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倭国大乱  作者: 明石辰彦
第ニ章

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第四十九話 帰郷

20年ほど前、倭国から会稽に向かった時と比べると、驚くほど平和な航海だった。


西暦192年初夏。

俺は船の楼に座り、水平線の彼方に目をやりながら、静かに潮風に当たっていた。

会稽を出て13日ほどだろうか。船はゆっくりと進み続けている。


俺は倭人たちと共に、遠い故郷――倭国を目指している。

会稽を出て一時南下し、俺の時代で言うところの台湾沿岸を経由。

そこから奄美大島を回り、黒潮の流れに乗って北上している。


会稽からの直線ルートで言えば、九州西岸が最短距離だ。

だが、風と潮流の向きがそれを許さない。

季節風と黒潮が交わるこの季節、潮は自然と東へ導かれる。

結果として、船団は九州東岸へと進むことになった。


潮の香りが濃くなる。

群青の海面が太陽の光を反射し、かすかに金色を帯びて揺れている。


20年前、俺がいた地域は北部九州――今で言えば、佐賀県の唐津湾あたりの小さな集落だった。

でも、かつての村は、もうどこにも残ってはいないだろう。


倭国大乱。

あの時、俺たちはその渦中にいた。

日々、炎が村を焼き、人が人を疑い、血が土を染めた。

命からがら逃れた俺たちは、海を越え、漢の地へと渡った。


けれど俺たちは、故郷を捨てたわけではなかった。

漢の地で学び、鍛え、築いたのは、取り戻すための力だ。

そして――その時が、ようやくやってきたのだ。


だが、変わったのは俺たちだけではない。

倭国もまた、姿を変えていた。


大乱の最中は、小国が入り乱れ、終わりのない争いが続いていた。

しかし、幾つもの国が滅び、強国だけが残った結果、

いまはかろうじて均衡が保たれているらしい。


九州では、

佐賀・長崎にかけて末盧まつろ国、

糸島から北九州市あたりにかけて伊都いと国、大分にはかつて漢から金印を授けられた国、そして南の薩摩には投馬つま国。


この四国が九州の覇権を争っている。


かつて俺たちの村があった唐津湾は、伊都国の支配を受けていたが、現在は末盧まつろ国の領地になっていると聞く。

伊都が吉備国に攻め込まれた隙を突かれたのだ。



南と北の間――熊本や宮崎のあたりには、いまだに幾つもの小国が点在している。

それぞれがどの強国に従うか、あるいはどこまで独立を保てるかを見極めようとしている。

そして、四大国の方もまた、その小国たちを自陣に取り込もうと、互いに鋭い視線を交わしているのだ。


そう、この均衡は、常に激しく揺れており、いつ大きく傾いてもおかしくない。


――それが今の倭国、今の九州の姿だった。


楼の下の甲板では、他の倭人たちが話し合っている。

おそらく今日、あるいは明日には九州東岸に行き着くだろう。

具体的な上陸地点、上陸してからの行動、補給の段取り。

彼らは慎重に言葉を交わしていた。


時折、頭上の俺の方に視線が飛ぶ。

俺の意見も気にしているのだろう。


だが、俺は何も言わない。――いや、言えない。


なぜなら俺は、この船、この仲間たちの“持衰じさい”だからだ。


持衰。

船の守護者。

祈りと穢れを一身に背負い、風と波の間に立つ者。


航海の無事を祈る代わりに、

女を抱かず、肉を断ち、笑いも慎み、口を閉ざす。

己を削って、海神の機嫌を保つのだ。

失敗すれば、その命をもってあがなわなければない。それが持衰だ。


「大丈夫?」

俺の傍らにいた少女。ナビが声をかけてくる。


いつものように、どこからともなく現れたようだった。

透きとおるような緑の髪が、潮風にふわりと揺れる。

光の加減で、髪の一房一房が輝いて見え、白いドレスの裾が風に舞い、その周りを淡い光の粒が取り巻いていた。

そして宝石のように美しいエメラルドの瞳の中に、俺の姿がうっすらと見える。


「ああ。2回目ともなれば慣れっこだよ」


ナビに答える。持衰は神に祈りを捧げる存在。ゆえに航海の間は神のみと対話するために、他人との接触はほぼ行わない。

ならばこいつはセーフだろう、そもそもが神様みたいなものなんだから。


ナビ。ナビゲーター。

遥か未来の俺の魂をこの時代に運び、“歴史の観測者”となった俺を導く存在だ。


「けど、大分痩せちゃってるよ?無理して持衰なんか、引き受けなければ良かったのに」


俺の身体を眺めながら、ナビが顔をしかめる。

食事は摂っている。だが、一日一回。

それも、飢えずに済む最低限の量だ。


この二週間で俺の身体は目に見えて痩せ、

