第三十五話 かつての願い
その後魯陽に陣を敷き直し、徐栄軍の追撃に備えた。
敗走した直後とは思えない、孫堅軍の整然とした陣容を見るなり、徐栄はすぐさま軍を引き返していった。
曹操、孫堅という二大英雄に勝利しただけあって、機というものを弁えた冷静な判断だった。
洛陽に手が届く距離にいながら、兵糧の不足により撤退を余儀なくされた孫堅の怒りは凄まじいものだった。
追撃は無いと判断するなり、袁術の元へ事の次第を問いに赴いた。
兵站担当の者に不手際があり、輸送が滞った。
他の将たちへの支援もしなければならない。孫堅だけ特別扱いすれば不満が出る。
袁術は下手な言い訳を並べ立てたそうだ。
しかし、その顔には微かな嘲笑が浮かんでいたという。
袁術とて、こんな言い訳が通用するとは思っていない。
だが、孫堅が再起するには、袁術からの支援が不可欠だ。
袁術の余裕はそこからきていた。
結局、建前上は袁術の言い分に納得したことにせざるをえなかった。
事実、袁術から兵の補充と、南陽郡で引き続き、自由に物資の補給をすることを許可された。
これにより、孫堅は軍の立て直しを行うことができた。
以上が、孫策から聞いた一連のやり取りだった。
「袁術が兵糧輸送を止めた、本当の理由は何なんだ!?」
孫策からの話しを聞いて、怒りと共に浮かんできた疑問をぶつける。
「袁術の野郎に讒言したヤツがいたらしい」
「讒言?」
「将軍がこのまま洛陽入りを果たし、董卓を討つようなことがあれば、その権威がそのまま将軍に移ることになりかねない」
傍らにいた公瑾が代わりに答える。
「そうなれば、将軍は袁術以上の力を持つことになるだろう。そのような事を袁術に吹き込んだらしい」
「何だよそれ?自分は前に出て戦わないクセに、手柄を取られそうになったら邪魔するってことかよ」
「そういうことだ。連合軍などと言っても烏合の衆。既に自分達の利権や保身のために、裏では権謀術数が繰り広げられている。将軍は董卓だけでなく、そういった者たちとも戦わなければならないのだ」
愚かにも程がある。
今、多くの民が苦しんでいる。大勢の人が死んでいる。多くの不幸を尻目に、まずやることが足の引っ張り合いかよ。
そのために、祖茂さんが、みんなが死にかけた。
孫策も同じ想いなのだろう。公瑾の話しを聞きながら、大きな肩を震わせている。
「祖茂さんの様子は?」
「かなり回復している。祖茂が助かったのは二人のお陰だ。礼を言う」
「いや、最終的にはお前に救われたようなもんだし……」
全滅してもおかしくないほどの猛追を受けたにも関わらず、生き残った兵は多かった。
大打撃には変わりがないないが、孫堅の退却は見事だった。
普通なら軍としての体裁を保つことすらできなかっただろう。
その後孫堅は、傷の癒えた者たちや、袁術から与えられた兵を新たに加えて軍を再編成した。
魯陽の野には再び鬨の声が響き、沈んでいた兵たちの顔に、戦う者の光が戻っていた。
俺は正式に倭人隊の隊長となり、周瑜の下で指揮のいろはを学ぶ。石に描かれた布陣図を前に、周瑜は言う。
「将は隊の目であり、心臓である。隊が力を発揮できるかどうかは、全て君の采配にかかっているぞ」
全体調練の合間には、孫策と剣を交える。数カ月前よりもさらに速く、さらに強くなっていた。観測者補正を全開にしても、一度たりとも勝てない。
ま、まあ……俺は将としてのスキルを磨いてる最中だから?戦闘は二の次っていうか?
