第四十話 呂布奉先
孫堅とその騎馬隊百騎が、洛陽の城門をくぐった。
火柱がいくつも立ち昇り、焦げた瓦の臭いが風に乗る。
孫策と周瑜が外で敵を引きつけてくれているのだろう。
振り返っても、呂布の黒騎兵の姿は見えなかった。
「六十名はまだ火の手が及んでいない地域まで急行。建物を破壊して延焼を防げ。その後、井戸水を汲んで鎮火に当たれ!」
孫堅の指示が飛ぶや否や、六十騎が地を蹴った。
馬蹄の音が、炎の唸りと混ざって響く。
その動きは乱れがなく、まるで一つの生き物のようだ。
誰が号令を出すまでもなく、瞬時に役割を分担し、散開していく。
見事なまでの意思統一に、思わず息を呑んだ。倭人隊でもこのようにはいかない。
兵一人一人の練度と、何より将の指揮能力の差が違いすぎる。
「残りはここで待機。策たちがいつまでも持つとは思えん。鎮火活動を邪魔されぬよう、俺たちは追っ手を引きつける」
孫堅は、はじめから孫策たちが無事に済むとは思っていない。
無情に思える言葉だが、俺は何も言えなかった。
孫策たちを囮にすると決断した時。
孫堅の背は確かに震えていた。
孫策の身を最も案じているのは、他でもない孫堅なのだから。
先ほど孫堅に非難の言葉をぶつけようとした自分を、心の中で恥じた。
「孫策と周瑜には、この後も大きな“役割”がある。歴史が確定している以上、ここで死んじゃったりはしないと思う……」
ナビが少しでも俺の憂いを軽くしようと気遣ってくれる。
「わかってる。孫策も公瑾も、ここで死ぬような玉じゃない」
そう、確実ではないが、おそらく2人は死なない。
だが、共に呂布に立ち向かった仲間たちは?
名を残さず死んでいった者たちに、歴史は無情過ぎる。
彼らの生き死には、俺たちにもわからない。
ナビもそんなことは承知で言っているのだ。俺たちは敢えてそのことは口にしなかった。
遠くで、馬蹄と刃のぶつかり合う音がこだまする。
鋼が擦れ合う甲高い音が、夜気を震わせる。
今すぐ飛び出したい衝動を必死に抑えながら、俺はその響きから、戦いの帰趨を必死に読み取ろうとする。
徐々に、その音が近づいてくる。
そして、炎に照らされた城門の向こうから、
黒煙を割って騎馬の群れが雪崩れ込んできた。
ーー頼む。孫策たちであってくれ。
俺は祈るように目を凝らす。
胸の奥で鼓動が、火の音と重なる。
そして、見えた。
「……公瑾!」
間違いない。
女性と見紛うほど長く、艶やかな黒髪。
戦塵を浴びてもなお、白磁のように滑らかな肌。
その肌が、燃えさかる炎の赤を映して揺らめく。
公瑾が馬上から手綱を捻り、こちらへと駆けてくる。
だが、公瑾の後ろに従う騎馬はわずか四十騎ほど。
半分以下に減っている。
そして――孫策の姿はない。
後方にいるのか、それとも……。
胸がざわつくより早く、
公瑾の隊列の背後から、黒い獣のような騎兵が迫ってくるのが見えた。
「騎馬隊、突撃。周瑜を援護する。だがまともにぶつかるな。鼻先を掠めるようにして引き返せ!」
孫堅の号令が轟き、思考が一瞬で切り替わる。
それに反射するかのように、俺は馬腹を蹴っていた。
公瑾たちの馬群とすれ違うようにして、黒騎兵へと突っ込む。
その刹那、孫堅の声が再び飛ぶ。
「周瑜、市街地に駆け込め!」
すれ違いざま、公瑾がかすかに頷いたのが見えた。
長い髪が炎の中で光を反射し、鞭のように揺れる。
ぶつかる直前、孫堅は馬首を強引に切り返した。
黒騎兵と擦れるように旋回する。
刃が交錯する火花の中、一瞬でこちらの兵が一人倒れたが、敵の進路を変えることには成功していた。
「このまま市街地まで敵に追わせる。炎に焼かれぬよう注意しろ!」
孫堅の声が騎馬隊の中を突き抜ける。
俺たちも燃え盛る焔の中に突っ込んだ。
