第三十六話 陽人の戦い
梁県までは順調だった。
董卓は洛陽防衛に固執しており、長安復興までの時間稼ぎさえできればよいと考えているのだろう。
だが、ここから先は董卓の影響力が強い。
敵が打って出るとすれば、この辺りからだ。
事実、1年前に孫堅が徐栄に敗れたのも、この梁県でのことだった。
孫策は50騎を率いて前方索敵に駆ける。
倭人隊は騎馬が入り込めぬ隘路を進み、斥候や伏兵を警戒しながら慎重に足を運ぶ。
やがて、陽人聚。梁県の西方、数十里の彼方に、敵軍の陣影がかすかに見えた。
進軍停止の鼓が打ち鳴らされる。孫堅への報告はすぐに届けられた。
だが俺は、なお一歩、敵へと近づいてみることにした。
敵の旗印、中央に“胡”の旗。そして、脇を固めるように見えたのは“呂”の旗だった。
ーー呂?
「“胡”っていうのは、おそらく大督護の胡軫の旗だな」
「大督護って何だ?強いのか?」
傍らにいたタケルが、俺の呟きに反応する。 「大督護ってのは……、」
チラッとナビの方に視線を送る。
「要するに軍の“監督役”みたいなものかな。将軍ほど偉くはないけど、実際に兵をガッツリ動かせる立場。だから、現場においては相当な権限を持ってるってわけ」
ナビのセリフをそっくりそのままタケルに伝える。
「なるほど……董卓がわざわざ派遣してくるくらいの相手、ってことか」
タケルの瞳が炎を宿したかのように燃えている。名のある将と戦えるのが嬉しくてしょうがないようだ。だが俺が気になるのは胡軫よりも、もう片方。 “呂” って、やっぱり呂布だよな……? 三国志でも超有名なラスボス級最強キャラ。呂布奉先。この段階でもう出てくるか。
「そう、呂布奉先だね!」
ナビがいつもの軽い調子で割り込んでくる。 「騎馬武芸は無双、武力ランキング常にトップクラス!赤兎馬に乗って無双する、伝説の暴れん坊!味方には信用されないけど、敵に回すと最悪の存在――それが呂布。別名“人中に呂布あり、馬中に赤兎あり”って格言まで残ってるんだよ!」
「ナビ、お前なんか嬉しそうだな」
「そんなことないけど、とりあえず今は大人しくしてた方がいいよ。本隊に戻って後方待機。キミなんかじゃ絶対勝ち目がないんだから。ね、そうしよう」
この時の呂布はあくまで胡軫の副将。ヤツの武名はそれほど轟いてはいないだろう。だが、俺の時代には呂布=最強のイメージが強い。
どうする?ナビの言う通り一度引き返すか?
しかし、俺の逡巡を余所に、騎馬で索敵を行なっていた孫策が信じられない行動に出た。
「あ、あいつ、突っ込みやがった」
「おお、流石伯符殿」
タケルが感嘆の声を上げるが、そんな呑気に感心してる場合じゃない。
孫策は僅か50騎。
だが、向こうの陣容を見るに、一万ほどの兵数はありそうだ。
蟻を踏み潰すくらい簡単にやられるぞ。
敵は孫策の存在に気づいてなかったようで、慌てて前列の兵が矢を番えようとする。
しかしそれよりも早く孫策が敵陣に到達した。
鼻先を掠めるように騎馬で通り過ぎる。
二、三人は斬り倒した。
そのまま背中を向けて離脱しようとする。
敵陣から騎馬隊が飛び出してくる。
僅かとはいえ、一方的に兵を倒されたのだ、必死の追撃から、向こうがかなり怒っていることが見て取れる。
揺れる“胡”の旗。
隊列などお構いなしに孫策を追う。
胡軫の歩兵隊も前に出てきているが、明らかに胡軫の騎馬隊だけが先行してきている。
「これは……」
俺は仲間に鼓を打たせる。
“敵が進軍を開始。迎え討つように”との合図だ。
