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倭国大乱 観測者は全ての歴史を見届ける  作者: 明石
第一章

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第四十四話 託す希望

船の問題は解決できた。

だが、俺にはまだやることが二つ、いや場合によっては三つある。

まずその内の一つを終わらせるために、俺は造船所をあとにし、倭人村へと戻った。倭人村の中央奥に、他の住人よりやや大きい、瓦屋根の白壁の家がある。そこが“現首長”の家だ。俺は来訪を外で告げ、中に招き入れられた。


板敷きの廊下を進むと、首長の部屋があった。

中はおよそ十二畳ほどの広さ。室内も板張りで、歩くたびに床が軽く軋む。

白漆喰の壁には梁の黒木が格子のように走り、南の格子窓から柔らかな光が射し込んでいる。


中央には低い几案きあんが置かれ、その上には青銅の香炉が一つ。

壁際には漆塗りの櫃や陶器の壺、竹簡を納めた木箱が並び、奥の帳の内には寝所と小さな神棚があった。神棚には鏡・勾玉・小剣が祀られ、倭国の信仰の名残が静かに息づいている。倭と漢が交わって生まれた折衷の間だった。


首長は俺に気づくと、几案の前にゆるりと腰を下ろし、俺にも向かいに座るよう手で促した。今の首長は、許昌の乱で命を落とした首長の後継だ。前首長に子がなかったため、最も血縁の近いこの人が跡を継いだ。今は五十歳になるはずだ。


「無事、帰ってきてくれて良かったよ、持衰じさい。先代持衰は戦で命を落とした。本来なら、彼が今の倭人村を率いるはずだったのにな」

現首長がそう言って、静かに目を伏せた。


この男とも、かつて一緒に許昌と戦った。

他の村人たちと同じように、持衰であった前世の俺を敬ってくれていたことを、今も覚えている。


「浜辺の造船所を先に見に行っていたんだろう?あの船で故郷へ帰り、今度こその地で仲間たちを導いてくれ。先代持衰が果たせなかったことを、お前が代わりに成し遂げてほしい」


そう言って、首長は深く頭を下げた。


「……そのことなんだが、やっぱり首長は倭国へは渡らないのか?」

「ああ。私はここで漢人の女性を妻に迎えた。既に子もいる。それに私以外にも、倭国へ帰らずこの地に骨をうずめるつもりの者も多い。その者たちを守ることが、今の私の務めだと思っているよ」


そうなのだ。村に戻ってきてから気づいたが、今では明らかに倭人ではない顔立ちの者も少なくない。すでに血が混じりはじめているのだ。

あと数十年もすれば、この村は“倭人村”ではなく、中華の中に溶け込んだ、ごくありふれた集落になるのだろう。だが、それは悪いことではない。異国の民である俺たちが、本当の意味でこの地に受け入れられたという、ひとつの証なのだから。

「わかった。向こうでのことは任せてくれ。あとは出航の時期なんだけれど――」

「うむ。本来なら、この時期が最も適しているのだが……。船の完成は冬になるだろう。となると、来年の初夏がその時になるだろうな」


やはり、そうか。

夏は季節風が大陸から日本列島へと吹く。その時期を過ぎれば、風向きは逆となり、中国側から見れば完全な向かい風になる。つまり俺は、この地にあと一年は留まることができる。

確認できた事実に、胸の鼓動がわずかに速まった。

「じゃあ、この一年のあいだに、倭国へ戻るのか、それともこの地に残るのか。……みんなに決めておいてもらわないとな」

「そうだな」

首長は静かにうなずいた。

「先代首長の志は、私たちの胸に今も色濃く残っている。だが同時に、この地への愛着が芽生えているのもまた事実だ。その狭間で揺れ、決めあぐねている者も多い。一年という期間は、その決断を下すための、ちょうどよい猶予なのかもしれんな」