今では自分でもわかるほど骨ばっていた。

鏡など無いが、きっと病人のような顔をしているだろう。

確かに、ナビが心配するのも無理はない。


「別に無理なんてしてないさ。それに、俺が持衰をやらずに誰がやるんだよ」


俺はナビに笑ってみせる。

風が吹き、帆布の影がナビの頬をかすめる。

彼女の瞳がわずかに曇ったように見えた。


持衰とは、航海ごとに選ばれる役職だ。

だが、俺はこの航海が始まるずっと前から持衰だった。

俺は、“本来の意味”での持衰であると同時に、“別の意味”での持衰でもある。


20年前――倭国から漢へ渡ったあの航海。

そして、その後に起きた戦い。

その中で伝説と呼ばれるほどの働きをした、先代の持衰。

俺はその先代を継ぐ2代目として、この航海が始まるずっと前から持衰と呼ばれていた。

つまり俺は、二つの異なる持衰を同時に背負って、今この場にいるのだ。


まあ、その先代持衰も、他でもない“前世の俺”なんだけどね。



「けど、タケルたちはキミに持衰をやってほしくなかったようだよ?」

「……ああ。持衰は死亡リスクが高いからな。自分が無事に辿り着いても、犠牲者が出れば後を追って死ななきゃいけない。けど、だったら尚更、他の人間にやらせるわけにはいかない」


そう言った瞬間、

目の前に木皿にのった食事が差し出された。

仲間の一人が俺の分を運んできてくれたらしい。

ナビとの会話に気を取られて、全く気づかなかった。

彼には俺が、宙に向かって1人で話し続けているようにしか見えなかっただろう。


何故なららナビの姿は俺にしか見えないから。声も、気配も、俺以外の人間には認識できない。

それなのに、彼は少し笑って頭を下げ、食事を置いて下がっていく。


神格化された持衰という立場、そして見えないナビとの会話。それらが重なり、“持衰は自分達には見えない神と語らっている”。仲間の倭人達は本気でそれを信じていている。

そのため、俺が延々と独り言を繰り返していても、慣れたもので彼らは特に気にも留めない。

だけど見られて恥ずかしいことには変わりない。なるべく人前でやらないように気をつけてたのに…。


気を取り直して皿の上に目線を移す。蒸した粟と少量の米を混ぜた粗い飯。

その隣に、塩をまぶした干し昆布が一枚。

それだけだった。


昆布は会稽を出る前に倭人村の仲間たちが干したものだ。

歯で噛み切ると、海の匂いとともに塩の粒が舌の上で溶け、喉の奥に苦味と海風のような渋さが残る。


粟飯は冷めて固く、指でつまむとぼろぼろと崩れた。

口に運ぶと、乾いた粟の粒が歯に当たり、

噛むたびに小さな音を立てる。

今の俺が口にできるのはこれだけだ。


「けど、初めての航海の時と比べれば、遥かにマシだな」


俺は自分を奮い立たせるために、敢えて強がる。


「確かにね。今回はこんな立派な船に乗ってる。しかも航路も時間をかけた安全ルート。漂流や沈没の可能性はかなり低いもんね」


ナビが頷く。


20年前――あの時は、伊都国と吉備国の戦いの真っ只中だった。

戦乱の混乱を利用し、命からがら脱出を図った。

舟は木をくり抜いただけの丸木舟。

今のような帆も舵もなく、ただ全力で櫂を漕ぎ、あとは潮と風に身を任せるしかなかった。


死者も出さず、会稽まで辿り着けたのは、奇跡以外の何ものでもない。

ああするしか無かったとは言え、今にして思えばなんて無謀だったのだろう。

だからこそ、持衰が神格化されていったわけでもあるのだが…。


「あの航海を経験した俺からしたら、楽勝楽勝」


軽く笑いながら、残っていた栗飯を全部頬張った。

固い粟の粒が歯に当たる音が、やけに大きく響く。


と、その直後――


腹の音が大きく鳴り響いた。


「楽勝ね〜?」

ナビが肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。

「うるさい」

頬が熱くなるのが、自分でも分かった。



――やがて、船内がざわつきはじめた。

それもそのはずだ。

遠くの海霧の向こうに、うっすらと島影が見えている。


「ナビ、あれは?」


俺が問うと、ナビは目を細めて水平線を見た。

風が彼女の髪を持ち上げ、淡い光の粒が舞う。


「おそらく屋久島と種子島だね。ということは、九州本土ももう間もなく。あとちょっとだから……頑張って」


ナビが微笑む。


「ようやく、か」


さすがに、溜息が漏れた。

食事も満足に摂れず、誰とも話さず1日中じっとしている。

強がってはいても、飢えと孤独はこたえたし、何より“やる事がない”というのが思いの外辛かった。気を紛らわすものがないから、飢餓と寂しさをより強く感じてしまうし、時間の流れも遅いため、苦しい時間がより長く感じられた。