公瑾の背に、孫策はいなかった。
観測者補正で強化された視力が、
一人一人の顔まで鮮明に映し出す。
――だが、どこにも孫策はいない。
その現実が脳裏に焼き付いて、集中が途切れそうになる。
今はそんなことを知る必要などないはずなのに。
俺は初めて、与えられた自分の力を呪った。
市街地に入ると、孫堅が馬を止めた。
狭い路地には瓦礫が散乱し、炎の明滅が壁を赤く染めている。
騎兵戦は不利だ。ここからは歩兵のように戦うしかない。
俺たちは馬を降り、火勢がまだ弱い方角へと馬体を叩いて逃がした。
「各自、五人ずつで散開!追ってきた敵を各個撃破する。一刻経ったら、脱出しろ!」
孫堅の号令に、全員が迷いなく頷く。
すぐに8つの小隊に分かれ、煙と炎の入り混じる市街地へと散っていく。
瓦礫を踏む音、剣の鞘が擦れる音、誰かの短い息。
街を焼く灼熱が肌を焦がす。
倒壊する建物に巻き込まれるか、あるいは炎に攫われるかもしれない。
今この場に立っているだけでも危険だ。
だが、この炎ですら呂布の黒騎兵の脅威には及ばない。
命を灰燼と化すはずの火は、むしろ俺たちの守護者のように思えた。
「炎に怖気づいてくれればいいが」
敵が街を包囲すれば、200騎でも全域は抑えきれない。
燃えていない区画へ移り隠れれば、払暁までやり過ごせるかもしれない。
朝方には祖茂さんの軍と倭人隊も到着するはずだ。
そうなれば、こちらの勝ちだ。
俺は燃え盛る家屋の間をひた走る。
――今のうちに、脱出口のあたりをつけておこう。
だが前方に黒い影。数は十ほどか。
「やっぱり追ってきやがったか」
相手も馬から降りている。こちらに気づくと、敵兵が突進してきた。
数は倍だが、道は狭い。三人が並べるかどうかの幅だ。
この市街地では少数でも十分に戦える。
先頭の三人が同時に槍を突き出す。鋭い突きだ。
騎馬でなくとも相当な鍛錬を積んでいるとわかる。
右側の仲間がやられる。俺は槍をかいくぐり、正面の敵の胴を斬る。
右手の敵が槍を振り下ろす。
剣を片手で振るい、空いた左手で槍の柄を掴んで引く。
態勢を崩した敵の腕を両断し、そのまま首を落とす。
左の敵は味方が何とか始末していた。残り七人。いずれも手強い。
強化された反応速度で刃を躱し、敵を斬り捨てる。
出合った十人を片づけた。気づけば方々で戦いの響きが木霊している。
仲間と敵を探しながら、俺たちは絶えず動き続ける。
碁盤の目のような街並みは、遮蔽物に事欠かない。
死角に潜み、物陰から敵を襲って始末する。
逆に不意を突かれることもあったが、観測者補正で感覚を研ぎ澄ませれば、かろうじて対応できた。
炎の勢いはさらに増している。
家屋の倒壊が進み、瓦礫に塞がれた道も目立ちはじめた。
煙は喉を刺し、息をするだけで咳が出る。
視界の赤が、空を塗りつぶしていく。
――そろそろ脱出の頃合いか。
道順は頭に叩き込んである。
決めていた出口まで駆け抜けるだけだ。
だが、その途上で――
何かが、音もなく揺らめいた。
目の前の通りの向こう、煙の隙間に“影”が立っている。
肩口には獅子の面。
頭頂部からは、特徴的な二本の羽飾りが揺れている。
そして――炎よりもなお、鋭く、冷たく輝く眼差し。
「とうとうお出ましか」
一人。
仁王立ちで、こちらを待ち構えている。
動かぬまま、炎の向こうでただ獲物を見定めているようだった。
やり合いたくはない。
だが今さら引き返して別の出口を探す余裕もない。
そうしている間に、ここ一帯は完全に炎に呑まれてしまうだろう。
四人で一斉に斬りかかる。
呂布が、のそりと戟を振りかぶった。
瞬間――。
辺り一面に血飛沫が舞う。
味方の血だと理解するのに、数呼吸かかった。
