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倭国大乱  作者: 明石辰彦
第一章

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第四十二話 玉璽

目を開けると、そこは薄暗い空間だった。

布の天井がわずかに揺れている。

焚き火の煙が漂い、薬草と焦げた草の匂いが鼻をくすぐる。


――ここは……幕舎の中か?


起き上がろうとするが、身体が言うことをきかない。

全身が鉛のように重く、息をするたびに腹の奥が熱く疼く。


――まさか、また死んで転生したのか?


視線をさまよわせる。ナビの姿を探すが見当たらない。代わりに、俺のすぐ隣に座る大柄な影に気づいた。

「気づいたか」

低く落ち着いた声。目を向けると、あの厳つい顔。

「……宮崇」

于吉の弟子、宮崇。なぜここに。いや、そもそもここはどこなんだ?

「痛みはあるか?」

問いかけられ、言われた通り自分の身体に意識を向ける。

腹部に違和感。

軽く触れた瞬間、激しい痛みが走った。

思わず呻き声が漏れる。

「腹、触ると……痛い」

「なら大丈夫だ」

宮崇は短くうなずく。

「痛みを感じるということは、身体が正常に機能している証拠だ」

淡々とした声。けれど、その目の奥には安堵の色が見えた。

「宮崇……ここはどこなんだ?何で……お前が、いるんだ?」

掠れた声でようやく絞り出す。喉も渇いている。

まだうまく言葉にならない。

「まだあまり話すな」

宮崇は立ち上がり、軽く衣の裾を払った。

「私は将軍方に、お前の意識が戻ったとお伝えしてくる。会って話すのは、もう少し快復してからだ」

入口の幕をめくりながら、ふとこちらを振り返る。

「峠は越えた。もう大事には至らぬ。時々様子を見に来るが、何かあったら、その鉦を鳴らせ」

指さされた先には、小さな青銅の鉦が吊るされていた。

火の光を受けて、静かに光っている。

宮崇が幕の外に出ていった。

少し身体を動かそうとすると、やはり腹部に激しい痛みを感じる。

よく見たら左肩にも大きな縫い痕がある。

少しずつ、だけど鮮明に、呂布との戦いの記憶が呼び覚まされる。


ーーそうだ。俺、最後に呂布に腹を刺されて…。


「けど、何で生きてるんだ?」

そう独りごちる。


「孫堅が助けてくれたんだよ」

ナビ。横たわっている俺を見下ろしている。

この構図、これで何度目だろう?でも、今回は死んでいない。

「よお、ナビ。悪かったな…、今回も」

ナビが口を尖らせながらそっぽを向く。

「孫堅が、連れ出して…くれたのか。でも、腹に大穴空けられて、どうやって助かったんだ…?」

かすれた声で、何とか言葉を続ける。

「そうだよ。お腹に穴空いてたんだから、無理して喋らないで」

怒ってはいるが、俺に対する気遣いを感じる。流石に怪我人相手に怒鳴り散らすことはしないか。

「今から説明するから黙って聞いて」

そして、ナビは事の顛末を伝えてくれた。


呂布に刺された直後、孫堅が現れて俺を救出してくれたこと。

洛陽を目指す歩兵部隊に合流して、召還されていた于吉や宮崇たちの治療を受けたこと。


「まずね――刺された位置がよかった。

呂布の戟は脇腹を貫いたけど、腸も大血管も外してた。

筋肉と腹膜だけで止まってたんだ。

あの深さなら普通は腹腔内出血でショック死してたけど、

孫堅がすぐに衣で圧迫止血して運んでくれた」


ナビが指を一本立てる。


「それで次が于吉。治療したのが彼でなければ、絶対死んでたね。まず、銀針で血流を調整してショックを防ぎ、次に、焼いた鉄で傷を焼灼して血管を熱で封じた。現代医療でも、止血目的なら“電気メス”や“焼灼止血”って言うでしょ?やってることは、あれと同じ理屈」