すると孫策が突如振り返り、騎馬隊を敵軍に突っ込ませる。
全体の数では圧倒的に向こうが上だが、隊列なんてお構い無しに追ってきたせいで、局地的に見れば同数になっている。
一番速かった騎馬隊が孫策とまともにぶつかるが、あっさりと粉砕された。
遠くからは孫堅の歩兵大隊の土煙が見える。
胡軫軍の本隊も、孫策を追いかける勢いのまま、こちらにぶつかる構えのようだ。
索敵だけのはずだったのに、孫策のおかけで早々に開戦してしまった。
間もなくぶつかるかという所で、孫堅は軍を停止させ、守りを固める。
流石に冷静だ。胡軫軍はそのまま突っ込むが、こちらは万全の態勢で迎撃できる。
孫策が味方本隊の中に飛び込む。
その後胡軫軍が正面からぶつかる。
中央の黄蓋の重歩兵軍が受け止めるが、まったく動じていないようだ。
ぶつかってきた胡軫軍の方が、自ら硬い壁に激突したように倒れていく。
「孫策め、呉子の“論将”ってやつか……」
公瑾に教わった兵法書の一節を思い出す。
――囮を敵に差し出して、その追い方で相手の力量を測れ。
慎重に追ってくるなら強敵、無分別に追えば凡将。
まさに今の胡軫だ。
遮二無二に飛び出したその時点で、すでに勝
敗は見えていた。
おそらく孫策は相手の実力を測るために、わざとあんな突撃をしたのだろう。
だけど無茶には変わりない。
すぐに追いつかれたら終わりだし、そもそも俺が意図に気づいて本隊に合図を送らなければ成立しなかった。
あいつのお陰で肝が冷えた。
「俺たちも行くぞ!」
俺は倭人隊に号令をかけ、隘路から飛び出し敵の側面を突く。
倭人隊20人。全体は80人だが、敵に捕捉されないためにギリギリの人数に絞っている。
残りは左翼の祖茂隊に一時的に組み込まれている。
わずか20人だが、不意をつけばそれなりに効果はある。
奇襲に対して、敵左翼はすぐに反応できず、最初の一人はあっけなく首を落とされた。
「攪乱だけのつもりだったが……」
そう呟く間にも、タケルの剣は鮮血を撒き散らしている。
彼が振るえば、一撃ごとに敵の命が絶たれる。
本来は混乱を誘うだけの小隊が、まるで死神に率いられた突撃隊と化していた。
「予定変更!このまま押し込め!」
圧倒的なタケルの武に引っ張られるように、他の18人の倭人隊も驚異的な働きを見せている。
1年近くに及ぶ孫堅の調練が、確実に今までになかった力を発揮させている。
倭人隊の奇襲により、胡軫の左翼軍は明らかに攻撃力を落としている。
その機に乗じ、程普軍がかなり押し込んできている。
敵はどちらに対応するべきか判断できず、中途半端な抵抗しかできていない。
軍勢に紛れて見にくいが、中央は黄蓋軍がしっかりと止めている。
この調子でいけば、程普と合流できる。
敵左翼軍を潰走させ、中央の敵に側面攻撃も可能だ。
――押している時こそ慎重になれ。公瑾に叩き込まれたことだ。
観測者補正を使い、体感ではゆっくりと周りの状況を確認する。
「下がれ!敵歩兵は程普に任せろ!右手、盾!」
素早く指示を出す。
来た。“呂”の旗を掲げた騎馬隊。
呂布の軍だ。
兵士全員が漆黒の鎧を纏っている。黒い騎馬隊が前へ出てくる。
その先頭――ひときわ目立つ赤毛の大馬に跨る武者。
「でかい……!」
思わず声が漏れた。周りの騎馬がまるで子馬に見えるほど、ひと回りも二回りも大きい。
タケルも目を丸くする。
「あれ、普通の馬じゃないからね」
ナビが口を挟む。
「キミも普段見てるから分かると思うけど、この時代の軍馬はかなり小柄。