その言葉に俺も深くうなずき、首長の屋敷をあとにした。


やるべきことの一つ目は、これで終わった。

そして、もう一つ――。


俺は、相変わらず薬方処として機能している我が家へと戻った。


一年半ぶりに見る我が家は、すっかり様変わりしていた。増築され、ほとんど小さな医療施設のようになっている。どうやら俺の留守中、于吉と宮崇が好き勝手に改造してくれたらしい。もはや誰の家なのかわからない。


裏口から入ると、懐かしい香草の匂いと共に、母が出迎えてくれた。

彼女は前世のころから顔なじみで、あの頃は俺より十ほど年下の少女だった。

それが今世では俺の母親――どう接していいのか、いまだに戸惑う。

けれど、確かに言えることがひとつある。

この人もまた、俺にとってかけがえのない存在であるということだ。


「母さん、于吉は?」

「于吉様なら、私室でお休みになられてるわよ」

「……いや、ちょっと待って母さん。あいつの私室があるのか?」

「于吉様だけでなく、お弟子さんたちが寝泊まりする部屋もあるわよ。主に使われるのは宮崇様だけどね」


おいおい、嘘だろ。

我が家が、すっかり他人のものになってるじゃないか。


「薬方処として使って頂いてるんだから、寝泊まりできたほうが何かと便利でしょう?」

「いや、だったら前々から言ってるけど、専用の薬方処を建てたほうが良いだろ?」

「そうしようかともなったんだけどね。最初はこの家を仮の薬方処として使って頂いてたでしょう?それを少しずつ広げていったら、もう今さら新しく造ってもねってことになっちゃって」


「いや、向こうがそれで良くても、母さんが良くないだろ」

「私は高名な于吉様のお役に立てるなら、こんなに喜ばしいことはないわ」


ニコニコとそう言う。

……母さん、小さい頃から少し天然なんだよな。


ちらりと母さんの顔を盗み見る。

今は三十一歳。元々可憐な少女だっただけに、今でも十分若々しい。


そして、数年にわたって何人もの男がここで寝泊まりしてたんだよな……?


