第六話 檻の中の平和
伊都国への従属から11年が経った。西暦170年ということになる。
そして俺はこの時代で22歳になった。
いつの間にか現代より、こちらにいる時間の方が長くなってしまった。未だに弥生人にはなりきれないが……。
伊都国に降ってすぐの頃は、契約通り何度も男たちが徴兵され、二度と戻らなかった者もいた。
そのたびに泣き声が響き、俺は胸の奥がざわついて眠れなかった。
けれど、四、五年が過ぎた頃からだろうか。
ある程度各クニの勢力圏が定まり、小康状態のような形におさまった。戦の影は遠のき、村は落ち着きを取り戻していった。
子供たちは川辺で走り回り、女たちは笑いながら布を洗い、男たちも漁や畑仕事に精を出す。
俺も年が上がり、みんなと同じように遊び、同じように飯を食う。
――まるで、戦なんて最初からなかったみたいに。
「……なんだか、みんな笑ってるな。」
川辺で遊ぶ子供たちを眺めながら、俺はつぶやいた。
「いいことじゃない? 平和ってやつだよ。」
俺の横に、いつの間にかナビが佇んでいた。相変わらず突然消えて突然現れるが、流石にもう慣れてしまった。
「でも……平和って言えるのかな。
男たちが前みたいに連れて行かれることは減ったけど、税はよりきつくなってる。」
「そうそう。魚も米も布も、たくさ〜ん伊都国に持ってかれる。
しかも馬韓からの使節が持ってくる珍しい品も、他のクニとの交易品も……伊都国がごっそり吸い上げる。
そして、まずあそこに全部集められる。」
ナビは背後に目をやり、にやりと笑った。
振り返れば、俺たちの村のさらに奥に築かれた伊都国の集落が見える。
最初はただの小屋だったのに、今は堂々とした柵や見張り台まで備わっていた。
「……まるで俺たちの背中に剣を突きつけてるみたいだな。」
「怪しい動きがあればすぐにズブリだね。向こうが高台だから、万一反乱が起きても圧倒的に自分達が有利。そもそも戦力の差がケタ違い。
さ〜ら〜に〜、この位置関係だよね。君らの集落は海岸沿い、伊都国のはそのすぐ後ろ。
もしも吉備とか出雲とか、本州のクニが海を渡って攻めてきたら……?」
ナビは両手を広げて、おどけるように言った。
「――はい、君らが盾になってくれるってワケ!真っ先に敵とぶつかるのはこの集落!
伊都国は前線基地をタダで手に入れたようなもんだね〜。」
俺は唇を噛んだ。
ナビの言う通りなのだ。伊都国は海沿いにあるメリットを殆ど享受し、逆にデメリットのほぼ全てを俺達に押し付けている。
海の向こうから舟が押し寄せてくる光景が、頭に浮かんでしまった。
その時、この村はどうなるんだろう……。
ナビの言葉が頭から離れないまま、俺は海岸へ足を運んだ。
夕暮れの水平線は、赤く染まって静かに光っている。
漁を終えた舟がいくつも戻り、子供たちは浜辺で追いかけっこをしていた。
「……このまま何も起こらなきゃいいんだけどな。せめて俺がここで生きている間は……。」
思わず漏らした声に対し、ナビが何か言いたげに見つめてくる。
何だよ?
