第四十五話 足掻き
冬となり、年が明けた。
西暦192年となった。
浜辺の造船所の船は遂に竣工した。
完成した船の長さは30メートルを超える。
中央には帆柱が二本、さらに前方には補助の小帆が立つ。
帆布は麻を幾重にも重ねた厚手のもの――会稽で仕立てた最高級品だ。
甲板には、櫂を操るための穴が左右に並び、
その上には高くせり上がった舷側が、波を遮る盾のようにそびえる。
艫には舵柄と艦尾楼が備えられ、
そこには孫堅軍の工匠たちが施したと見られる青龍の意匠が彫り込まれていた。
さらに、完成したのは一隻だけではなかった。主船を中心に、二隻の中型船も随伴する。いずれも帆と櫂を備え、合わせて200名を越える者を倭国へ送り出せる設計だ。
浜辺に並ぶ三隻の船影は、冬の光を受けて誇らしげに輝いていた。
一方、天下に散らばる群雄たちは、遂に本格的な戦いを始めていた。
天子が長安へと遷ったことで、王朝の支配は多くの地域で形だけのものとなった。
これにより、各地の有力諸侯は勝手に州の刺史や郡の太守を任命し、自らの息のかかった者を政権に据えるようになった。
その結果どうなるか。
同じ州、あるいは同じ郡の中に、異なる派閥の刺史や県令が“同時に”存在するという異常な事態に陥ったのだ。
当然、それぞれが自らの正統性を主張する。
だが、どちらも王朝の正式な任命を受けてはいない。初めから正統も何もないのだ。
最後にものを言うのは、ただ“力”だけ。
勝った者が領地を得、負けた者は逃げるか、討たれて死ぬ。
各地ではこのような代理戦争が次々と始まっていった。
そして、孫堅もまた、そんな混沌の世界へと自ら足を踏み入れていく。
前年の末ごろ――。
袁術の異母兄、袁紹が豫州刺史に周喁を任命した。
だが、その職にはすでに袁術によって孫堅が就いている。
これは明らかに、袁紹から袁術への宣戦布告だった。
孫堅はすぐさま兵を挙げ、豫州穎川郡陽城県を攻めた。
周喁はこれに抗しきれず敗走。
この戦いで勝利した袁術派――つまり孫堅側が、豫州の主導権を握ることとなった。
その結果、孫堅の影響力はさらに増し、豫州での基盤は一層盤石なものとなった。
孫堅は俺に言っていた。
“大義のために小義を捨てる”と。
今まさに、彼は正義なき戦いを行なっている。だが、それはただの野心ではない。
帝を救い出し、世を正すべきは自分しかいない――そう信じているのだ。
後世の歴史家は、それを「エゴ」と断ずるかもしれない。
けれど、漢王朝の腐敗。
黄巾の乱で死んだ数十万の人々。
帝さえも自らの欲望の道具とした董卓。
保身と利だけを求めて動く日和見の諸侯。
それらをすべて目の当たりにした彼の絶望を知らない者たちが、どうして孫堅を責められるというのか。
俺は知っている。アイツの絶望を。そのために進むと決めた覇道。覚悟。
そして、孫堅のその道が、間もなく終わりを迎えるということを。
「……ナビ、話しを聞いてくれ」
あの日、于吉に孫策を託したあと――
ナビに打ち明けた俺の想い。
その時のことを俺は反芻する。
「…なに?」
静かに、俺の言葉に応える。
これから俺が何を言うのか。大方の予想はついているのだろう。
「この後、孫堅が辿る未来をお前は知ってるか?」
無駄な質問だ。ナビに訊くまでもない。俺自身よく分かってる。けど、会話の糸口を掴みたかった。
「話し聞けって言っといて、いきなり質問?」
皮肉を言いつつも俺の心情を解ってか、ナビが答えてくれる。
「この後、袁紹、袁術の二大勢力の対立が表面化。各地で代理戦争が起きる。孫堅も袁術陣営としてこの争いに巻き込まれることになる。ううん、もしかしたら望んだ上で」
ナビの言葉が途切れる。この先を口にすることを躊躇っている。
「その後孫堅は荊州刺史の劉表を攻める。それが襄陽の戦い。そこで孫堅は、命を落とす」
俺が続きを引き取った。