「……俺、腹を焼かれたのか」

全く覚えていない。麻酔もなしでそんなことを。気絶していて良かった…。

「で、最後に薬草で、炎症と感染を防いだ。

この時代において、これほどまでに正確な医療知識を持っているなんて、驚異的だよ」

「于吉……やっぱただの道士じゃないな」

いつもはとぼけた爺さんだが、やはり歴史に名を残すだけのことはある。

「色んなミラクルが重なって、今キミはここにいるの。何か一つでもかけ違ってたら、今度こそ本当に消滅してたかもしれないんだからね」

ナビはそう言って、鼻を鳴らした。

「……まあ、今こうして喋ってるんだから…、結果オーライってやつだな」

「何が結果オーライだ!?バカヤロー!!」

いや、結局怒鳴るんかい。

ナビの大声が腹に響くのを、俺はしばらく耐えなければならなかった。



ひと月近く経ち、俺はようやく普通に出歩けるようになった。

寝たきりの間に何人もの人が訪ねてくれた。

于吉、宮崇、タケル。

それに孫策と公瑾。

呂布の足止めのために、ヤツに立ち向かった二人。

結局俺も殺されかけて、その安否はわからず仕舞いだった。宮崇から2人の無事は聞いていたけれど、見舞いに来た孫策と公瑾の顔を見て、ようやく俺は安心できた。


呂布たちは俺との戦いの後、すぐに軍を退いたそうだ。

黒騎兵隊にも少なからず犠牲が出ていたのと、歩兵部隊の接近を察知してのことだろうと、公瑾は言っていた。

それもあると思う。けど、呂布という男は、群雄たちの大義、野望、利欲や思惑、そういった物とは全く別の所で戦っているような。そんな気がした。

あの洛陽炎上の日。

孫堅たちを討とうが討てまいが、そんなことはどうでも良かったんじゃないだろうか。

最後に斬り結んだあの瞬間、呂布は本当に楽しそうだった。あの瞬間を、アイツは追い求めてるのかもしれない。


戦の最中での洛陽炎上阻止。

やはり、限界があったようだ。


全焼こそ免れたが、都の大半は焼け野原と化した。

今、俺は洛陽からほど近い野営地で寝泊まりしている。

夜風が吹くたび、燃え尽きた灰と炭の匂いが鼻孔を刺す。

七日経っても、その匂いだけは消えなかった。


現在、孫堅は兵を総動員し、董卓によって荒らされた歴代の帝や王族たちの陵墓の修繕にあたっている。

瓦礫を片づけ、崩れた石を積み直す作業は、もはや戦ではなく祈りのようだった。


董卓はというと、長安までの道中に軍を配しながら、すでに上洛を果たした。

もう手の届かない場所へ逃げ延びてしまったが、その代わりに中原から董卓の脅威は去った。

しかし、それは同時に、この地における漢王朝の支配が、完全に崩壊したことを意味していた。


反董卓連合は瓦解。

諸侯たちはそれぞれの地へと戻り、己の旗を掲げた。

秩序は失われ、力のみが支配する時代が始まる。

倭国大乱。

俺たちの故郷と同じく、秩序なき群雄割拠の時代が、とうとうこの中華にも訪れてしまった。


物思いにふけながら、俺は洛陽の崩れた城壁に沿って歩き続けていた。

焼けた石はまだ黒く、ところどころから白い煙が立ちのぼっている。

足を踏みしめるたびに、砕けた瓦礫が乾いた音を立てた。


動けるようになったと知った孫堅から、呼び出しがあった。

孫堅は、比較的損傷の軽かった高官の屋敷を本拠にして、

洛陽復興の指揮を執っているという。

俺は今、その屋敷へ向かっていた。

焼け跡の向こうに見える洛陽の中心部。

かつて帝都だったその光景には、もはや威厳のかけらもない。

孫堅の本拠へ向かう途中、崩れた瓦礫の山の向こうから、やたらと通る声が響いてきた。

「そっちは水を運べ! 違う、そっちじゃない! 瓦礫を先に片づけろ!」

あの豪快な声に聞き覚えがある。

声の主を探して歩みを進めると、

指揮棒代わりの棍棒を手に、現場で怒鳴り散らす黄蓋の姿があった。

顔や腕には煤がつき、衣は土埃まみれ。

それでも全身から気迫が溢れている。

周囲の兵たちが慌ただしく動く様は、まるで戦場のようだった。

俺が声をかけるより早く、黄蓋がこちらを振り向いた。

一瞬、彼の表情が固まる。

「お、おい。お前――」

俺が軽く手を挙げる。

「久しぶりだな、黄蓋」

黄蓋の目がみるみる赤くなり、

次の瞬間、彼は大股で駆け寄ってきた。

「この馬鹿野郎……。もういいのか?」

力強く肩を掴まれる。

「テメェが呂布の野郎に腹刺されたって聞いた時は、もうダメかと思っちまったじゃねえか」

「心配かけたな。お前こそ、大谷関でのあの矢の嵐の中、よく無事に生きて戻ったよ」

