第四十一話 夜明け
一刻半が過ぎた。
孫堅は逃がしていた騎馬に跨り、燃え盛る城下から出てきた兵をかき集める。
その中に周瑜、そして孫策もいた。
孫策に関しては夥しい裂傷があり、全身は土埃で汚れていた。
だが、あの呂布と半数の兵で戦い、深傷を負わずに生還した。
自分の息子ながら、驚異的な生存能力と言わざるを得ない。
呂布にぶつける決断をした時、今生の別れと覚悟した。
だが、こうして無事に戻った息子の顔を見ると、深い安堵感に包まれた。
その時だけは、孫堅は将ではなく、どこにでもいる一人の父親だった。
だが、親としての感傷に浸っている場合ではない。
すぐに将としての自分を取り戻し、部下たちに指示を出す。
「戻った者は鎮火活動を続ける兵と合流。場所を報せる笛を吹かせろ。その後作業に当たる兵の護衛に回れ」
五騎が孫堅の護衛で残り、他の兵たちは駆け去っていく。
遠くで黒い影が幾つも飛び出してくるのが見える。
笛の音で場所は気取られるが、相手もまずは味方同士の合流を優先するだろう。
「周瑜、戻った兵は?」
「五十名ほどが帰還しております」
恭しく拝礼しながら、周瑜が答えた。
炎の中に分け入ったのは、周瑜が連れてきた兵と合わせて八十名ほど。
半数近くがまだ戻ってきていない。
その中には二代目持衰も含まれていた。
「父上、俺と公瑾で残ってる味方を探しにいく。許可を」
孫策も二代目が気掛かりなのだろう。
精強とはいえ、並の兵に二代目が簡単にやられるとは思えない。
孫策の報告では、呂布も孫策を追って城内に入っているという。
もし、二代目が呂布と戦闘になっていた場合、その生存は怪ぶまれる。
「いや、お前たちはもう半刻、この辺りを窺い、落ち延びてくる兵がいれば合流地点まで連れていけ」
「取り残されている兵を見捨てるのか?」
孫策が詰め寄ってくる。
こういところは二代目と似ている。
「そもそも、生存者が残っているかのかもわ定かではないのだ」
「父上、少なくとも持衰はまだ生きている。俺はそう思う」
青い。
死ぬはずがないと思った人間が、死なせないと思っていた人間が呆気なく死んでいく。もう腐るほど孫堅はそれを見てきた。
「救助には俺が当たる。呂布と遭遇した場合、お前が黙って見過ごせるとは思えんからな」
「父上が」
孫策が目を丸くする。
この息子は熱くなりすぎる。
もし二代目が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた場合、孫策は自分の命を忘れて、二代目を助けようとするだろう。
だが、孫堅はそんなとことはしない。拾えぬ命と判断した場合、躊躇なく見捨てる。
「三騎つける。いいか半刻経ったらすぐに合流地点へ向かえ」
周瑜が頭を下げる。
孫策が不服そうに見送る。
それ以上何も言わず、孫堅は二騎を連れて、再び炎の中に駆け出した。
城街に火の粉が舞う。
熱が頬を打つが、孫堅は意に介さず突き進んだ。
視界に入るのは、燃え落ちた家屋と、味方と敵の屍だけ。
――やはり、生きている者はいない。
見切りをつけようとしたその時、
微かに金属がぶつかり合う音が響いた。
乾いた、だが鋭い音。
「まだ戦っている者がいるのか……」
孫堅は馬首を返す。
途切れ途切れの音を頼りに、瓦礫の道を駆け抜ける。
音が近づく――が、ふいに止んだ。
――決したのか?
