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倭国大乱  作者: 明石辰彦
第一章

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第四十三話 手向け

陵墓の再建があらかた終わり、孫堅は洛陽から120kmほど南に離れた、南陽郡の魯陽県に軍を返した。

到着後、孫堅は袁術への報告に向かい、兵には休息を取らせた。


一日の休養を終えると、兵たちはそれぞれの持ち場に散っていった。

炊煙が立ちのぼり、釜からは粥の匂いが漂う。

壊れた槍の柄を削り直す者、馬の毛を梳く者、幕舎の影で泥に汚れた鎧を磨く者。

俺たち倭人隊も同じように作業に回る。戦が終わっても兵はそれなりに忙しい。


やがて、俺たち倭人隊が孫堅軍から正式に離脱することが決まった。

最後に、俺たちを送り出す酒宴を開いてくれるという。


「気持ちは嬉しいけど、孫堅軍は今や万を越す大所帯だろ? そんな規模の酒宴なんて不可能じゃないか?」

俺も最後にみんなでゆっくり語り合いたいというのが正直なところだが、無理はしてほしくない。

報せに来た孫策と公瑾にそう伝えると、公瑾は微笑んで首を振った。


「全員を集める宴ではない。功を立てた者、そして遠くへ帰る者に盃を回すだけでいい」


ちょうど農繁期にあたり、地元出身の兵の中には田を見に帰らせる者も多いのだという。

戦が終われば、彼らは再び鍬を手にし、村の暮らしに戻る。

軍を支える者がいるように、地を耕す者もまた戦の礎だと、公瑾は常に口にしていた。


夜、魯陽の陣の一角に簡素な席が設けられた。

油皿の灯が揺れ、兵たちの笑い声と笛の音が夜風に溶けていく。

倭人隊と孫堅軍の将兵が混ざり合い、盃を交わし、別れの言葉を惜しんだ。


黄蓋はおいおい泣き、祖茂さんは于吉との旅や戦場での思い出を語った。

于吉と宮崇は相変わらず飄々と酒を呑み、酔った孫策ははしゃぎ回っている。

公瑾はそんな孫策をあきれ顔で眺め、同じく呑みすぎたタケルが「最後だから」と幾人もの兵とふざけながら取っ組み合いをしていた。


宴席に孫堅の姿は見当たらなかった。

――別れは、もう済ませた。そういうことなのだろう。


夜明け。

魯陽の陣はまだ薄い靄に包まれていた。

昨夜の酒の名残で、地面には割れた盃や、冷めた火皿が点々と残っている。

鳥の声とともに、兵の掛け声がゆっくりと陣に戻りはじめた。

日常が、再び動き出す音だ。


俺たち倭人隊は、夜明けと同時に出立する。

荷車には必要最小限の食糧と装備。

一台だけ用意された馬車には、于吉と宮崇が乗り込むことになっている。

甲冑の留め具を締め直す音が、やけに大きく響いた。

隣ではタケルがあくびをしながら帯を締め、于吉は杖を手に空を見上げている。

宮崇は、例の馬鹿でかい竹籠を背負ったまま、じっと動かない。


東の空がわずかに朱に染まる頃、孫策たちが見送りに現れた。


「ここから先は、俺たちの国の問題だ」

孫策が言う。その瞳は真っすぐで、出会った頃と変わらぬ、子供のように純粋な眼差しだった。

「持衰、お前たちには世話になった。けど、これからはお前らも、お前らの戦をしろ」


俺はうなずき、手を差し出す。孫策は力強く握り返した。

公瑾は軽く一礼し、包みを差し出した。


「これは?」

「舒県から取り寄せた数々の経書だ。倭国でも十分役立つはずだ。私がいなくとも、学びを怠るなよ、持衰殿」


俺は苦笑いしながらそれを受け取る。


「来た時同様、俺がお送りしたかったのだが」

残念そうに祖茂さんが言う。

「俺もまた旅がしたかったけど、祖茂さんは今や立派な一軍の将だもんな」

俺は笑って返す。


「死ぬんじゃねえぞ、持衰」

黄蓋が軽く俺の胸を小突く。

「お前もな」

俺も同じように、黄蓋の厚い胸板に拳をぶつけた。


「行くぞ」

誰の声ともなく、俺たちは歩き出した。

霧の中、遠くで号令の太鼓が鳴る。

孫堅軍はまた戦へ、俺たちは海へ。

それぞれの道が交じり合うことは、もうない。


はるか遠くに、灼熱のように赤い幘が見えた気がした。


