第五十六話 ヒミコの想い
ヒミコの住まいは神域に隣接した居館にあるそうだ。
ヒミコだけでなく、何人かの御子候補の住居も建っているとのことだった。
基本的には、ルームシェアのような形だけど、ヒミコだけは専用の建物が用意されている。
王族故の特別待遇と言った所か。
居館へは、御子の祭壇へ向かう時のように、王の宮を通る必要はなく、脇道から入ることができるみたいだ。
細い石畳の脇道を、ヒミコの後ろ姿を追いながら進む。
足元には白い砂が敷かれ、月明かりを反射して淡く光っていた。
それが、まるで“神域への導線”のように思えた。
やがて林が途切れ、丘の斜面に沿って数棟の建物が並んでいるのが見えた。
いずれも小ぢんまりとした竪穴式の家だが、屋根の中央には香を焚くための小さな穴が空いており、そこから白い煙が静かに立ちのぼっている。
ヒミコが指さす。
『あそこが……みんなの居館。御子候補の子たちが、修行しながら暮らしてるの』
その奥、ひときわ高い場所に、他よりも少し大きな建物が一つ。
木の柱は磨かれ、軒下には貝殻と勾玉を繋いだ装飾が揺れていた。
それがヒミコの専用の住まいだった。
『……こっち』
ヒミコは振り返りもせずに、すっと足を進める。
彼女の歩みは、まるで風に導かれているように滑らかだ。
「ヒミコ様!」
突然、けたたましい声が響いた。 その声を合図に、6、7人の若い女たちが、方々の竪穴住居から一斉に飛び出してくる。
中には、前にヒミコを“説教”していたあの侍女の姿もあった。あの子、侍女じゃなくて御子候補だったのか。
「と、いうより。御子候補達が、ヒミコの侍女みたいな役割も兼ねてるのかもね」
ナビが所感を告げる。
「ただいま……」
相手の剣幕とは正反対に、ヒミコは平然としている。
「あ、お帰りなさいませ――ではなくてですね!」
先頭の女性がヒミコに詰め寄る。
「な、なんですか。その男は」
「……サイは、船の民の長。兄上に呼ばれた。あなたも…、前に会ったでしょ」
「都萬彦様との件は存じ上げておりますし、この方の事も覚えていますが、え?このちんちくりんな方が長?使いっぱしりでなくて?……いえいえ、今はそんなことどうでも良くて、そもそもここに男性を連れて来ること自体が問題なのであって……」
突っ込みが追いつてなくて、忙しそうだ。 都萬彦もそうだったけど、どうもヒミコの前で必死になると空回りしてしまうようだ。
「あなたもあなたです。こんな所までのこのこ付いて来て。ヒミコ様に対して、やましい気持をお持ちなのでは?」
「いや、俺は何もそんな」
「絶対変なことするでしょ」
「しないって」
俺にまで矛先が向いてきた。ここは大人しく退散した方が良さそうだな。 ここで暮らすのに、みんなの心象を悪くするのは、うまくない。
「もう、いい。怒らないで。サイは、大丈夫だから」
侍女たちは互いに顔を見合わせた。 “御子候補”である彼女がそう言うのなら、強くは出られないのだろう。 けれども、不満と動揺は隠しきれない。
「ですが……その、王や都萬彦様に知られたら――」
「父上は、わたしのすることに怒らない。兄上は、わたし自身には、関心がない……」
ヒミコは少し目を伏せる。 その一言で、侍女たちは一斉に口をつぐんだ。 夜風の中に、沈黙が落ちる。
俺はというと―― 完全にいたたまれない。
会話が止まったこの隙に帰ろう。
「あ、あの……その、ご迷惑なようなので、俺は失礼しますね」
「サイ、静かに」
ヒミコの一言に、俺まで口を閉ざす羽目になった。
女性達は渋々といった形で下がり、俺はヒミコの住居へと招じ入れられた。
これで完全な2人きり。
というわけでもなく、ヒミコの屋敷の周りは御子候補達が控えており、耳をそばだてている。ちょっとでも怪しい動きをすれば、すぐに飛び込んでくるだろう。
中はほの暗い。白い布がゆるやかに掛けられ、外気と仕切られていた。
香草を焚いたような匂いが漂い、淡い煙が光を柔らかくしている。
「少し、待ってて……」
そう言うとヒミコは奥の仕切りの向こうに入り、白衣を脱ぐ音がかすかに聞こえた。
衣擦れの音、帯を解く音――それだけで心臓が無駄に高鳴る。
やがて戻ってきたヒミコは、淡い麻布の単衣姿になっていた。
肩まで落ちる灰褐色の髪を、紐でゆるく束ね直している。
正装のときよりずっと柔らかい印象だ。無警戒に部屋着を見せられると、彼女の私生活に踏み込んだような気がして照れくさい。