それに対して、呂布が乗ってるのは“汗血馬”って呼ばれる西域の超名馬だよ。後世の創作だと、“赤兎馬”って名前で有名だよね」
ナビがこの場にそぐわない、呑気な声で解説する。
「汗血馬……」
俺は唾を呑む。
赤兎馬。その名が歴史の中で語り継がれる理由が、目の前の光景でよく分かった。
馬中の王。その背に跨るのが、呂布奉先――人中最強の将。
物凄い速さで迫ってくる。
だが、こちらの防御態勢もギリギリで間に合う。
接近してくる呂布の姿を観察する。
漆黒の甲冑に、金で縁取られた獅子の面が肩を守っている。
額には金冠を戴き、そこから二本の黒い羽飾りが風を裂いて靡いている。
背から流れる長髪が闇夜のごとく、烈風を孕んで翻る。
眼差しは冷徹に研ぎ澄まされ、戦場にありながら一切の感情を感じさせない。
伴う騎兵隊の葛中も黒を基本とした配色。
まるで闇そのものが、こちらに迫ってきているようだ。
呂布が手に持つ方天画戟を振り回す。
逆らわずに流す。
後続も続いて突入してくる。
反応が遅れた兵の首根っこを引っ張り、蹄にかからぬよう避けさせる。
「馬に勢いをつけさせるな!反転する前に追え!」
しかし、呂布達はそのまま遥か先に駆け去る。
「追撃しないだと?」
あの場で追撃を狙って反転しようとすれば、最後尾の兵を何人かは倒せたかもしれない。
孫策の挑発に乗らなかったのもそうだが、どうやら恐ろしく冷静なようだ。
「すげーなアイツ。嵐みたいだ」
タケルも感嘆の声を上げる。
何とか犠牲者は無しか。
だが、今の攻防で倭人隊はかなり引き離された。
再び程普軍と前線の敵に当たるため、そちらに向かおうとする。
「退却?」
突如鳴らさせれる鉦の音。
呂布に掻き回されたが、未だにこちらが優位。
このまま攻めれば胡軫軍は崩せそうなのになぜ。
だが命令は絶対だ。従うしかない。
「味方の撤退を援護する」
殿のように追撃の敵兵を倒していく。
先程まで押していたのだ。相手はすぐに攻勢に転じきれていない。
難なく退却は完了した。
陣を敷き直したところで、俺は孫堅のいる主力隊の方へ向かった。
「孫堅、なぜ退却したんだ?あのまま押し込めば胡軫を討てたかもしれない」
兵糧の支援を期待できない以上、最速で洛陽を目指さなければならない。
対陣が長引けば、それだけ兵糧を失うことになる。
それは他でもない孫堅が言ったことだ。
「落ち着け持衰殿」
「公瑾。でも、俺たちには時間がないんだろ?」
「時間がないからこそだ」
どういうことだ。俺はすぐには公瑾の意図が汲めなかった。
「あのまま攻めれば勝てたかも知れんが、犠牲も増えただろう。あの呂布とかいう副将のせいでな」
呂布。確かにアイツの一瞬の働きで、崩れかけた敵軍が立て直すきっかけになった。
「だから迅速に終わらせるために軍を退いたのだ」
「矛盾してないか。早く終わらせるために軍を退くなんて」
「持衰殿、教えただろう。戦いとは、相手を知ることから始まるのだ」
そんなこと俺だってわかってる。
「けど、今から相手のことを調べたって――」
「そこまでする必要はないさ。今のやり取りで、大体のことはわかった」
公瑾は常の余裕を崩さない。
「二代目、話はここまでだ。我々は更に軍を下げる。お前も倭人隊に指示を出せ」
「なに?せっかくここまで来たのにか──」
なおも抗議の言葉が出かかったが、孫堅の厳しい視線に射すくめられ、俺は黙るしかなかった。
結局、俺たちは梁県まで戻り、そこで布陣することになった。
三日が過ぎる。
