第三十八話 大谷関の戦い
手筈どおり、俺は倭人隊を二つに分け、右側の崖上に伏した。
対岸には祖茂さんとタケルたちが既に張り付いている。ギリギリお互いを視認できる距離だ。
崖の縁で息を殺す。岩の冷たさが手のひらに伝わる。
合図。剣を三閃。陽光を反射して煌めく。——俺は体を反転させ、岩の窪みから跳ね上がった。剣を右手に、左手は岩をつかむ。崖上の弓兵が一瞬だけ顔を上げる。矢筒の影が乱れる。俺たちは一気に走り込む。
矢が先に飛んだ。空気が裂け、音が耳に刺さる。
俺は先頭を進む。
観測者補正が効いて、弓の軌道は手に取るように分かる。後続の兵を守るように矢を弾く。だが補正は万能ではない。弓手はよく訓練されている。剣の間合いから外れた矢が後方に流れる。一本、二本――仲間の肩を浅く掠めていく。呻きが混ざる。
「右だ!岩の陰に入れ!」
崖上は岩で溢れている。
崖下からの反撃を防げるメリットはあるが、今は俺たちに有利に左右している。
だが、これ以上進むのは難しい。
岩から飛び出した瞬間、針鼠にされるだろう。
「何人かは倒したいところだが」
突破口はないか辺りを見渡す。
枯れ枝がざわめいているのが分かる。
「伏兵だ!」
味方に向かって叫ぶ。林から武器を持った歩兵が飛び出してくる。数は多くないが、地形は彼らの味方だ。槍の穂先が天を切り、渾身の突きが迫る。
俺は観測者補正をさらに絞り、相手の呼吸と脚の重心を読む。槍の振りが見え、瞬間的に軌道から逸れる。
隙を狙って刃を振る。肉を割き、血が熱く指を濡らした。
味方もよく応戦しているが、その間にも奥から矢が襲ってくる。
「退け!」
この後の黄蓋の負担を少しでも和らげたかったが、これ以上の戦闘は無謀だ。
俺は血でじゅくじゅくした手を引き、まだ敵の相手をしている仲間を引き寄せる。矢に警戒しながら撤退する。
敵も深追いはしてこない。自分達の役割をよく心得ている。
「さすが徐栄。胡軫のようにはいかないか」
後方に下がり、自陣近くの崖上から滑り降りる。
本隊に戻ると、孫堅が馬上でこちらを見据えていた。黄蓋は兵に盾を並べさせている。
「行くぞお前ら」
倭人隊の姿を認めるなり黄蓋が出陣の号令をかける。
躊躇いは微塵もなかった。重歩兵隊が地鳴りのような足音を鳴り響かせる。
「持衰」
「タケル、犠牲は?」
逆側からタケル達の分隊がやってくる。
「無い。弓兵は五人ほどしか斬れなかった」
充分だろう。こっちは1人も仕留められなかった。
やっぱりコイツは別格だな。
お互いの状況確認を済ませ、俺たちは再び崖上に登る。
黄蓋軍が進軍を続けているが、まだ弓には晒されていない。
多少は俺たちが陽動になれたようだ。
だが、間もなく両側から矢の雨が降り注ぐ。
兵たちは四方に盾を構え、矢を防ぐ。
足の遅い重歩兵隊にしてはかなり進めた方だが、ここで進軍速度が更に下がる。
徐栄軍はまだ5キロは先だ。
それでもずるずると兵達は歩を進めていく。
「盾に守られているとはいえ、全てを防ぎきれるもんじゃない」
倭人隊の二度目の突撃は孫堅から指示がくる。
だが、合図の鼓の音は未だに聞こえない。
臍を噛む思いで、それを待つ。
あと3キロ、2キロ。
敵本陣が近づいていく。
“徐”の旗が揺れた。
弓のみで止めるのは困難と見たのだろう。
徐栄軍が黄蓋軍に向かって進撃する。
だが、こちらにとっても都合がいい。
もとより黄蓋の軍で本陣を落とすつもりは無い。
迎え討ってくれれば、退却の際それだけ本陣が近くなる。
徐栄軍がぶつかる。間近で見るのは初めてだが、話しに聞いていた通り、凄まじい強さだ。
胡軫との戦いではびくともしなかった黄蓋軍が、矢にさらされているとはいえ、押され気味となっている。
だが、それでも踏みとどまっている。
徐栄の方にも被害が出始めている。
崖上から敵の伏兵が逆落としをかける。
粘り強い黄蓋軍を倒すため、伏兵を使う必要があると考えたのだろう。
本陣から合図が出る。
「ようやくか」
兵に指示を出して、再度敵弓隊を攻撃しに行く。
だが、弓隊を抑えても、伏兵から側面を狙われれば一溜まりもない。
本陣から二つの騎馬の塊が飛び出してくる。
2つの“孫”の旗。
孫堅と孫策の騎馬隊が、それぞれ左右の崖上からの伏兵に対応する。
弧を描きながら崖上を騎馬で登っていき、崖から降りきる前の敵を蹴散らす。
黄蓋軍は敵と正対しながらじりじり下がっていく。
倭人隊も弓隊に接敵した。
味方の援護に躍起になっていたのだろう。先程よりも迎撃は弱かった。
弓兵は剣に持ち替え応戦する。
剣を弾いて叩き斬る。
何人かは吹き飛ばされて崖の下へと落ちていく。