声をかけようとしたその瞬間ーー。
「火だ!」
見張りの叫び声が響いた。
俺は反射的に顔を上げる。
海のかなた、遠くに小さな光の点が瞬いていた。
ひとつ、ふたつ……いや、もっとだ。
波間に揺れる篝火が、いくつも見え隠れしている。
「舟だ……!」
近くにいた大人が、低い声でそう言った。
ざわめきが広がる。
「吉備か? それとも出雲か……」
「なんだ、あの数は……」
村人たちの顔から、あっという間に笑みが消えていった。
漁の網を抱えたまま立ち尽くす者、子供を抱きしめる者。
空気が、ぴんと張りつめていく。
背後では、集落の男たちが慌ただしく走り出していた。
「召集をかけろ!」
「男たちを集めろ!」
「狼煙を上げろ!伊都国の奴らにも知らせるんだ!」
怒号が激しく飛び交う。
ナビが俺の方に顔を向け、囁いた。
「……言ったでしょ?平和はいつか必ず崩れる時がくるって。」
俺は喉を鳴らしながら、陽が沈みかけた海に浮かぶ灯りを凝視した。
数は10隻以上。
これまで見てきたのは大人が6〜8人ほどしか乗れない丸木舟ばかり。
だが、今こちらに迫ってくるのは一回り以上大きな準構造船。
10人どころか、それ以上を運べるはずだ。
その船が10隻以上――百を超える兵が一度に襲来する。
漕ぎ手の動きは恐ろしいほど揃っていて、波間に打ちつける櫂の音は巨大な鼓動のように浜へ響く。
前後に分かれた二列の隊形、ゆるぎない篝火の列。
単なる村と村の諍いではない。
すでに「軍隊」と呼んでもいい組織が、目の前にあった。
「……やばいな」
息を呑む俺の横で、ナビも緊張した面持ちで正面を見据えている
あっという間に船首が砂浜に突き立ち、楯を掲げた兵が次々と飛び出す。
湿った砂を蹴り上げ、楯を前に一斉に構えた。
すぐ後ろから槍の列が続く。
分かりきってはいたが――やはりこいつらは敵だ。
しかも、真正面から堂々と攻めてくるなんて。
後方から味方の矢が敵に向かって飛んでいくが、その尽くが盾の壁に阻まれる。
楯の壁の隙間から槍が突き出された。 まるで一枚の黒い鉄の板が、じりじりとこちらに迫ってくるみたいだった。
「出ろ!出ろぉっ!村に近づけるな!女子供を守れ!」
首長が叫ぶ。 村の男たちは鍬や槍を手に取り、必死に押し返そうとする。
俺も流れに押されるように武器を握らされた。 震える手に、木の柄が汗で滑る。
「や、やっぱり俺も行くのか……!」
「当たり前でしょ!!観測者だからって免除なんて無いんだから!」
横でナビがしっしっ、と手を振っている。行け。ということなのだろう。
敵兵が迫ってくる。 刃が光る。 俺の体はすくみ上がり、ただ必死に槍を前に突き出すしかなかった。
――がつん! 硬い感触がした。 槍の穂先が相手の兜に突き刺さらず、ただ頭をはじいただけだった。 敵兵はよろけて砂に突っ込み、俺も同じように尻もちをつく。
「お、おいナビ。今の見た?死ぬとこだっただろ」
「うんうん、大丈夫大丈夫。ほら、相手の動き遅く見えるでしょ?」
「……え?」
次に斬りかかってきた敵の剣が、まるで水の中を通っているようにゆっくり見えた。振り下ろされる刃、相手の肩の力み、足の踏み込み――全部がはっきり分かる。
「観測者補正だよ。簡単に死なれたら困るから、ちょっとだけ人間離れした動体視力と反射速度をね、プレゼントしてあるの」
「おい、それ先に言え!」
半ばやけくそで槍を振ると、敵の剣を弾き飛ばせた。信じられない。さっきまであんなに怖かったのに、今は相手の動きが手に取るようにわかる。
「おおおおおっ!」
喉が裂けるほど叫びながら、俺は槍を突き出した。
――ぶすり。
手応えは、木を突いたのとも、魚を突いたのとも違った。
ぬるりとした抵抗のあと、急に柔らかく沈み込む。
「……っ!?」
敵兵の目が大きく見開かれた。
次の瞬間、口から赤い泡が吹き出し、俺の手に伝わる槍が震える。
ぐしゃ、と嫌な音。
腹の裂け目と突き刺さった槍の柄の間から、血とともに臓腑がずるりとはみ出した。
どす黒い血が砂に落ち、潮の匂いに混じって生臭さが一気に広がる。