「なあ、持衰。将軍は何を考えてるんだ? 確かにあの呂布ってヤツは凄かったけど、すぐ逃げてったし。あのままやれば絶対勝てたよな?」
「俺に言われてもわかんねえよ」
公瑾には一体何が見えているのか。逸る気持ちを抑えつつ、俺は遥か先の地平に目を凝らしていた。
その時、静寂を切り裂くように土煙が湧き上がった。遠方、翻る「胡」の旗──痺れを切らしたのか、向こうから動いてきたらしい。鉦が鳴り、孫堅の指示一つで兵の配備は迅速に整う。
今回は潜伏は不要だ。倭人隊は主力と共に待機を命じられ、八十人全員が揃っている。
俺は必死に“呂”の旗を探す。
アイツを止められるとしたら、孫策か、あるいはタケルを含む俺たち倭人隊だけだ。相手は騎馬兵なので捕捉は難しいが、味方を呂布から守るくらいはできるはずだ。
だが、今のところ呂の旗は見当たらない。代わりに視界に飛び込んできたのは別の朱色の旗だ。胡軫の陣に混じって見え隠れする「華」の旗──華雄か。
一年前の梁で、祖茂さんを追い詰めたあの男だ。
「公瑾」
「ああ、気づいたよ、持衰殿」
公瑾は短く頷く。前列がぶつかり始める。中央、黄蓋軍、左は祖茂軍、右に程普軍。華雄は祖茂軍の近くにいる。
孫策は何度も胡軫の旗本に突撃を試みている。
華雄に当たる余裕はなさそうだ。
「公瑾、アイツに味方がやられる前に、俺に当たらせてくれ」
「将軍」──公瑾が孫堅に伺う。
「やってみろ」
孫堅の返事は短かった。その声が届くや否や、俺は倭人隊を率いて走り出した。
「祖茂さん!」
祖茂軍と合流した俺は、すぐさま祖茂さんのもとへ駆け寄った。
「持衰殿か。心強い」
「華雄がいる」
「……何だと?」
祖茂さんの瞳に、刃物のような光が宿る。
一年前、孫堅の身代わりとなって追撃を引き受け、死地をくぐり抜けたあの時。
祖茂さんの心に刻まれた傷は、決して癒えてはいない。
華雄に一矢報いたいという思いは、俺以上に強いだろう。
「祖茂さん、ごめん。華雄には、小回りの利く倭人隊が直接当たることになった」
くやしさを押し込めるように、祖茂さんが唇を噛む。
普段は温厚な人が、珍しく怒りを隠そうともしない。それだけ、この仇敵に対する怨念は深い。
「……わかった。頼む」
短く、重い言葉。
俺は深く頷き、倭人隊を率いて走り出した。
狙うはただひとつ。翻る“華”の旗――華雄の陣だ。
砂煙の向こうに、漆黒の鎧と巨大な剣を振りかざす武者の姿が見え始める。
華雄。その名を口にしただけで、兵たちの足が竦むほどの猛将。
だが、俺たち倭人隊が挑むのは、まさにその巨影だった。
「華雄──」
これ以上あいつに味方がやられるのは堪えられない。敢えて自分の存在を知らしめ、華雄の注意を引く。
「倭人隊、左右に散開。タケル、周りの兵がうるさい。露払いしろ」
「あいよ」
タケルを先頭に、倭人隊が華雄以外の兵へと飛び込んでいく。雑兵をなぎ倒し、声と血煙で陣の視界を乱す。これで奴に集中できる。
「一年ぶりだな、持衰」
華雄が低く笑い、戟を大きく振りかぶる。奴の一振りには怪力が宿っている。柄の長い戟が風を裂き、振動が胸に伝わる。
俺は一瞬の間合いを見切り、戟の軸をすり抜けて懐へ飛び込む。前蹴り──見えている。紙一重でかわし、斬り上げを返す。刃は僅かに肌を抉るが、浅い傷だ。
「やるじゃねえか、神さま」
華雄が唸り声を上げ、さらに勢いを増して戟を振る。避け切れぬと判断して、俺は前に出る。柄を受け止め、全身で慣性を受け流す。勢いは殺したが、脇腹に食い込んだ一撃の重さが骨まで響いた。