「母さん、俺がいない間に、変なことされてないよな?」

「変なことって?」


きょとんとした顔で聞き返してくる。その表情には、一切の引け目は感じられない。


「ナビ、同じ女としてどう思う?」

「わたしは厳密に言えば性別はないけど……。うーん、」




「たぶん、シロ」



于吉が寝てしまったので、仕方なく俺も床に入った。

なんだかんだで、これまでの戦や長旅の疲れが溜まっていたのだろう。

俺は泥のように眠った。


目を覚ましたのは、夕方を少し過ぎた頃だった。寝床から這い出し、欠伸を噛み殺しながら家の中を探すと――

縁側に于吉が座っていた。何をするでもなく、静かに茶を啜っている。


「ようやく起きたか」

「疲れてたんだよ」


そう言って、俺はどかっと于吉の隣に腰を下ろす。縁側の下からは虫の鳴き声が響いてくる。

「俺がいない間に、好き勝手してくれやがって」

「留守にするお主が悪いんじゃ。孫堅が大切なのも分かるが、“孝”の心も忘れてはならんぞ」

それを言われると、さすがに痛い。

確かに今世では、小さい頃から于吉にくっついて回り、挙げ句の果てには一年以上も戦に出て家を空けていたのだから、親不孝者と言われても仕方がない。

「……俺がいない間、母さんの世話してくれてたんだよな。ありがとう」

「なんの。こちらも助かっておるでな」

于吉はそう言って、湯気の立つ茶碗を軽く掲げた。


「宮崇のことはいいのか?」

「うむ。宮崇には、儂の知識のほぼすべてを叩き込んでおる。倭国で、あやつの力は大いに役立つであろう」

そう――それは、魯陽から句章へ向かう途中、于吉の口から告げられた言葉だった。

宮崇も倭国へ同行する。もちろん、彼の医療知識は魅力的だ。ついてきてくれるなら、これほど心強いことはない。


だが、あのとき――

于吉が「共に行け」と言った時、宮崇は一言も声を出さなかった。その顔にはいつも通りの無表情。彼の胸中を、俺は読み取ることができなかった。


「漢でやるべきことは、もう果たした。」

于吉は茶碗を卓に置き、ゆっくりと息をつく。

「儂は老い先短いが、宮崇はまだ若い。彼奴には、まだまだ世のために働いてもらわねばな。」


いや、宮崇ももう61歳なんだけど……。

85の于吉からすれば、まだ“若者”なのか。


「で、本題はなんだ。そんな話をしに来たわけではなかろう?」

于吉が目を細め、先に切り出してきた。

――相変わらず、勘が鋭い。


「孫堅……いや、孫策のことなんだけど」

「孫伯符?」

意外そうに眉を上げる于吉。

「ああ。アイツのことを、お前に頼みたいんだ」

「なぜ、わざわざ今、それを儂に言う?」

「それは……」

いざこの場面になると、どう切り出していいか迷う。 お前が孫策が死ぬ原因になるかもしれない。そのお前が孫策を守ることで、あいつの死を回避できるかもしれない。 それをそのまま伝えても、信じてもらえるわけがない。

「……孫文台のもとには、儂の信奉者たちで組織した医療隊を残してある。お主に頼まれんでも、後々孫伯符にそれらは引き継がれよう」

そうなのだ。俺を助けてくれた時にいたという于吉の弟子たち。彼らは魯陽に残り、孫堅軍に医療従事している。

そんな事実は歴史上には無かっただろう。それは、俺の干渉により、歴史の“過程”が変わったことを意味する。

けど、それだけでは……。

無駄かもしれない。だけど、俺は于吉の“勘”に賭けてみることにした。


「于吉、10年もしない内に、おそらく孫策は命を落とす」

「なぜそんなことが分かる?」

于吉は真剣に問い返してきた。茶化されるかもしれないと思ったが、俺が冗談でこんなことを言っているわけではないと伝わったようだ。

「理由は、言っても理解してもらえないと思う。けど、この未来はほぼ確実にやってくる。病か、戦か、暗殺者か。それは定かじゃない。けど、その分岐点において、お前の存在が鍵になる可能性が高いんだ」

真剣な目で俺は于吉を見据える。

于吉は静かな瞳で、俺の視線を受け止める。

「荒唐無稽な話だが、」

数瞬、于吉が言葉を探すように宙を見る。

「お主が言うと、全くの与太話とは思えぬ。常人には視えぬ何かが視えておるのだろう。お主は本当にあの倭人の神、持衰様の生まれ変わりなのだろうな」

「そうだ。俺が、俺だけが持衰だ」

于吉が、少し驚いたような顔をした。

常に泰然としている彼の、こんな表情を見るのは初めてだった。

そして俺自身、誰かにこのことを伝えたのも、これが初めてだった。


「“我らが思う持衰”という存在は、後にも先にも、すべてお主か。……大きく出たの」


そう言って、于吉がふっと笑った。

はっきりと笑う彼を見るのも、これが初めてのような気がした。


「わかった。何をすればよいかは見当もつかぬが、お主の代わりに、孫伯符を見守り続けよう」

「ありがとう、于吉」

俺は深々と頭を下げた。

「まあ、儂の方が先にくたばるやもしれぬがな」

いつものような軽口を残し、于吉は冷めきった茶を啜った。



これで――

俺が漢の地でやるべきこと。

いや、やりたかったことは、残りひとつとなった。


目の前には、先代首長をはじめ、倭人たちが眠る塚がある。

草の間から白い石標がいくつも覗き、風がその上をやわらかく撫でていく。

俺は大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。

木々と土と風の匂いが、胸の奥まで沁み込んでいく。


「……ナビ、話を聞いてくれ」


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