ある者は首を飛ばされ、ある者は胴を両断されている。
音すら遅れてやってくる。
なぜ自分だけが無事なのか、わからなかった。
白銀の閃光が視界の端で瞬いた。
肌が切り裂かれるような予感がし、反射的に身体を跳ねた。
それだけで精一杯だった。
受け身も取れず、背中から地面に叩きつけられる。
肺の中の空気が一瞬で抜ける。
はっとして、転がるように距離を取る。
立ち上がった時には、呂布の戟先がもうこちらを向いていた。
鋭い眼光が俺を射抜く。
その奥に、ほんの微かに色が宿っている。
これまで一切の感情を表さなかったその瞳に。
――興味。関心。そして、期待。
「餓鬼。雑兵にしてはよく動く。お前も孫堅の倅の一人か?」
低く、静かな声。
それなのに、その声の重みだけで、身体が竦み上がった。
「“お前も”ってのは……孫策のことか?」
歯を食いしばり、なんとか声を絞り出す。
情けないほどに震えていた。
「アイツは中々、楽しかった」
呂布の目元がわずかに細まる。
よく見ると、その右の脇腹に刀傷があった。
浅いとはいえ、確かに血が滲んでいる。
――孫策。この化け物に、傷を負わせたのか。
その事実が、恐怖に縛られた俺の胸を突き動かす。
そうだ、こいつだって人間だ。
斬れば血が出る。刺せば死ぬ。
俺は一歩踏み出した。
恐怖の鎖が再び絡みつく前に、全身の力を込めて剣を振るう。
だが、決死の攻撃も、呂布は表情ひとつ変えずに受け止めた。
戟の柄が火花を散らし、衝撃が腕を貫く。
骨が軋むような音がした。
それでも剣を離すわけにはいかない。
拳に力を込め、歯を食いしばる。
攻めているのは俺のはずだった。
なのに斬りかかるたびに、かえってこちらが追い詰められていく。
それでも俺は斬りかかり続ける。
その時、呂布が力を込めるのがわかった。
筋肉動き、反撃の予兆。俺にはそれが見える。
素早く後ろに飛ぶ。一呼吸遅れて刃が通り過ぎる。
激しい風圧が俺の全身を叩く。
呂布との間に間合いが空く。
「お前も面白いな。名乗れ」
腹に響く声。抗い難い強制力。
返事をすれば、コイツに屈したようで屈辱的だ。
だが、会話を繋げて時間を稼げば、その分、呂布をこの場に引き留めておける。
「孫堅軍、倭人隊隊長、持衰」
「倭人?異民族か。奇妙な名だ」
呂布は何かを思い出すように、目を伏せる。
「陽人で胡軫を引っ掻き回していた部隊か。孫堅が異民族どもを飼っているのも頷ける」
「別に飼われてる訳じゃねえよ」
さすがに呂布にくってかかる。
「孫策はどうした」
今度は俺が質問を返す。
「死んだよ」
無表情だった呂布の顔が初めて歪む。
俺の頭の何かが切れた。
「殺す」
殺意が恐怖を抑え込む。
呂布に向かって突進する。
ナビが何かを叫んだ気がしたが、すぐに背後へと流れていく。
戟の突きが俺を迎える。
避けきれずに俺の左肩を抉る。
血が噴き出るが、痛みはあまり感じない。
構わず前に出る。
斬り上げ。
呂布が反応して柄で防ごうとする。
読んでいた。見えている。
冷たい殺意が、俺を冷静にさせる。
冷静にこいつを殺すための最適解を模索する。
斬り上げた刃を途中で止める。
呂布の腹前で制止した切先を、思い切り前に出す。
呂布が柄を押し下げる。
反応が早すぎる。
皮一枚に届いたところで弾かれた。
即座に回し蹴りを放つ。
胸部に当たる。骨を折るつもりで蹴り込んだが、厚い胸板に阻まれる。
僅かに空いた距離。
必死に詰める。
戟の間合いは遠い。
常に懐にいればこちらが有利だ。
袈裟斬り。
勢いに乗る前に呂布が左手で刃を受け止める。
呂布の手に血が滲むが、剣は全く動かない。
握った剣ごと突き飛ばされる。
必殺の間合い。
呂布が戟を振りかぶる。