間もなく敵を一掃、崖上を制圧した。
対岸も同様のようだ。
ーーこちらの犠牲は3人。
死んだ者達の顔が一瞬脳裏をよぎる。
あの3人は、もう共に故郷に帰ることはない。
感傷を振り払い、崖下を見下ろす。
矢の圧力が無くなり、黄蓋軍の撤退スピードが速まる。
後軍の程普たちは既に進軍の用意はできているが、狭い渓谷のためにすれ違えない。
左右に分かれ、黄蓋軍の帰還を待っている。
孫堅、孫策騎馬隊の援護でようやく黄蓋軍が帰陣する。
黄蓋たちが通り過ぎたあと、道を塞ぐように左右の程普軍が再び一つになる。
徐栄軍は本陣に近づいた段階で追撃は諦め、堅陣を組みながら後退を始めている。
「中々隙がないな」
黄蓋を追って自陣近くまできてくれれば、入れ違いの程普軍が本陣近くで戦えたのだが。
本陣に近ければ、攻め込まれる危険もあるが、援護を受けやすいというメリットもある。
程普軍はそのまま進軍を続ける。
崖上を陣取ったおかげで、先ほどのように矢の斉射を受けることはないが、いつまでもここを確保できるかわからない。
そして兵糧のこともある。
袁術からの支援はやはりないそうだ。
俺は拳を握りしめる。
一旦対陣して相手の出方を窺いたいところだが、このまま攻め続けるしかない。
馬上の孫堅が号令をかけるのがわかった。
程普軍の速度が上がる。
徐栄軍は動かない。あくまで迎え討つ構えだ。
俺たちも矢で援護したいがーー
敵兵がこちらにも向かってきている。
この高台はやはりどうしても欲しいようだ。
今度は俺たちが守る側となる。
岩陰に隠れ、矢を放つ。
相手もそれに応戦しながら、少しずつ近づいていくる。
ひと駆けの距離。
敵が先に飛び出してくる。
岩を盾にしながら、敵に応戦する。
この場は守る方に地の利がある。
形勢不利と見たか、相手が退いていく。
「このまま前に出る!」
俺の声に、倭人隊が一斉に駆け出した。
岩陰を離れ、崖の防御を捨てて平地に降り立つ。
土煙が舞い、靴底が砕けた礫を蹴り散らす。
眼前では程普軍が徐栄軍と激突していた。盾と槍が絡み合い、どちらも崩れず、まさに膠着状態。
「今なら、崩せる!」
俺は声を張り上げた。
崖上から矢の援護はない。さっき退けた弓兵がまだ再編できていないからだ。
この隙につけ込む。
敵の左翼に飛び込むと、最初の一列は完全に虚を突かれた。
槍を構える暇もなく、短剣で継ぎ目を裂かれ、叫び声を上げて倒れていく。
「祖茂さんなら俺の動きに気づいてくれるはず」
果たせるかな、反対の崖上からも、祖茂さんとタケルのいる倭人隊が降りてきているのが見えた。
「奇襲だ!側面を襲われている!」
敵兵の叫びが伝播し、徐栄軍の両翼に混乱が広がっていく。
程普軍もそれを見逃さず、槍を前に押し出して一気に圧をかける。
二方面からの挟撃。敵の隊列に、ついに亀裂が走った。
だが——そこに徐栄の怒号が轟く。
「引くな! 前へ押し立てよ!」
鋼のような声が谷間に響き、崩れかけた兵たちを叱咤する。
実際、混乱しかけた兵の背に新手が割り込み、陣形を強引に繋ぎ止めた。
さすが曹操を破った男。統率の速さが常軌を逸している。
「クソッ……これでも崩れないのか!」
俺は血に濡れた刃を握り直す。
この一瞬が勝負だ。ここで抜けなければ、今度はこちらが疲弊して飲み込まれる。
「全員、俺に続け!ここが決戦だ!」
倭人隊が叫びを上げ、再び敵の隊列を破るために突っ込む。
程普軍の槍列も合わせて押し出し、戦場が大きく揺れ動いた。
早くしなければ、また弓矢の餌食になる。
皆もそれはわかっている。
必死で攻撃を繰り返すが、徐栄軍が硬い。
だが、その時。大谷関の扉が開いた。
「どういうことだ?公瑾か孫堅が何かしたのか?」
奥にいる“董”の旗が遠のいていく。
撤退を始めているようだ。
「何が起こってる?」
ここからでは状況がつかめない。
そして、突如敵からの圧力が弱まった。
相変わらず隙はないが、徐栄軍は徐々に後退を始めている。
ーー追うべきか?
しかし鳴らされたのは後退の鉦だった。
孫堅軍と徐栄軍はお互いに距離を取ることになる。
「持衰、どうなっている?何で董卓はいなくなったんだ?」
後退が完了したところで倭人隊も合流し、タケルが俺に話しかけてくる。
「わからない。俺たちの側面からの奇襲があったとはいえ、戦線は膠着していた。寧ろあのまま続ければ、向こうはまた崖上から弓で攻撃することもできたかもしれない」
なのに、徐栄は董卓を逃がした。
いや、置いていかれたのか?
その思考はすぐに寸断される。
俺の目の前に信じられない光景が飛び込んできた。
ーー燃えている。洛陽が。都が燃えている。