「あんなもん大したことねえよ」

黄蓋はそう言って笑うとすぐに、ぐっと歯を食いしばった。そして、荒っぽく目頭をこすった。

「おい、黄蓋大丈夫か?」

「おめえが意識取り戻したことは知っていた。見舞いにも行けねぇで悪かった」

声が震えている。

こんな黄蓋の顔を見るのは初めてだった。

「お前、俺のこと嫌いだったしな?」

冗談めかして言うと、

「うるせえ!」と一喝しながらも、涙声は隠せない。

「確かに最初は将軍にタメ口使う舐めたガキだとは思ってたが…、すぐに肝の据わった気合入ったヤツだってわかったよ。俺もお前のこと、ダチだと思ってんだよ」

その言葉に、胸の奥が熱くなる。

「……ありがとな、黄蓋」

黄蓋はしばらく黙って俺の肩を叩いたあと、

いつものように大声で兵たちへ指示を飛ばした。

「よし!こいつが戻ったからには、もう一踏ん張りだ!洛陽を立て直すぞ、てめえら!」

怒号のようなその声に、周囲の兵たちが一斉に応じる。

誰もが煤にまみれ、疲れ果てていた。

けれど、その顔には、確かな笑みが浮かんでいた。

灰の匂いの中で、少しだけ風が温かく感じられた。


そして俺はようやく、孫堅のいる屋敷に辿り着いた。

中に入ると、平服の兵士が出迎え、孫堅のもとまで案内してくれた。


孫堅は、この時代で言うところのちょう――

いわば執務室のような場所にいた。

軽微だったとはいえ、火災の影響は所々に残っている。

壁は煤け、天井の梁にはまだ焦げ跡が残っていた。

つくえの上には竹簡や地図が乱雑に広げられ、

その奥で孫堅は腰を下ろしていた。


俺が庁の中に入ると、

孫堅は顔を上げてこちらに目をやり、

わずかに口元をほころばせた。

戦場で見せるあの鋭い眼光とはまるで違う。

柔らかく、静かな笑みだった。

その瞬間、胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。

ーー俺にとって孫堅という人間は、はじめからこういう男だった。

促され、腰を落とす。


「傷の具合はどうだ?」

「もうかなり良くなった。

孫堅が助けてくれなければ死んでいた。本当にありがとう」

俺はそう言って、深く頭を下げた。

「いや――」

孫堅は少しばつが悪そうに目を伏せる。

「捜索が可能と判断したからそうしたまでだ。

もし危険が大きいとみなした場合は、俺は迷わずお前を切り捨てたと思う。

だから、礼なんて言うな」

言わなきゃ良いだけなのに。

バカ正直に言っちゃうんだよな。

孫堅は孫堅で、不器用な男なのだと、最近になってようやく理解しつつあった。


しばし、沈黙が支配する。

外では風が吹き、庁の壁に煤が小さく舞う。

本題に入らず、このまま他愛のない話だけで終わらせたい。

だが、それを切り出したら――

もう俺と孫堅は同じ道を歩けなくなる。

そのことを、俺も、孫堅もわかっていた。


「二代目の――」

沈黙を破ろうとしたのは孫堅だった。

「いや、いい。わかってる」

俺はその言葉を遮った。

最後の最後まで、コイツに甘えていられない。

最後は俺から言わなければ。


董卓との戦いの前に、孫堅と交わした約束。


ーーこの戦いが終わったら、倭人を連れて故郷に帰る。


「わかってる。俺たちは倭国へ帰る」

「ああ、そうしてくれ」

孫堅はゆっくりと息を吐いた。

「これで俺はようやく、首長殿と持衰に顔向けできる」


孫堅は大きくなった。

数多の兵を従える英傑。

それでも、この男は遥か昔に死んでいった友の意志を、小さな約束を、こうして胸に抱き続けてくれている。


まだ俺を、あの時の持衰を、友だと思い続けてくれている。

俺にとっても、孫堅は誰よりも大切な友人だった。


だからこそ、胸の奥が裂けそうな痛みに苛まれる。


この先に待ち受ける孫堅の運命。

回避不能の死。

その時が、刻一刻と迫っている。


無駄だとわかっている。

けれど、もしかしたら。

そんな希望を、どうしても捨てきれなかった。


「倭国には帰る。約束は守る。だけど孫堅――あと2年、いや1年でもいい。もう少しだけ、お前と一緒に戦わせてくれないか?」


俺は、その一縷の望みに縋るように言った。

何より、中途半端な気持ちで倭国に帰ることなどできなかった。


「なぜ一年なんだ?」


孫堅の問いに、言葉が詰まる。

お前はこの先の戦で命を落とす――そんなこと、言えるはずがない。

だが、心のどこかで考えていた。

いっそ、言ってしまえばいいのではないか?