極限まで集中力を高め、動体視力と反射神経を底上げする。
脚部の重心を利用して、身体全体を地面に平行になるように跳ねさせる。
俺の補正を持ってしても見てからでは間に合わない。
戟の軌道を予測して、片手を伸ばす。
柄の感触。手で握る。
突如とてつもない遠心力が俺を襲う。
人ひとりの体重が加わってなお、意に介さぬように戟が振られる。
歯を食いしばる。
がら空きの顔面。
振り回された状態のまま、右脚で渾身の蹴りを叩き込む。
同時に地面に着地する。
手応えはあった。
突風。刃が迫ってる。
とっさに剣を逆手に取り、右手で柄を、左腕で刀身を支えて防御に回す。
刃と刃がぶつかり、火花が散った。
それでも呂布の一撃は勢いを失わない。
俺の剣は、鋼の咆哮に抗えず、真っ二つに両断された。
そのまま俺の身体に滑り込んでくる。
鮮血。血が噴き出す。
冷たい衝撃が全身を貫いた。
視界が暴れて、仰向けに倒れ込む。
呂布が俺を見下ろしている。
口の端から血を流している。
指先に力を込める。身体は反応している。まだ動ける。傷は内臓にまでは達していない。
直前で反応できた。
もがきながら起き上がる。
呂布はただ静観している。
仕止めようと思えば、いつでも仕止められるはずなのに。
呂布は、足元に横たわっていた仲間の死体から剣を引き抜き、無造作に俺の方に放る。
折れた剣を捨てて、持ち変える。構えを取る。
出血はひどいが、まだ僅かの間は戦える。
「ナビ。どうせこのままなら俺は死ぬ。許昌の時のように脳の制限を外したい。さっきからずっと試してるのにうまくいかないんだ。どうしたらあの時の俺と同じになれるんだ?」
半笑いでナビに問いかける。
どうしようもなさすぎてかえって笑えてくる。
呂布は強すぎる。
死ぬならせめて、こいつを道連れにしたい。
「できない。キミが転生する時、脳のロックを何重にもかけた。あの時と同じ力は、この先絶対に使うことができない」
ナビが首を横に振り、嗚咽を漏らしながら俺に告げる。
「お前はほんとに……、大事なことを直前で」
最後の最後まで相変わらずだ。
でも、そんなところがいかにもコイツらしくて、俺はまた笑みを零す。
「許昌の時と同じ力を使えば、キミは確実に死ぬ。だからあの力に縋らないで。まだ死ぬと決まったわけじゃない。みっともなくても何でもいい。地面に這いつくばって、呂布に許しを乞うてでも、何とかして生き延びて」
悲壮な面持ちでナビが叫ぶ。
そうか。まだ死ぬと決まったわけじゃない。
だったら、俺は、こいつを倒して生き残る道を選ぶよ。
目の前の敵に集中する。
呂布を殺す。生き延びる。
遠くで兵たちの叫びが、足音が耳に届く。
だが、その音も意識から遠のいていく。
一切の感覚を、今この戦いのために使用する。
足を踏み出す。呂布に向かう。
向こうからもやってくる。
振り下ろされる戟。
受ける。
呂布の力を真正面から受けた剣に亀裂が入り、先ほど同様叩き折られる。
呂布の瞳。今度は失望。
視えてるんだよ。
剣が折れる瞬間、腕を返して衝撃を流す。
身体のバランスを保つ。
渾身の力で地を蹴る。
一瞬の油断を。尊大な驕りを突く。
折れた剣を振り下ろす。
呂布の鎧を切り裂きながら、その肉体を滑っていく。
呂布の眼。喜色の色が浮かぶ。
――どうだよ呂布。俺もやるだろ?
右の脇腹に激痛が走った。
呂布の戟が突き刺さっている。
剣が短い分、傷が浅かったようだ。
どくどくと血が流れ出す。
誰かの足音。叫び声。
喧騒がまた耳に届いてくる。
もう時間のはず。
ここまで頑張ったんだ。みんな、無事に逃げてくれてればいいけど。
視界が黒くなる。何も見えない。
突然、身体が羽根のように軽くなる。
今自分は宙を浮いている。そんな気がした。