ナビがいてくれたからまだ耐えられた。

けれど、かつての持衰たちはこの静寂の中、

何日も何夜も一人で祈り続けていたのだと思うと――

胸の奥に、彼らに対する敬意と哀れみが湧いた。


「……どこに上陸するんだろうね?」

ナビが独りごちる。俺は考えを打ち切り、遠くに見える大陸に目を向ける。

おそらくあれが九州だろう。

「黒潮の流れが緩んできてるなあ。このままいけば――細島ほそしまか、油津あぶらつあたりかな」


具体的な上陸先が何処になるのか?俺は持衰として、人々の信奉を集めながら、それを知らない。


もちろん出航前の、まだ俺が人と話すのを許されるタイミングで、九州の上陸地をどこにするかは、ある程度話し合っていた。


まず、北部九州は却下。元々俺たちがいた唐津湾に戻りたい気持ちは強いが、あそこは既に末盧国という強国の領土。

因縁の深い伊都国も近いし、北部九州最大勢力の奴国の存在も侮りがたい。

おそらく、技術水準などは俺たちの方が遥かに上だろうが、女子供を含めた150名で事を構えるのは得策じゃない。かと言ってこの3つの国に協力する気も起きなかった。


そして、南の鹿児島あたり。

こちらは投馬つま国が主に牛耳っているが、南部はかなり好戦的な民族が多いという。簡単に言うと治安が悪い。

引っ越し先には御免被りたい所だ。


となると残りは九州中部。こちらは小国がまだ多いため、“売り込む”にはもってこいだ。

そして、潮流の関係で西側よりも東側が行きやすい。

このような消去法で、大体今の宮崎県あたりに上陸しようと決まった。

ただ、流石に正確な上陸位置までは現地を見てみないと判断できない。

なのでみんなと話すことができない俺は、この先の判断は仲間達に任せるしかないのだった。


「お、油津あぶらつは通り過ぎるみたいだね。まあ、確かにここは南部勢力と近すぎるもんね。ということは――上陸先は細島ほそしまかな?」


ナビが海岸線を指さす。

彼女の指の先、霞んだ陸影の一角に、湾のような凹みが見えた。


正直、沿岸を見ているだけでは、ここがどこなのかさっぱり分からない。

ナビの独り言を聞いて、なんとか頭の中に地図を思い描こうとする。

けど……俺、九州の人じゃないから土地勘なんてないんだよな。


「ナビ、細島って?」


「宮崎の北の方――日向ひゅうがって呼ばれてる地域だよ。けど、この時代の人々は“ヒムカ”って言ってるみたいだね。

黒潮が直接ぶつかる岬の根元にあって、天然の良港として知られてる。

風除けもあるし、水も手に入りやすい。

船を休ませるにはうってつけの場所だね」


「天然の良港……か。そんな便利な場所があるのか」

「うん。昔から“潮の門”って呼ばれてたんだ。海の神様に供物を流す儀式も、このあたりで行われてたみたいだよ」


ナビが静かに笑った。


俺は遠くの陸影を見つめる。

山の稜線が、霞の向こうにうっすらと浮かんでいる。

朝日を受けて、金色の靄がゆらめいていた。

それが、波の向こうからゆっくりと近づいてくる。


「見て!あれが細島。やっぱりあそこに停泊するみたい!」


ナビが指を伸ばす。

その声には、わずかに震えが混じっていた。

長い船旅の果てに、ようやく辿り着いた。

ナビの気持ちは痛いほど分かる。

俺だって、身体さえ弱っていなければ、今すぐにでも跳び上がっていたかもしれない。


楼に何人もの倭人たちが駆け上がってくる。

潮風が甲板を駆け抜け、帆が鳴った。

その先頭には、タケルがいた。

彼の頬には、潮か涙か分からない光が伝っている。


「持衰……着いた。着いたぞ。とうとう倭国に辿り着いたんだ!」



ーーああ。タケル。帰ってきたんだ。

首長との約束を果たすために。


胸の奥が熱くなった。

海の匂いも、潮の味も、あの頃と何も変わらない。


俺はゆっくりと目を閉じた。


ーー俺たちは、故郷へ帰ってきたんだ。



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