第三十九話 洛陽炎上
ーー燃えてる。洛陽が、都が燃えている。
遠く霞む平野の彼方、洛陽の城郭を覆うように黒煙が立ち昇り、炎が天を舐めていた。
朱に染まった空が、夕陽でもないのに赤々と広がっている。
「な……なんで……」
思わず声が漏れた。
タケルも目を剥いて立ち尽くす。
「どうなってんだ……。火災か?」
兵たちの列にざわめきが走る。誰もが戦を忘れ、ただ燃え上がる洛陽を凝視していた。
「……董卓め」
いつの間にか孫堅が前まで出てきていた。
その顔は険しく歪んでいる。
「おそらく奴の仕業だろう」
公瑾は静かに頷いた。
「洛陽は漢王朝の心臓。だが、帝は既に長安に入られている。董卓にとっては、もはや”旧都” 何の価値もないということでしょう。
しかも自らの手で焼き払い、後を追う者に何も残さない。確かに効率的ではありますな」
「公瑾。その言い方はーー」
あまりの物言いに、公瑾を咎めようとしたが、彼の表情を見て言葉を呑み込む。
公瑾は下唇を噛み、怒りに震えている。
孫堅と同じくらい今のこの状況を悔しがっているのだ。
董卓の長安遷都。そして洛陽の焼き打ち。
歴史の年表には載っている過去の出来事。
こうなることを俺は知っていた。
……だけど。
長安遷都の時も思った。
一文で片付けられてしまう出来事。
だが、その一文の出来事の中に、これ程の怒りが、悲しみが、死が内包されている。
当たり前だが、これは現実に起こったことで、作り話なんかじゃないんだ。
戦場での勝ち負け以上に、俺の中に胸を抉る絶望が広がっていく。
「気の毒なのは敵将の徐栄もだな」
孫策が正面の敵陣に目を向けたまま、低く呟く。
「アイツにはまだまだ余力があった。なのに董卓は、ちょっと押し込まれただけで徐栄を見限って逃げ出しやがった」
確かにそうだ。崖上を制し、伏兵にも耐えたが、あくまでイーブンに持ち込んだだけ。戦は決して敗北ではなかった。
董卓の撤退は、あまりにも早すぎる。
「置いてかれたよりも、主君に信頼されていないことの方が堪えるだろうな。誇りを穢されたんだ」
孫策は同じ武人の立場から、敵である徐栄の胸中にまで思いを馳せていた。
視線の先では、徐栄が遠くに立ち尽くしていた。
槍を握る手が小さく震えている。怒りか、悔しさか。
兵たちもざわめき、指揮を仰ごうとしながらも、主君に見捨てられた戦場で、進む道を見失っているようだった。
徐栄軍は俺たち以上に動揺していた。
おそらく、董卓の撤退も洛陽炎上も知らされていなかったのだろう。
「如何されますか将軍?投降を呼びかけるのも一計かと」
公瑾が進言する。だが、孫堅が答える前に、徐栄軍はすでに動き始めていた。
「……撤退か」
孫堅の言葉通り、徐栄は大谷関を抜け去っていく。
洛陽には戻らず、そのまま長安を目指すつもりなのか。
「父上、どうするんだ?このまま董卓を追うか?」
孫策が問いかける。
「洛陽を捨て置く訳にはいかんだろう。取り残されている者もいるやも知れぬし、燃え広がる火を最小限に抑えねばならぬ」
孫堅の声は冷静そのものだった。
だが、その瞳の奥には、董卓を斬りたいという烈しい殺意が宿っているのが、はっきりと見えた。
仁義を重んじる将でなければ、すぐにでも追撃に走ったに違いない。
「黄蓋軍と程普軍は残れ。騎馬隊が洛陽まで先行する。祖茂軍と倭人隊は後から追ってこい!」
孫堅はそう言い残し、馬を駆けさせていった。
「タケル。俺も馬で先に向かう。洛陽までは倭人隊を頼むぞ」
俺はタケルに指示を出す。
「了解した。俺も剣だけじゃなく、馬の練習するんだったな」
タケルが軽口を叩く。重苦しい空気に不釣り合いだが、その言葉で少し俺は冷静さを取り戻す。
笑みを返し、俺も残っていた馬に跳び乗る。
孫堅に遅れて出発した公瑾と孫策、その騎馬隊の後ろにつき、洛陽へと駆け出した。
馬を走らせ、洛陽が近づくごとに、風に混じって、焦げた匂いが鼻を突いてくる。
見上げれば、空の一角が赤く霞んでいる。夕陽ではない。
やがて都の城郭が見えてきた。
木材が爆ぜる音。倒壊する建物の悲鳴。
もう間もなくだ。洛陽が間近に迫ってくる。
赤々と燃える炎。
だが、その炎の真ん中に、黒い闇が広がっている。
「…呂布か」
間違いない。陽人で見た黒騎兵。
洛陽の門を守護するかのように立ち塞がっている。
この期に及んでなぜ。
もう洛陽を守る必要は無いだろ。
「胡軫の副将だった奴か。構わん、このまま蹴散らせ」
孫堅が指示を出す。
兵達が前傾して、鞭を打つ。
馬群はぐんぐん加速していく。
「孫堅、ちょっとーー」
ダメだ。聞いちゃいない。
ーーやるしかない。
俺は腹を決めた。
お互いの騎馬隊が二匹の大蛇のようになって接近する。
200騎ほど。数は互角だ。
双蛇の顎が牙をぶつけ合う。
激しい衝撃。
黒い大蛇に弾かれ、自軍の軌道が大きく逸れる。
「何だあれは」
孫堅は驚愕する。
「凄いなあの黒い騎馬隊」