「何でキミが華雄の相手をするのよ。タケルに任せればいいのに」
「俺の首を見せれば、アイツはこっちに集中する。タケルが抑えられるより、俺の方が都合がいい」
タケルは周囲の敵を次々となぎ倒している。祖茂さんの負担も軽くなっているはずだ。
もう一度、俺は華雄に間合いを詰める。
リーチは向こうが長い。普通ならこちらが不利だが、補正の力で軌道はすべて見切れる……はずだった。
だが華雄は、ただ振り回すだけの大男ではない。戟の先端を一度外すと見せかけ、軌道をひねり込む変化技を繰り出してきた。
「──ッ!」
辛うじて刀で受けるが、腕に痺れる衝撃が走る。補正があっても、怪力に押し込まれると防ぎ切れない。
「どうした神さま、その程度か!」
華雄が咆哮し、さらに踏み込んでくる。戟の影が空を覆い、逃げ場がなくなる。
俺はわざと半歩遅れて退く。頬を掠めるほどの一撃を、ぎりぎりでかわす。
刹那、華雄の重心が前へ流れた。観測者補正が、彼の動きを“遅れて”見せる。
その隙を突いて、俺は全力で踏み込み、刀を逆手に脇下の鎧の継ぎ目へ突き上げた。
「ぐ……!」
華雄の呻きが響き、巨体がたわむ。だが、まだ倒れない。反射的に戟を振り下ろし、俺の肩口をかすめる。痛みで視界が揺れるが、歯を食いしばって刃を押し込んだ。
「落ちろ……ッ!」
骨を擦る感触。肺を突き破る抵抗が、手に重く伝わる。華雄が膝をつき、戟を地面に突き立てて支えようとするが、そのまま崩れ落ちた。
地面が揺れ、土煙が舞い上がる。
“華”の旗が倒れ、敵兵の叫びが悲鳴に変わった。
俺は荒い息を吐きながら、肩から血を滴らせて立っていた。勝った……だが、補正があっても紙一重。もし一歩でも遅れていたら、ここで倒れていたのは俺の方だった。
「持衰殿が敵を討ち取ったぞ! この勢いに乗れ!」
祖茂さんの叫びが戦場に響く。
左翼の味方が一気に押し込み、華雄の直属兵はほとんどが倭人隊に斬り伏せられていた。胡軫の右翼軍も圧力に耐えきれず、後退を始める。
――他の戦線はどうだ?
中央の黄蓋軍は微動だにしない。突撃を受け止め、向かってくる敵を次々と屠りさる。あの血気盛んな男が、泰然自若と敵を粉砕する姿には驚かされた。
右の程普軍もじりじりと前進を重ね、確実に敵を押し込んでいる。
その時、自軍後方の騎馬が動いた。
赤い鎧と幘が遠目にも輝く――孫堅だ。まっすぐに胡軫の旗本目がけて突き進む。右翼の外側では孫策の騎馬隊が走り込み、父子の双撃が敵本陣を揺るがした。
敵はすでに潰走寸前。孫堅の刃が閃き、幾つもの首が宙を舞う。抵抗は形ばかりで、戦意のない動きがここからでも分かった。
――取ったか?
次の瞬間、敵陣から退却の鉦が鳴る。
旗が乱れ、兵たちが背を向けて駆け去っていった。
「追撃しろ! ただし少数で前に出過ぎるな、隊列は維持!」
孫堅の命が響き渡る。
「俺たちは先行する! 倭人隊、続け!」
軽装の利を活かし、80人が矢のように飛び出した。
戦意を失った敵兵に追いつき、背を斬り伏せる。断末魔の叫びが空気を裂く。
胸が抉られるような感覚に、慣れることはない。慣れたくもない。
やがて孫堅の指示が再び響く。
「停止! 深追いはするな!」
董卓の支配領域はまだ続く。包囲に遭えば元も子もない。無理な追撃は兵を疲弊させるだけだ。
それでも――これは大勝利だった。
胡軫軍は半数以上の兵を失い、洛陽へ敗走。呂布もそれに従い退いた。
戦場に残るのは、倒れ伏した兵と、勝利の余韻だけ。
俺は息を荒げながら剣を拭い、ようやく安堵の吐息を漏らした。