ひと月以上の旅を経て、俺たちはようやく句章県にある倭人の集落へ辿り着いた。

春のやわらかな風は、いつの間にか初夏の熱気へと変わっている。

一年半前に別れたこの地は、すでに「村」というよりも「街」に近い姿をしていた。

家々の数は倍に増え、道は広がり、人の数も増えていた。


村の門をくぐると、人々が一斉に集まってきた。

生きて帰った者たちを抱きしめ、涙を流して喜ぶ者。

名を呼んでも応えぬ者の不在に、沈黙のまま手を合わせる者。

笑いと涙が交じり合い、陽光の下で誰もが互いの顔を見つめ合っていた。


「さて、ここからどうするか」


倭国へ帰ることは決まった。

だが、そのためには船がいる。


二十年前、俺たちが倭から漢へ渡ったときは、八人乗りの丸木舟を造るのが精一杯だった。

潮と風に翻弄されながら、命懸けでこの地に辿り着いた。

だが今は違う。

漢で過ごした年月が、俺たちに技と知恵を与えてくれた。

あの頃よりもずっと、性能のいい舟を造ることができる。


――だが、それでも問題はある。


「あの時は緊急事態で一か八かの賭けみたいな航海だった。けど、今回は事情が違う。なるべく安全に送り届けたい。しかも、あの時は50数人。今は下手したら200人はいる。その人数を危険に晒さず、倭国まで運ぶ船を造るなんて、流石に……」


俺が腕を組んで唸っていると、馬車から降りてきた于吉がゆっくりと近づいてきた。

白い髭を指で撫でながら、いつものように人を喰ったような、ふてぶてしい表情をしている。


「そうだった、持衰。実は、孫堅からお主に、此度の戦の褒賞があるそうだ」

「褒賞?」

「浜辺に行ってみるがよい」


于吉はそれだけ言うと、また杖を突いて歩き出した。


――もしかして。


微かな期待を胸に抱きながら、俺は浜辺への道を急いだ。


潮の匂いが濃くなるにつれ、何かを叩く音が風に乗って聞こえてくる。

硬い木がぶつかり合うような力強い音が、一定のリズムで耳に届く。


そして、目の前に広がった光景を見て、思わず息を呑んだ。


浜辺一面に、巨大な船の骨組みが立ち並んでいた。

何十人もの男たちが木槌を振るい、梁を組み、縄で縛り、火で炙って木を曲げている。

潮風に混じって焦げた松脂まつやにの匂いが漂う。

何がどうなっているのか、正直よくわからない。

けれど、眼前一杯に広がるこの光景は、まさに圧巻だった。


「……なあ、ナビ。これ、あれだよな。船…だよな」


ナビも息を呑みながら応える。

「うん。造船だね。しかも、当時としては最高水準。見て、あの真ん中の板。船体の背骨に当たる板を“竜骨りゅうこつ”って言うんだけど、すごく太い。どうやら三層構造になってるみたいだね。その上に肋骨みたいに立ってるのが“肋材ろくざい”。あれが多いほど丈夫になるの」


ナビの声は少し弾んでいた。

「外側の板は二重貼り。間に空気層を作って沈みにくくしてある。ほら、あの職人たちが塗ってるのは“松脂とうるしの混合樹脂”。防水と防腐を兼ねた、いわば天然のコーティング剤だね」


「お、おう……」

俺は頷きながらも、まったく理解が追いつかない。


「帆柱は二本。主帆と補助帆を組み合わせれば、季節風を最大限に使える。つまり――この船なら、会稽から北九州まで、風の流れに乗って一直線に向かうことだって不可能じゃない。おそらく孫堅は、会稽郡の造船工たちをここに呼んだんだ。のちの呉の楼船ろうせん技術を使って、倭人専用の航海船を造らせてるんだよ」


「……専用の、航海船」


言葉にしてみて、ようやく実感が湧いてきた。

孫堅が、俺たちのために――本気で“帰る道”を作ってくれているのだ。


波間に、まだ帆もない船体がゆっくりと揺れている。

木材の表面は太陽の光を受けて金色に輝き、その姿はまるで、砂浜に佇む竜のようだった。


いつの間にか追ってきたタケルが、目を丸くして叫ぶ。

「すげぇ……!本当に、これで海を渡るのかよ!」


俺はただ、無言でその光景を見つめ続けた。

胸の奥がじんわりと熱くなる。


俺たちは、帰る。

この船で――。

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