第六十一話 御子
ここに来るのは、2年ぶりだ。
王の宮からさらに奥へ進んだ先に、御子の神殿は静かに佇んでいた。
神殿の四方は白い布で覆われ、光を柔らかく透かしている。
あの日見たままの、静謐な姿だ。
王、都萬彦、俺。
護衛の兵が2人。
そして今回、邪馬壹国に恭順の意を示した、小国の王が、自ら出向いてきていた。
彼の国を受け入れるか否か。その是非を問うため、俺達は神殿へと赴いたのだ。
中は思った以上に広かった。
高い天井まで白布が張り巡らされ、わずかな光が幕越しに滲んでいる。
奥には薄い幕が垂れ下がり、その向こうに御子の姿がうっすらと浮かんでいた。
細い輪郭だけが光に縁取られ、まるで人ではない何かのように見える。
幕の手前には、ひとりの侍女が控えていた。
白い衣に淡い紫の帯を締めている。顔立ちから察するに20過ぎだろうか。
王と都萬彦は、幕から離れた場所に胡座をかく。
俺もそれにならった。
「御子よ、我らが邪馬壹国に加わりたいと申す、ある国の王を連れて参った。かの者らを受け入れるか否か。神に問うてくれ」
王が重々しく御子に語りかける。
奥で、御子が微かに頷く気配があった。
僅かに衣擦れの音がして、御子の影が静かに動く。
おそらく後ろを向いたのだろう。
背後には、幕で遮られてはっきりとは見えないが、祭壇のようなものが控えている。
御子の腕が大きく上がり、そして振りかぶった。
神殿の中に、そしてこの神域全体に、鈴の音が響き渡る。
あの時に俺が聞いたのと、まったく同じ音色だった。
やがて、鈴の音に合わせるように、御子の祝詞が流れ出す。
外に控える者たちには、自然が奏でる音と相まって、微かに届くその歌声が幻想的に響いていることだろう。
だが、間近で聴くとその印象はがらりと変わった。
声と音色の美しさは変わらない。
だが次第に、その歌声は荒々しさと苦しみを帯びていく。
心がざらつく。
けれど、この声の中にずっと浸っていたい。
不快と陶酔が同時に襲ってくる。
初めて味わう感覚だった。
やがて、鈴の音が途切れ、神殿に沈黙が戻る。
幕の向こうからは、御子の乱れた息遣いだけが微かに聞こえてきた。
「神意を得ました。外に控える彼の者らを、邪馬壹国に迎え入れるようにとの思し召しです」
侍女が恭しく頭を垂れ、俺たちに伝える。
御子と彼女が言葉を交わした様子はない。
どうやって神意の結果を察したのか。
彼女にしかわからない合図があるのか、それとも単なる予定調和なのか。
今の俺には判別がつかなかった。
王は侍女の言葉に重々しく頷き、
都萬彦はどこか白けた顔をしていた。
「神のご意向、確かに承った。お言葉を賜りしこと、感謝申し上げる」
そう言って王は深々と頭を下げた。
俺と都萬彦も、それに続く。
「では、これにて」
――終わりか。
俺は小さく息をつく。
そして、外へ出ようと腰を浮かしかけたその時。
「持衰殿はお残りください」
「え?」「何だと」
俺の疑問符と、都萬彦の声が同時に重なった。
「どういうことだ。なぜ持衰が残らねばならんのだ」
「お答えできません」
「なぜだ」
「御子は持衰殿のみに用向きがお有りとのことです。である以上、余人がその内容を知ることは許されません」
「俺は王の子だぞ。この国の中で起こることを、俺には知る権利がある」
都萬彦の中で、怒りが膨らんでいくのがわかった。
邪馬壹国において、実務はすべて王が担っている。
だが、御子の権威はそれに並ぶ。
ヒミコと親しい俺が、その御子に近づくことを、都萬彦が良しとしないのも無理はない。
「黙れ。都萬彦」
女の声。
侍女のものではない。
ならば――誰が。
視線は自然と、薄幕の向こうへと向かう。
都萬彦の顔は驚きに歪み、王もまた意外そうな表情を浮かべていた。
この声の主は、まさか――
「都萬彦。神の御前で騒ぎ立てるな。
心配せずとも、そなたの恐れているようなことにはならぬ」
凛とした声。
その響きには、有無を言わせぬ力があった。
「……わかりました」
苦々しげに呟き、都萬彦は大きく足音を踏み鳴らしながら、神殿を後にする。
「ではの、持衰」
王も俺に声をかけ、都萬彦のあとを追った。
取り残された俺は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「ご挨拶が遅れました、持衰殿。