『これで……楽になった』
そう言って、俺の前に静かに腰を下ろす。
『えーと…、それで、何か俺に用事かな』
家に招いた割には、ヒミコは何も言わずに俺を見つめるだけだった。
沈黙に耐えきれず、俺の方から会話を促す。
『うん……漢の話し、聞きたくて』
『漢の話し?』
『うん…。お父さんが、漢から渡って来たっていう人がいた。わたしはその人から漢語を習った』
ヒミコは初めて会った時に、以前、漢語を習ったと言っていたけど、教えられたのはその人からだったのか。
『けど、その人は、漢語を話せたけど、漢で産まれたわけじゃないから、向こうのことはよく知らなかった……』
少し残念がってるような気がする。
『その、漢語を教えてくれた人は、どうしてるんだ?』
『その時には、もうおばあさんで、ずっと前に亡くなった……』
『そうか……』
仲が良かったのだろうか。その人が亡くなったと告げた時のヒミコの顔には、微かな翳りがあった。
『わたしは、この国から出たことがない……。この山の向こうが、どうなっているのかも、知らない。もっと遠くの、海の向こうには、どんな国があるのか、凄く、気になる……』
『ヒミコ……』
邪馬台国の女王、卑弥呼。
彼女は、結婚もせず、限られた人にしか姿を見せず、この地に留まり、その生涯を国家に捧げた。
その行く末を思うと、目の前の少女に同情を禁じ得ない。
『わかった。話すよ。漢のこと。俺も全てを見たわけではないけど、知ってることは、全部教える』
そして、俺はなるべく詳細に、漢で見たもの、聞いたこと、食べた物、出会った人々、感じたことを、卑弥呼に伝えた。
まるで、ヒミコに自分自身がそこにいたように感じてもらえるように。
ヒミコは真剣に、食い入るように俺の話しに耳を傾けていた。
その目は興味と感動の光で輝いていた。俺の前でヒミコがここまで感情を露わにしたのは、初めてのことだった。
『……すごい。サイの言葉から、たくさんの景色が浮かんでくる……。匂いも、音も、人々の想いも……』
ヒミコは胸の前で両手をそっと重ね、まるで見えない風景を抱きしめるように目を閉じた。
自分の中に、大切な宝物をしまい込むように……。
『わたしも、いつか……』
その言葉の続きを、ヒミコは言わなかった。
その先の言葉が、どれほど儚い希望かを悟っているのかもしれない。
ヒミコが卑弥呼である限り、本当に海の向こうを見る日は、きっと――来ない。
ヒミコは俺の沈黙を察したのか、小さく微笑んだ。
その笑みは、不思議なほど大人びていて、言葉よりも雄弁だった。
『サイ。あなたが見た景色を、わたしの中に、少し分けてくれて、ありがとう』
『喜んでもらえたなら……良かった』
それ以上の言葉が見つからず、俺は黙り込んでしまった。
外からは、御子候補たちのすすり泣きが聞こえる……。
聞いていたのか。
『そう言えば、御子候補って何人もいるんだな。ヒミコが継ぐと決まってるわけではないのか』
空気を変えようと、俺は別の話題を振った。
『うん、御子は神が選ぶ』
『神が誰を選んだかは、どうやって判断するんだ』
『神は、御子を通してその意志をお伝えになる……。時期がくれば、御子様が、次の御子の名をお告げになる』
『なるほどね……』
やはり、そういった方法か。
ならば、政治的な作為が介入する余地は十分ある。
そもそも、御子が急な病で、後継者を決めぬままに亡くなったらどうする?その時の権力者が「御子が死ぬ前にこう言い残した」なんて言えば、もうそれを信じるしかない。
たとえ、それが神なんかでなく、人の意思であったとしても。
『御子の候補自体も、御子様が決めるのか?』
『ちがう。一族の中で産まれた女性が、候補になる』
ん?だとしたら、何でヒミコも御子候補になってるんだ?
ヒミコは王族なのに……。
『もしかして、ヒミコのお母さんって……』
『そう。母上は、御子の一族。今の御子様の妹』
『妹?そんなに、近しい縁者だったのか』
つまりヒミコは王族でもあり、現御子の姪。邪馬壹国の中では、かなり高貴な血筋ということにならないか。
『穂北彦のお母さんも、きっと一緒だよな』
ヒミコが頷く。
『じゃあ都萬彦のお母さんは』
『兄上の母上は、ちがう人。父上は何人も妻がいた……。でも、産まれたのは、わたし達以外に、兄上だけ』
おそらく、正妻でもなかった女性が産んだのが都萬彦だったんじゃないか?