音のした方角を確かめながら、さらに馬を走らせる。
折れた柱を避け、燃え盛る梁の下を潜り抜ける。
角を曲がった瞬間、
視界が開けた。
そこは出口へと通じる比較的長い通り。
炎の中に、二つの影が向かい合っていた。
足元には、いくつもの死体が転がっている。
黒い鎧。羽飾り。
その圧倒的な存在感――呂布だ。
それに向き合うもう一人の男。
孫堅は目を凝らした。
中途半端に伸びた黒髪。
縛るでもなく、留めるでもなく、ただ風に揺れている。
線の細い顔立ち。
だが、その瞳の奥には、確かな意志の光があった。
――二代目。
まっすぐ立っている。
だが、足もとに黒々とした染み。出血しているのだろう。
二人の間に張りつめた気配。
この距離からでも、緊張が頂点に達していることを感じる。
次の一撃で決する――孫堅はそう悟った。
懸命に馬腹を蹴る。だが、間に合わない。
呂布の戟が、稲妻のように二代目の頭上へと振り下ろされる。
鉄と鉄が激しくぶつかる音。
二代目の刀身が砕ける。
だが、まるでその展開を予期していたかのように、
二代目は流れるような動作で呂布の懐へと飛び込んだ。
呂布が戟を短く持ち替え、突きを繰り出す。
同時に、折れた剣が呂布の胴を抉る。
――浅い。
ほぼ同時。
呂布の戟が、二代目の腹を貫いていた。
肉と血が、かき混ぜられるような音を立て、戟が引き抜かれる。
刃にまとわりついた赤黒い血が、炎の光に照らされて溶けていく。
二代目が、崩れ落ちそうになる。
「回収しろ!」
孫堅の叫びが、炎の轟きに混ざって響いた。
馬上から呂布へ斬りかかる。
不意を突いた一撃――だが、呂布は瞬時に戟を立て、
刃を弾き、身を翻してかわした。
視線が交錯する。
獲物の血に昂り、血走った瞳。
野獣の如き狂気。
孫堅の背筋を冷たいものが走る。
しかし立ち止まっている暇はない。
孫堅はそのまま馬を直進させる。
二騎の部下が続き、左右から二代目の身体を抱え上げた。
炎に包まれた街を抜ける。
呂布は追ってこない。
前を見据えて疾駆する。
開けた場所に出ると、すぐに二代目を横たえた。
荒い呼吸。まだ息がある。
鎧を脱ぎ捨て、衣の裾を破き、傷口を押さえて止血する。
部下の衣も裂き、包帯代わりに巻きつける。
血は止まりきらない。
「大谷関の方向へ全力で駆ける!」
孫堅の声が夜気を震わせた。
部下に命じ、二代目を馬の背にくくりつける。
孫堅自身も馬に飛び乗り、すぐさま走り出した。
空が白み始めている。
夜明けが迫る。
後発の歩兵隊は、すでに洛陽に近づいているはずだ。
その中に――あの男がいる。
もし間に合えば、二代目を救えるかもしれない。
一縷の望みを胸に、孫堅は馬を駆け続けた。
火の粉が尾を引くように、彼の背を追った。
やがて、兵の大軍が見えてきた。
翻る“祖”の旗。
前方から駆けてくる孫堅たちを、まだそれと認識できていないようだ。
進軍が止まり、戸惑いと警戒が祖茂軍の中に流れる。
構わず孫堅は加速する。
祖茂軍の先頭まで一気に駆け抜け、馬上から降り立つ。
「将軍。これは何事ですか」
孫堅だと気づいた祖茂が慌てて駆け寄ってくる。
「お怪我を」
鎧を脱ぎ捨て、二代目の治療のために衣を裂いた。
傍から見ればそう見えてもおかしくない。
「祖茂。すぐに于吉を呼べ」
余計な説明をしている間は無い。
祖茂も何も聞かず、駆け去る。
理解よりも行動が先だと、孫堅の声音から瞬時に悟った。
機微を察することができる。孫堅が祖茂を重用する理由の一つだった。
程なく、于吉が現れる。
再度、洛陽を目指す決めた時に、于吉を呼び寄せていた。道術は自体はさておき、その内の医療技術は無視できないものがあった。