「そうだよ。けど、孫堅の没年は193年という説がある。キミはその時にはもう倭国にいる。これ以上ここでキミが出来ることはない」
そこでナビがはっとする。
「まさか孫堅との約束を反故にする気?それは許されない。孫堅にも。歴史の強制力にも。観測者としての使命を放棄すれば、孫堅より前にキミが消滅しかねないよ」
ナビが慌てはじめる。
「そんなことはしない。だから今回、俺は“歴史の強制力”に判断を委ねようと思う」
「どういうこと?」
「ナビ、お前少し言葉を濁したよな?孫堅の没年は193年という“説がある”って」
ナビの肩が小さく震える。
「確か、他の説もあったよな?」
「孫堅の没年は史料によって、191年から193年の開きがある……」
「つまり、孫堅の死は確定してても、それがいつなのかは、正確に“認識も観測”もされてない、未確定な要素ってことになる。歴史は観測されて、初めて形を持つ。そうだよな?」
「そ、そうなる。観測されず、確定していない要素は、変化の余地がある…」
「だから、俺は身を任せる。歴史の強制力が俺に干渉して欲しくないなら、孫堅が死ぬのは俺が海に出た後だ。でも、もしその前に襄陽の戦いが起き、孫堅が命の危機に晒されることがあるようなら、」
俺はそこで言葉を切る。大きく息を吸う。
「俺はこの目で、アイツの戦いを“観測”する」
最後の言葉は、自分でも驚くほど静かだった。
「そ、そんな滅茶苦茶な解釈、」
ナビは驚きと怒り、そして悲しみが入り混じったような表情をしている。
「歴史の強制力っていうのは、あくまで概念であって、誰かの意思が働いているわけじゃないの。キミの思惑なんて歴史には関係ない。もし、望み通り襄陽の戦いが早期に起こっても、全ては必然なの。都合よく捉えないで」
「屁理屈だってのは解ってる。でも、そうでもしないと俺は踏ん切りがつかないんだ。だから頼む」
俺は頭を下げる。
長い沈黙。
風が木々を揺らす音だけが響く。
「…“宇宙の理”によって、わたしは発生した」
やがてナビが溜息をつき、言葉を紡いだ。
「それは絶対的な摂理なの。完璧。一切の破綻なし。なのに抜けてるよね」
わざとらしく肩を竦める。
「西遊記って知ってる?」
「う、うん」
話しの方向性が見えなくて俺は混乱する。
「玄奘三蔵が斉天大聖孫悟空につけた緊箍。あれで三蔵は悟空をコントロールできる。何でわたしにもそういう能力を与えてくれなかったんだろうね?」
どう答えていいのかわからず、黙ってナビを見つめることしかできない。
「だ、か、ら。わたしじゃキミを止められないから、勝手にすればってこと!」
何も言わない俺に向かって、「察しが悪いな」とでも言うように叫ぶ。
ようやく、ナビの言わんとしていることが分かった。
「ナビ……ごめん。ありがとう」
俺は、于吉にしたときと同じように深々と頭を下げる。
「でも、約束して。キミが消えたら、わたしもお役御免で消滅しちゃう。だから絶対、帰ってきて」
ナビが横を向きながら、そう言った。
その声はいつもの調子なのに、どこか震えている気がした。
「約束する」
俺も強く頷く。
「似合わないことさせて悪かったな。お前が、あんな回りくどい言い方するなんて」
そう言って俺は、くすりと笑った。
「うるさい」
ナビの横顔が、赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
ーー追想を打ち切った。
出航予定まで、もう半年もない。
倭国に渡る人間は150名ほどだった。200名は運ぶ予定だったが、想定よりもこの地に残る人間が多かった。
ここで家族を作った者も多い。
当然だ。この地に俺たちが住み着いて、もう20年以上なんだから。
刻一刻と迫る別れの時。残された時間を惜しみつつ、日々は流れていく。
孫堅と劉表には未だ動きはない。
初夏に入った。このままこの地を去ることになるのか。
覚悟を決めかけたその時、遂にそれはやってきた。