そう考えれば、ヒミコへの過剰なまでの敵意が説明できる。
血統で考えれば、ヒミコと穂北彦の方が格上だ。
成長すれば、この2人が次の御子と王になってもおかしくない。
自分の王位継承を揺るがす障害。都萬彦にはそう見えているかもしれない。
『ヒミコやここで修行するみんなは、御子になりたいと思っているのか』
『神の傍に仕えるのは、名誉なことで、喜びでもある。そうやって……教えられてきた。でも……』
ヒミコの言葉が途切れる。続きを言うべきか迷っているような……。
『わたしは、なりたくない……』
囁くような、小さな声。
『祭壇で祈っても、神は応えて下さらない。山や、海、風の中に、神の声は宿る』
「“アニミズム”ってやつだね。人間にとって、最も原初的な信仰心」
ヒミコには聞こえないが、ナビが口を挟む。
“アニミズム”――それって確か、全ての物には魂が宿ってる的な考え方だっけ。
『それに、わたしは、もっと色んな物を見てみたい……。色んな人に会って、色んなことを、知りたい……』
『ヒミコ……』
俺の、漢での話しをした時のヒミコの表情を思い出す。
瞳を輝かせて、楽しそうに聞いていた。
初めて会った時も、1人で狩りに出かけて怒られてたっけ。
それが、ヒミコの本質なのだろう。地位も名誉もいらない。ただ気ままに野山を駆け回り、まだ見ぬ世界を冒険する。それがヒミコの夢であり、幸せなんだろう。
けど、運命は、歴史は、彼女にそれを許さない。
邪馬壹国が具体的にどうなっていくかはわからないが、少なくともヒミコは、この九州から出ることは生涯ないのだろう。
彼女が将来眺め続けるであろう、山々に囲まれたこの景色を、俺は窓から眺めた。
そして、窓の外からぬっと、女の顔が現れた。
鼻から下は見えない。眼光だけが、鋭くこちらを射抜いている。
よくよく見たら、外はもう夕暮れ時になっている。「とっとと帰れ」その目はそう告げていた。
「じゃ、じゃあ。俺、帰る」
外の女たちにもわかるように、わざと倭国語で話す。
「泊まって……いけばいい」
「へ?今なんて?」
「朝まで……一緒にいて」
ヒミコ?お前、なにをそんな、いきなり。いくらなんでも無防備過ぎないか?そ、それとも、俺のこと……。
「いや、さすがにそれは……」「なりません」
大声を上げ、外の女たちが飛び込んできた。
「な、何をお考えですかヒミコ様。平民の娘ならともかく、貴女は王の娘であり、神に仕える身なんですよ。神の怒りを買いたいのですか」
金切り声で叫ぶ。怒りを通り越してヒステリーだ。俺もちょっと負い目があって強く出られない。ある意味呂布よりも怖く感じる。
「あなたこそ、何を考えてるの?わたしはただ、サイと話したいだけ……。サイにもう一つ聞きたいの。彼が纏ってる、別の色について……」
あ〜、そんな相手を刺激するようなことしないで。
「ご、ごめんなさい。俺が、長居しすぎたから。すぐ。すぐ帰ります」
何とかこの場を収めようと仲裁に入る。だが、逆効果だった。
「そもそも、あなたがヒミコ様を誑かしたのでしょう。純粋で無知なヒミコ様に付け入って。何を話していたか知りませんが、結局あなたが邪馬壹国へ来た目的はヒミコ様だったのね。どこぞでお美しいヒミコ様の噂を聞きつけて、野獣のようにそのお身体を弄ぼうとしたのでしょう」
「そ、そんなことない」
何てことを言い出すんだこの女は。
「こうなれば、今回のことを王にご報告させて頂きます。ヒミコ様を溺愛している王がお知りになれば、船の民の受け入れはなくなるでしょう。そして貴方は即刻首を刎ねられることになるわ」
ちょっと待て。それは困る。
「貴女の言ってる意味は、わからない。でも、サイはわたしに酷いことは……」
「お黙り下さい、ヒミコ様。あなた様は男のことを何もご存知ないから、そんなことが言えるのです」
ヒミコでもダメか。
もう、こうなったら最後の手段。
「お、おれ。できない」
「は?」
声の限りに大声で叫んだ。騒いでいた女達が一瞬静まる。
「おれ、その……経験ないから」
「え?」
「そ、それに。おれ、そういうことできない」
恥ずかしいやら情けないやらで、顔が茹でダコのようになっていくのが自分でもわかる。
そうなのだ。俺は、今後の歴史に影響を及ぼせないように、繁殖能力を奪われたいるのだ。つまり、彼女たちが心配しているようなことは、したくても出来ないのだ。
「おれは、スーパー持衰だから……。海の上だけでなく、陸の上でも持衰だから……」
涙が溢れてきた。不慣れな倭国語のせいだろうか。自分でも何を言っているのかわからない。
「そ、そんなこと……、口ではどうとでも」
俺の本気は伝わっているようだが、やはり易々とは信じてくれない。
「ヒミコ……、俺、嘘ついてる?」
ヒミコは明らかに困惑しているが、それでも口を開いてくれた。
「サイの言ってること……よくわからない。けど、サイが本当のことを言っているのは、わかる……」
それが決め手だった。彼女たちは一様に、俺に憐れみの視線を送りながら、そのまま黙って返してくれた。
これで、これでようやく、船の民のみんなはこの地に受け入れてもらえる。
俺の男としての尊厳と引き換えに。
ヒミコ、幻滅しただろうな……。
もう、会ってくれないだろう。でも、彼女と近すぎるのはやはりよくない。これで良かったんだ。俺はひっそりと、この国で生きていく。それで十分なんだから……。
「どんまい」
ナビの慰めの声が、夕闇の空に虚しく響いた。