わたくしは御子に仕え、お世話をさせていただいております御子候補の一人、於登と申します」
女性が静かに一礼する。
言われてみれば、以前、神域の居館で見かけたことがある気がした。
あの時――ヒミコと共に神域を訪れた際、寄ってたかって俺を非難していた巫女たちの中に、彼女もいた。
だが今の於登は、あの時とはまるで印象が違っていた。
それもあって、すぐには彼女を思い出せなかったのだろう。
「於登」
御子が、静かに於登の名を呼んだ。
「よろしいのですか」
於登が何かを御子に確認する。
わずかな沈黙ののち、幕の向こうで御子がゆっくりと頷いた。
於登はおもむろに腰を上げ、目前の薄幕に手をかける。
そして――音もなく、それを取り払った。
俺と御子を隔てていたものが消え、
次の瞬間、御子の姿が静かに露わになる。
薄幕が払われた瞬間、光が静かに流れ込む。
その中に、御子がいた。
年のほどは、わからない。
若くも見えるし、すでに熟年の域に達しているようにも見える。
肌は白く透けるようで、けれど目元にはかすかな陰りがあり、
それが年齢を感じさせるのか、それとも重ねた祈りのせいなのか、判断がつかない。
髪は黒に、銀をわずかに混ぜたような色。
長く背に流れるその髪が、光を受けて静かに揺れている。
その色合いが、確かにヒミコの親族であることを思わせた。
綺麗な人だった。
けれど、ただそれだけではない。
見つめていると、どこか体の奥を掴まれるような感覚になる。
「ようやく会えましたね、持衰殿」
御子が俺に向かって、穏やかに微笑みかける。
「本来は、神の許しを得た者にしか顔を見せることは許されません。特に男子とは、近しい血縁でもない限り、禁忌とされております」
「え、じゃあ俺は……」
周囲の空気があまりに厳かで、話しかけるのも憚られた。
けれど意を決して、おずおずと御子に言葉を投げかける。
「貴方のことは、そこにいる於登たちから聞き及んでおりました。失礼ですが、持衰殿は女人と媾合うことが出来ぬ身体だとか」
一瞬で顔が赤くなるのがわかった。
於登の方をちらりと見ると、彼女は目を伏せたまま微動だにしない。
「御子が男子に姿を見せてはならぬのは、神が嫉妬し、災いをもたらすからです。ですが、持衰殿の場合は違います。神の不興を買うような真似を、そもそも出来ぬのですから」
……本当のこととはいえ、あまりにストレートだ。こんな形で身体のことを言われるのは、流石に恥ずかしい。俺は黙って俯くしかなかった。
「ああ、申し訳ありませぬ、持衰殿。少しあけすけでしたね」
御子が少し慌てて笑みを浮かべる。
「ですが、恥じ入ることはありませぬよ。寧ろ誇るべきことです。貴方がそのような身体を与えられたのは、おそらく天意によるものでしょう」
「天意?」
「そうですとも。だからこそ、貴方は常に“持衰”であり続けられる。そして、こうして私と直接言葉を交わせるのです」
そう言って今度は、さっきよりも柔らかく、少女のように微笑んだ。
嬉しいことがあった時に無邪気に笑う、そんな顔だった。
天意。神の意志か。
この人の言っていることも、あながち間違いではない。
神を、ナビや“歴史の強制力”に置き換えるならばだが。
「お陰で、貴方に私の願いをお伝えすることが出来ます」
「願い……ですか?」
「はい。わたしが死ぬまで、わたしの傍にいてくれませんか?」
……顔がますます熱くなる。
それって、まるでプロポーズじゃないか。
「もちろん、常にというわけではありませぬよ。持衰殿にやるべきことが多いことは承知しております。それに、安心してください。そもそもわたしは、それほど長くはないでしょうから」
「……それって、どういう」
御子は俺の疑問に答えず、相変わらずの笑顔のまま言葉を続けた。
「毎日でなくとも構いません。短い時間でもよいのです。ですが、なるべく可能な限りここへ来て、私と話してもらえませぬか」
「それは……構わないですけど」
「聞き入れて下さいますか。感謝いたします」
「……え、ちょっと待ってください。まさかお願いって、それだけですか?」
「そうですよ、持衰殿」
時々会ってお喋りするのが、この人の願い?