「――あ……」
俺は言葉を失った。
腕が痺れて、力が抜ける。
槍を放すと、敵兵は膝を折り、背中から崩れ落ちそうになる。
腹に刺さったままの槍の穂先が地面に刺さり、支えとなったことで、敵兵の身体は斜めになった中途半端な体勢で動きが止まる。
なぜかその顔は見下ろすようにこちらに向けられ、その目はまだ俺を見ていた。
俺を睨みつけたまま、ーーただそう見えただけかもしれないが、ズルズルと、ゆっくりと槍の柄を伝って地に倒れこんでいく。
震える足で後ずさりしながら、ふと周囲を見渡した。
そこには――地獄が広がっていた。
浜辺のあちこちで、村の男たちと敵兵が取っ組み合い、血飛沫が舞う。
斬られた腕が砂に転がり、叫び声が夕焼けの波にかき消される。
子供の頃から知っている顔が、頭を割られ、目を見開いたまま倒れていた。
「や……やだ……」
吐き気が込み上げ、喉の奥で何度もせり上がる。
足は逃げ出したいのに、体は硬直して動かない。
ふと、ナビの姿が視界に入る。戦場の真ん中に美しいナビが佇む様は、滑稽なくらいミスマッチだった。
助けを求めるように彼女に視線を向けるが、ナビは申し訳なさそうな表情を見せるだけだ。
ナビの向こう側から砂を蹴立てて、別の敵兵がこちらへ突進してくる。
彼女の横を素通りし、俺に剣が届く間合いに入ると、素早く振り被る。
血に濡れた刃が、西陽をぎらりと弾いた。
「――あ、あああっ!」
声にならない叫びを上げ、俺は先程の兵の腹に刺さったままだった槍を引き抜いた。
穂先には肉片がまとわりついている。
怖い、怖い。もう人なんて殺したくない。
だけど斬られたら死ぬ。
次の瞬間、敵の動きがまたゆっくりと見えた。
剣が振り下ろされる軌道、足の踏み込み。
反射的に身をひねると、刃は俺の頬をかすめて砂に突き刺さった。
「ひぃっ!」
やけくそで槍を横に払う。
ごつん、と敵兵の顎を打ち上げた。
倒れ込むその胸に突き刺せば、また殺してしまう――そう思って、必死に足を引いた。
「お、おれは……殺さない……!」
半ば叫ぶように吐き出す。
敵兵は鼻血を垂らしながらも立ち上がってきた。
それでも俺は、突き刺さず、突き飛ばすように柄で押し返す。
観測者補正のおかげで動きが見える。殺さずにいなすことも、できなくはなかった。
……けれど、周囲では違った。
仲間が腹を裂かれ、敵兵が槍に串刺しにされ、血と悲鳴が浜を埋め尽くす。
生と死の境目は、砂に流れる血潮のようにぐちゃぐちゃに溶け合っていた。
どれほどの時間が経ったのか分からなかった。いつの間にか辺りは暗くなっている。月明かりと、焚かれた篝火の光を頼りに戦闘は続いている。
俺は息を荒げ、汗と血にまみれながら、ただ必死に槍を振るっていた。
相手を突き殺さないように、柄で叩き、足を払う。
それでも敵兵の怒号と血潮は、容赦なく俺の全身を飲み込んでくる。
「もういやだ……!」
涙混じりに叫んだその時――。
「――伊都国の兵だ!」
誰かの声が響いた。
振り返れば、背後の拠点から甲冑をまとった兵たちが一斉に駆け下りてくるのが見えた。
鋭い掛け声とともに、統制の取れた槍の列が敵兵を押し返していく。
村人たちの乱戦とはまるで違う、冷酷で計算された力だった。
「しまった。前に出過ぎている!」
敵兵の声が聞こえた。
「撤退しろ!」
将らしき男が叫ぶ。
やがて本州から来たであろう兵たちは舟へと駆け戻り、慌ただしく沖へと退いていった。
砂浜に、静寂が訪れた。
波の音が戻ってくる。
だが、足元には倒れ伏した仲間たちと、赤黒い水溜まりが広がっていた。
俺は膝をつき、吐き気を堪えきれずに砂浜に腹の中の物をぶち撒ける。
胃液で喉が焼けるように痛む。
体は小刻みに震え、歯ががちがちと鳴って止まらない。
もう槍を握る力すら残っていなかった。
ナビは、いつもの軽口を一言も発することなく、俺の側にしゃがみ込んで震える背中にそっと手を置いた。
温かい体温が俺の背に伝わる。
そして、遠くに小さな灯りの見える暗い海をじっと見つめていた。
――こうして、俺たちの「檻の中の平和」は終わった