もしかしたら、それで歴史が変わるかもしれない。

考えが纏まらぬ内に、孫堅が口を開いた。

「お前は、この先の戦いについてこれない」

「ついてこれないって……どういう意味だよ?」

思わず立ち上がる。

声が震えていた。

「確かに俺の武勇は孫策には劣る。軍略だって公瑾には敵わない。指揮の腕前も、お前の足元にも及ばない。でも俺だって、日々成長してる。次は、必ずお前の力になる。もう今回のように足を引っ張ったりしない」


孫堅に役立たずだと思われた。

それが、何より悔しかった。


違うんだ、わかってほしい。俺はもっとやれる。お前に認めてもらえなければ俺は――


「違うんだ、二代目。そうじゃない」


孫堅が静かに目を閉じ、俺の言葉を遮った。

そして、ゆっくりと息を吐く。


王叡おうえい張啓ちょうしを覚えているな?」

「あ、ああ」


その名を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。

孫堅が力を得るために殺した二人――

なぜ今、その名を口にするんだ。

「お前は、俺があの二人を殺したことに、今でも納得していないな?」

確かに、そうだ。

殺す必要はなかった。俺は今もそう思っている。

董卓のように、明確に民を害する敵を討つなら、まだいい。

だが、奪わざるを得なかった命と、奪わなくても済んだ命は違う。

「今回の董卓との戦いは、虐げられた人々を救うという大義名分があった。

敵も明確だった。だからこそ、俺たちは同じ方向を向けた。

……だが、この先は違う」

孫堅は言葉を切り、傍らに置かれた包みをほどいた。

布が外され、金の輝きが庁の薄明かりを照らす。


息を呑む。


ーー伝国璽。


金の台座に、龍が鎮座していた。

「洛陽の復興作業中に、井戸の中に投げ棄てられていたものを家臣が発見した」

きらびやかに光る伝国璽を眺めながら、孫堅は言葉を続ける。

「秦代よりこの漢王朝まで、歴代の皇帝に受け継がれてきたのがこの伝国璽だ。俺はこの伝国璽を帝に奉じる。その名目で堂々と長安へ入り、董卓を除く。そして今度こそ、俺が陛下の元で正しき世に作り変える」

孫堅。先程までの柔和なほほ笑みは跡形もなく消え去り、修羅のような形相で虚空を見つめる。

「だが、これだけでは足りぬ。大義名分だけでは世は変わらん。二代目よ、力だ。力がいるのだ。俺は大義のためなら小義を捨てる。どんな手段を使ってでも俺はこの大望たいもうを実現する。そのために、どれだけ屍の山を築こうともな」

孫堅の言葉から痛いほど伝わってくる暗い覚悟。

できるのか、俺に。

孫堅を守るために、数多の命を理不尽に屠る選択を。

「それでも、俺は…。お前の命を…救うためなら」

俺も共に修羅の道を――

「無理だ。お前には」

孫堅はあくまでも俺を拒絶する。

「いや、違うな。俺は見せたくないんだ。この先の俺の姿を。俺は今の俺のまま、お前の友だちである俺のままで、お前と別れたいんだ」

「孫堅…」

「お前は俺の希望だ。自らの保身と利権しか考えぬ屑どもに、俺は絶望した。だが二代目。お前に会えた。持衰は死んだ。だが、再びお前に会えた。俺はそれに救われたんだ」

俺の頬に、涙が伝う。

「願わくば二代目よ、お前はずっとそのままでいてくれ。奪う戦いではなく、守るための戦いを続けてくれ。その先にある国がどんな姿なのか。世に示してほしいのだ」


孫堅も立ち上がり、俺の肩に手を置く。

俺は、静かに頷いた。


伝国璽の金が微かに反射し、庁の薄明かりが二人の影を長く伸ばした。


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