于吉だけでなく、その下で学んだ弟子たちも連れてこさせてきていた。
即席の、だが有能な医療部隊になると考えたのだ。
「于吉道士。二代目を診てやってくれ」
部下が馬の背から二代目をそっと降ろす。
その衣は血に塗れ、腹部の包帯はすでに黒ずんでいる。
「持衰殿」
祖茂が叫ぶ。
倭人隊もいつの間にか来ており、口々に不安と驚き、哀しみの声を上げる。
于吉は取り乱すことなく、二代目を観察するように目を細める。
一歩前へ進み出ると、彼はしゃがみ込み、両手でそっと脈を取る。衣の上から傷口を覗く。周囲の喧噪が消え、皆がじっと于吉を見守る。
「時間はあまり残されておらぬ。ここで開ける。弟子ども、用意せよ」
号令と同時に、弟子たちが手際よく動き出した。
その中に一際身体の大きな男が混じっている。寿春で見た。確か宮崇と言ったか。
麻布、薬草、火鉢、針。
慌ただしい動きの中で、于吉だけが、ひとり静かだった。
その姿は、戦場の混乱の中にあって、まるで別世界の住人のようだった。
「宮崇、火鉢を二つ。薬湯を沸かせ」
于吉の声は低く、落ち着いているのに、誰も逆らえない威を帯びていた。
弟子たちが慌ただしく動く。
銅鉢に湯が注がれ、刻んだ薬草が放り込まれる。
黄連、黄芩、竜骨、蒲黄――苦く焦げた香りが漂い、
熱せられた空気が血と煙の匂いと混じり合った。
于吉は二代目の身体を静かに仰向けにし、
裂かれた衣をめくって傷口を確かめる。
指先が触れた瞬間、眉がわずかに動いた。
「……刃を、抜かれたな」
孫堅の顔が一瞬こわばる。
「呂布が……自ら引き抜いた」
于吉は短く息を吐く。
「刃が留まっていれば、血が栓をされていた。抜かれた今は、内の血が外へ、外の気が内へ入る――死へ傾く」
孫堅は言葉を失う。
「だが――まだ温い」
于吉は手のひらを傷口に当てた。
じんわりと血が滲み、掌に熱が伝わる。
「魂も、まだここにある。間に合うかもしれぬ」
宮崇たちが周囲を固める。
「衣をすべて剥げ。風を遮れ」
宮崇たちが二代目の身体を支え、血で貼り付いた布を慎重に外す。
腹の右脇――刃の跡は深く、肉が裂け、黒ずんだ血が泡立っている。
于吉は頷き、腰の袋から細い銀の針を取り出した。
「関元、気海、巨闕……血と気を閉じる」
針が静かに皮膚へ沈む。
そのたび、二代目の体がぴくりと反応する。
止まりかけていた呼吸が、かすかに戻る。
「よし。熱を上げろ」
火鉢の中の鉄棒が真紅に染まる。
宮崇がそれを差し出し、于吉が受け取った。
「動くな」
そう言うや否や、焼けた鉄を傷口に押し当てた。
肉の焼ける音と、焦げた臭い。
二代目の身体が反射的に跳ね上がる。
「押さえろ!」
宮崇が脚を掴み、別の弟子が肩を押さえる。
宮崇が掴んだ脚は僅かも動かない。
于吉は表情を変えず、鉄棒を離す。
血の滲みが止まり、焼かれた縁が黒く締まっていく。
「……よし。これで血の道は塞がった」
次に、薬湯を布に浸し、何層にも重ねて傷に当てる。
湯気が立ち、草の匂いがあたりを包む。
二代目の胸が、かすかに上下した。
荒れていた息が少しずつ整っていく。
「息が……」
祖茂が掠れた声で言う。
于吉は頷く。
「峠は越えた。だがまだ魂は戻りきらぬ。夜明けまで火を絶やすな。温を保ち、毒を追い出せ」
宮崇たちが頷き、薬湯を補う。彼の瞳には涙が浮かんでいる。
于吉は最後に二代目の額に手をかざし、
微かに光を宿した眼差しを送った。
「お主は儂の二番弟子だからな。先に死なせるわけにはいかぬ」
そう言って于吉は静かに立ち去っていく。
冷静に見えた于吉の背中に、汗が滲んでいることに気づいた。
彼方で、燃え尽きた洛陽の瓦が崩れ落ちる音がした。
山裾から陽が顔を出し始める。
夜が明けた。