対照的に、孫策は喜色を浮かべている。
呂布の騎馬隊はすぐに方向を変え、こちらに向かってくる。
速度は圧倒的にあちらが上。
すぐに追いつかれる。
「分散」
騎馬隊が左右に分かれる。
勢いを止めきれず、中央を黒い塊が駆け抜けていく。
左右に分かれた俺たちは、呂布たちとは反対方向に駆け、また一つとなる。
呂布の黒騎兵も馬首を返して向かってくる。
今度は2列。
同じ手は通じそうにない。
「このまま洛陽に入る。策、周瑜、死んでこい」
孫堅は低く、断を下した。城門は右手に見え、炎の熱が襟元を灼く。
孫策は瞬時に鞭を打って、隊を反転させた。公瑾も即座に騎を返す。彼らの前には、なお倍する数の黒い塊――呂布の黒騎兵が、風を切って突進してくる。
ーー足止めか。
「おい、孫堅。なに考えてる。息子を置き去りにするのか?」
「いい加減に理解しろ。お前がいるのは戦場だ」
その言葉は刺さる。孫堅の目は既に洛陽に向いていた。守るべき民と都。捨て置けぬものがそこにある。彼の背中に、将としての決意と、父としての苦悩が同居していた。
鞭を打ち、孫策は更に馬を疾駆させる。
先ほどのぶつかり合いでわかった。
騎馬の力は向こうが遥かに上だ。
しかも今はこちらの方が数が少ない。
普通にやり合えばこちらがやられるだろう。
自分を含め、誰一人として生き残らないかもしれない。
そこまで考え、孫策は禍々しい笑みを浮かべた。
だからこそ楽しいのだ。極限での命のやり取り。
初陣を飾ってから、これ程までの敵に出会うのは初めてだった。
黒騎兵。もう目の前に迫っている。
すぐ左は城壁。孫策は直前で馬体を傾け、軌道を右へずらした。
だが反応が早い。いや、読まれていたのか。
呂布も同時に馬首を返し、戟を横薙ぎに振るう。
剣で受ける。火花が散り、全身に衝撃が走った。
両腿で鞍を締め、必死に馬から落ちまいと耐える。
騎馬隊がそのまま行き違う。
視界の隅で味方が次々と地に叩きつけれているのが見えた。
「……二十騎やられたか」
残り八十。
「公瑾、生きてるか」
「まだ何とかな」
「今のやり取りで、何人倒せた」
「三騎」
口角が上がる。
こちらも鍛え抜いた精鋭のはずだ。だが、あちらは桁が違う。
馬の力、突撃の重さ、兵の練度。そのすべてがこちらを上回っている。
常人なら震え上がる場面だろう。
だが孫策は逆だった。胸の奥から熱がこみ上げ、笑みがこぼれる。
「……いいな。最高だ」
あんな化物と命を賭けて渡り合える。その喜びに、孫策は打ち震えていた。
「公瑾、隊を分けるぞ。父上たちは洛陽に入った。お前たちも続け」
「君はどうする」
「足止めは必要だろ」
そう言って孫策はまた楽しそうに笑った。
「呂布と戦いたいだけだろ」
「どうだかな。公瑾、地の利を活かせよ」
公瑾は軽くこちらに目をやり、馬群から外れる。
後ろには半数の四十騎程が付き従う。
公瑾たちの前方には、瓦礫や倒木が散乱している。
火は既に城外まで及び、民家にまで被害が出ている。
それらが障害となり、馬の脚を取る。
呂布も心得ている。ほぼ同数の五十騎程を向かわせた。
これで城内戦になっても、公瑾達は同じ条件で戦える。
「あとは俺たちだな」
孫策も建物の残骸でできた別の隘路に突っ込む。
呂布は追ってこず、そのまま後方を塞いだ。
更に半数で出口に周り込むのが見えた。
足は向こうが速い。確実に挟み込まれる。
やがて、狭隘が終わる。
黒魁が立ち塞がる。
呂布。その眼は据わっている。
「退屈させて済まないな。でも、今度はきっと楽しいぞ」
孫策は背を低くし、馬の脚を潰すつもりで全力で疾駆させる。
瓦礫に阻まれ、軌道を逸らすことはできない。
もとよりそのつもりだ。
そのまま呂布に正面から激突する。
空気を裂くような、呂布の戟の一振り。
上体を背中向きに倒す。
目の前を戟の刃が通り過ぎる。
常人離れした孫策の両足の筋肉が、馬の胴体を挟み込む。
しかし、避けきれなかった仲間の首が幾つか飛ぶ。
裂帛の気合を込めて、孫策が身体を起こす。
勢いを利用してそのまま剣を振る。
首には届かない。胴を狙う。
斬った。いや浅い。
呂布が瞬時に馬の方向を変えていた。
刃先にわずかに血が滴っているだけだ。
直後、黒騎兵の群れが押し寄せた。
孫策の馬は一回り小さく、並ぶだけで劣勢は明らかだ。馬体が衝突すれば、あっという間に押し潰される。
孫策は迷わなかった。鞍を蹴り、宙へ跳ぶ。
敵騎兵の顔面を踏み台にして落下を凌ぐ。だが群れは止まらない。
肩を打たれ、腕を弾かれ、身体は何度も回転しながら弾き飛ばされる。それでも孫策は必死に受け身を取り、地を蹴って立ち上がった。
残った味方は僅か十騎にも満たない。
「門は目の前だ。洛陽に入る」
そのために仕掛ける位置は調節した。そして、呂布は孫策と入れ違いに狭路に入っている。
すぐには反転できない。
部下たちも馬から降り、城内へ駆け込んだ。