それに一体、何の意味があるんだ。
もっと重々しいことを覚悟していたぶん、拍子抜けした。
「えっと、すみません。一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ、持衰殿」
「御子様と俺がお話しするのに、何か意味があるんですか?いや、嫌だとかそういう意味じゃないんですけど……」
悪く取られないように、最後に慌ててフォローを入れる。却って嘘くさく聞こえたかな。
でも、この人に会うのが嫌ではないのは本当なんだ。
「意味ですか……それはきっと、わたしが死んだ後にわかると思います」
御子は静かに目を細めた。
その顔は、美しく、そして威厳に満ちていた。
今さっきまでの柔らかな印象だった御子と、同じ人間とは思えない。
一瞬、俺の目には、巫女というよりも、この邪馬壹国に君臨する“女王”のように映った。
御子との話を終えた俺は、於登に神域の外まで送ってもらうことになった。
神殿を出ると、陽の光が眩しい。
まるで別の世界に出てきたかのような錯覚にとらわれた。
そのまま於登の後ろについて、神域の外へと向かう。
歩いている間、於登は一言も口をきかなかった。
ヒミコの居館で見た彼女と、先ほど御子に仕えていた彼女。
一体、どちらが本当の彼女なのだろう。
「ここまでで、よろしいですね」
丘の斜面に差しかかる。
ここを下れば、俺の家にたどり着く。
「うん。ありがとう、於登さん」
俺が礼を言うと、於登は思いきり息を吸い込み、思い切り吐き出した。
「ぷはぁ〜、肩凝った〜!」
「え? え?」
於登は首を左右に倒しながら、肩を揉んでいる。
「御子様のことは大好きだけど、やっぱり緊張するよね。しかも今日は王と都萬彦様まで来てたし。あの人、顔めっちゃ怖いし」
「お、於登さん……?」
「けどさ、御子様が持衰くんにあんなお願いするなんてね。何をお考えなのかな」
「いや、俺に言われても……」
「でも、こうなったのもわたし達のおかげだよね?だって、わたし達が御子様に君のことをお伝えしたから……」
そう言って、於登の視線がふと下を向く。
「君が、その……なんていうか、不能だって――」
言い終わる前に、於登は拳で口を押さえ、肩を震わせた。
笑いを堪えているのが、まるわかりだった。
「なんだよ、あんたいきなり。キャラ変わりすぎだろ」
「そりゃあ、御子様や王族の方々の前で、滅多なことできないでしょ」
於登は目尻に浮かんだ涙を、細い指で拭った。
「大体、御子様に俺のことを伝えたのを、まるで恩に着せるみたいに言うけどな。
こっちはそんなこと頼んでないんだよ。余計なことしやがって」
「余計なこと〜? そうですか、そうですか。そんなことを仰いますか、持衰殿は。
だったらもっと余計なこと言っちゃおっかな〜。
持衰くんが内緒でヒミコ様の家に行ったり、狩りに誘って山に連れ出したりしたこと――
王には伏せてあげてたのにな〜。それも言っちゃおっかな〜」
「な、何で山のことまで……」
「あ、ホントにそうだったんだ。前の秋ね、ヒミコ様が宮崇様の所から帰ってきた時、時々お体に土汚れがついてたの。そんな時に限ってヒミコ様、やたら上機嫌だし、持衰くんも決まって休みだったから、もしかしてって思ってたんだけど」
……この女、カマかけやがった。
「王にバレたら大変だよ。あの方、普段は温厚だけど、ヒミコ様に関しては別。もし知られたら、ほんとに処断されちゃうかもね」
ニヤニヤ笑いながら俺を見上げてくる。
完全に分が悪い。
「すみませんでした。黙っててくれてありがとうございました。今後も、ご内密にお願いします」
「うんうん、分かればよろしい。まあ、これから顔を合わすことも増えるだろうし、仲良くしておいて損はないと思うよ」
於登は満足そうに頷いた。
覚えてろよ……。
「なあ、仲良くなるついでに、御子様について質問してもいいか?」
「なに? 答えられないことも多いと思うけど」
御子の名を出すと、さすがの於登も神妙な顔つきになる。
「御子様が最後に言っていたよな。もう長くないって……。病気か何かなのか?」
「ああ、そのこと……」
於登が目を伏せる。
「わたしにも分からないの。確かに、最近は儀式のあとにすごくお辛そうにしている。さっきだって……。見た目はあまり変わらないけど、お年もお年だし、無理もないのかなって、それくらいにしか思ってなかったんだけど……」
そうなのか。
距離が離れていたからか、全く気づけなかった。
さっきも、本当は俺と話すのだって、相当無理をしていたのかもしれない。
「じゃあ、於登にもはっきりしたことは分からないのか」
「うん」
なら、あの言葉は単純に、自分も年が年だから、とか、そういった類いの話しだったのだろうか。
「だからね、わたしからも、持衰くんに頼みがあるの」
「頼み?」
そう言った於登の顔には、さっきまでの軽口の影もなく、ただ真剣な光だけが宿っていた。




