹国に加わる者を見定める際は、全てヒミコの意向に従うように。そう“神意を得た”と告げてください」

「ええ、それはちょっと……。神の意志を騙るなんて」


御子はかなりの抵抗を示した。

このリアクションは想定内だ。


「御子様、お忘れですか?俺は海神の化身である持衰です。俺がヒミコに任せろと言っているんですから、それがもう神意なんです」


俺は思い切りハッタリをかました。

だが、これが少し効いた。


「確かにそうですが、持衰殿の神と、この地の神は別の神ですから……」

「いえ、神は神です。神は仲良しなので、誰かがOKって言えばもうみんなOKなんです」

「そうなのですか? 私はこの地の神としか話したことがないので……」

「そうなんです。俺は漢でも倭国でも、様々な地で神に会ってきたので分かるんです」


無論、嘘である。

ヒミコにはバレバレだろうが、何も言わずに黙ってくれている。

彼女も今は、神よりも御子を優先してくれているのだろう。


「それに、これはヒミコの御子としての修行にもなると思いませんか? 神が与えた“課題”なんですよ」

「課題?」

もう一押し。


「そうです。だからこれは神のためでもあるんです。お願いします、御子様。この先は、ヒミコと俺に任せてくれませんか」


俺は御子に向かって頭を下げた。


「わたしからも、お願いします……。御子様……」


ヒミコも俺に続いて、頭を下げる。

長い沈黙。

そして、御子が溜息を吐いた。


「わかりました。確かに、私よりもヒミコの方が、御子としての素養がある。それは明らかですしね」


そう言うと、御子は微笑を浮かべた。


「今後、他の国々とのやり取りは、ヒミコたちに任せましょう。これでいいですね」

「ありがとうございます、御子様」


俺はもう一度、深く頭を下げた。


「けど、持衰殿には驚かされました。このような行く末は見えていませんでした」

「いえ、驚くのはこれからかもしれませんよ」


御子が首を傾げる。

俺は懐から薬研と薬草を取り出した。


「ヒミコ、これでいいか」

「うん……」


俺が家の薬方所から、ヒミコに頼まれて持ってきたものだ。

ヒミコに渡すと、素早く薬草をすり始める。


「持衰殿? ヒミコ……?」

「御子様のお身体は、弱っています。薬が、必要です……」


ヒミコが薬草を調合しながら、淡々と告げる。


「今後は……わたしが調合した薬を、服用して頂きます。食事内容も、私が指示して、用意させます……」

「えー、ヒミコ、私、薬は苦手で……」

「指示に、従って、頂きます」


ぎろりとヒミコが御子を睨みつける。

有無を言わさぬ響きがそこにあった。


「……はい」


流石の御子も、その迫力に圧倒されたのか、思わずといった様子で頷いていた。




嫌がる御子に無理矢理薬を呑ませ、俺とヒミコは御子の部屋から出た。


「ヒミコ様、持衰くん。どうなりました」


すぐに於登が駆け寄ってくる。

余程心配だったのだろう、俺たちが出てくるのをずっと待っていたようだ。


「うまくいった。今後、御子様が神託の儀を行う機会は殆どなくなるだろう。ヒミコに処方した薬も呑んでもらう。俺とヒミコがこれない時は、於登たちに渡すから、御子様が嫌がっても無理にでも呑ませてくれ」


実際、今さっきも苦労した。

「苦いのヤダー」と、まるで駄々っ子のようにグズり続け、薬を呑ませるにかなり骨を折った。

今後は食事に混ぜるとか、工夫が必要かもしれない。


「けど、そのうち徐々に回復してくると思う。安心してくれ」


そういうと、於登は涙を流しだした。


「ありがとう、持衰くん。ありがとうございます。ヒミコ様……」

「お礼は、いらない。於登が、サイに言ってくれたから……。きっかけをくれたのは、あなた……。貴女が、御子様を見ててくれた。そのおかげ」


ヒミコが於登の頭を軽く撫ぜる。


「ありがとう、於登……」

「ひみこさま〜」


そう言って於登は、ヒミコの細い体に抱きついた。

ヒミコは呆気に取られつつも、黙って於登の背中に手を回し、赤子をあやすように撫で続けていた。

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