だから、孫策に一度も勝てなくても悔しくない。全然悔しくないのだ。……少しも。
驚いたのは、タケルにだった。俺や孫策と同い年ながら、仕合では孫策から四度に一度は一本を奪っている。
その一瞬の閃き、獲物を狙う猛獣のような気迫――これほどの才能が眠っていたとは。倭人隊において、タケルという存在は異彩を放っていた。
日々の調練は烈火の如く、兵も将も、徐栄に敗れたあの日よりさらに鍛えられていく。魯陽の野に響く剣戟の音は、軍全体が再生している証そのものだった。
そして西暦191年。
孫堅は遂に、再び洛陽を目指す。敗北の屈辱を胸に秘め、その刃を董卓に突き立てるために――。
進発する前に各隊の配置、役割を決定する軍議が開かれることになった。
「俺も軍議に参加するのか?」
「倭人隊の隊長だからな。そりゃそうだろ」 わざわざ召集のために孫策が俺のもとを訪れた。
「いや、俺軍議なんか出たことないし。後から決まったことだけ教えてくれればいいよ」 そう言って固辞しようとしても、孫策は許してくれず、無理やり引っ張っていかれた。
営地からほど近い、孫堅の幕舎まで馬で向かう。 中に入ると几と胡床が並べてあり、真ん中には地図や、おもちゃの駒のようなものが並んでいた。 まだ全員揃っていないようだ。孫堅の姿も見えない。
「どこに座ればいいんだ?」
とりあえず知ってる人の隣だと安心するので、孫策の後ろについていき、隣に腰を降ろす。
すると突然怒鳴り声が聞こえた。
「オイ、何でテメェみてえな下っ端が奥にいるんだよ」
この声は。 間違いない、黄蓋だ。 俺たちの方まで近づいてくると、黄蓋は厳しい目つきで俺を見下ろしている。「おお、黄蓋」
孫策がごく自然に声をかける。
「若、コイツと仲が良いのはわかってますがね、上下関係はハッキリさせねえといけませんぜ。下のもんに示しがつかねえ」
「持衰は客将だろ?上も下もないんじゃないか?」
「いえ、コイツは立派な志願兵でさ。自分からうちに入ることを希望しましたからね。つーわけでコイツの座る場所は末席です」
そう言って黄蓋は孫策に会釈をし、俺の首根っこを掴んで引き摺っていく。
孫策は特に止めるでもなく、俺と黄蓋を笑顔で見送った。
「おい、黄蓋。自分で歩けるから離せ」
なんとか俺は黄蓋の手を引き剥がす。
「つーか、席が決まってるなら最初から名札でも立てとけよな」
ぶつくさ文句を言う俺に対して、黄蓋は何も言わない。
おかしいな。最初に会った時のようであれば、今頃怒鳴り散らしてるはずなのに。
「ありがとよ」
そう言って黄蓋は、突然俺に軽く頭を下げた。
「え、何が?」
何に対しての礼なのか見当もつかなくて、俺は混乱する。
「祖茂のことだ。アイツは俺のダチだ。そしてお前はそのダチを救ってくれた。礼を言うのが筋ってもんだろ」
黄蓋は少し顔を赤らめている。
意外と可愛いヤツなのかもしれない。
「なぁ、黄蓋。祖茂さんの様子は?」
「すっかり元通りだ。今回の軍議にも参加する」
「そうか、もう良くなったなら安心したよ」
一命を取り留めたことは聞いていたが、調練が過酷すぎて見舞いに行く余裕もなかった。
快復したことが分かって本当に良かった。
俺は黄蓋に言われた通り端の席についた。
その後、まばらに将校たちが入ってくる。入ってくるのは皆、数百から千の兵を率いる歴戦の指揮官ばかりで、俺のような小隊長は一人もいない。鎧の装飾からして格が違う。
周瑜や祖茂さんの姿もあり、少し安心した。祖茂さんは俺を一瞬見て、わずかに目礼してくる。その視線には確かに感謝が込められている気がした。
だが、二人は俺より上座に座る。祖茂さんは分かる。だが同い年の周瑜まで、なんで当然の顔で上座なんだ。お前だって新参者だろ……家柄か、家柄なのか。
やがて幕舎の空気が一変した。孫堅と、その一族の者たちが入ってきたのだ。
将校たちは一斉に立ち上がり、恭しく拝礼する。俺も慌ててそれに倣った。
孫堅が胡床に腰を降ろし、皆がそれに続く。俺もワンテンポ遅れて座り直す。
「機は満ちた」
孫堅の声が幕舎を震わせる。
「昨年の敗戦の後、俺たちは研鑽に研鑽を重ねた。最早、袁術や、形ばかりの連合軍の力など必要ない」
その「袁術」という呼び捨てには、もはや従属ではなく侮蔑が込められていた。
将校たちの目が一斉に光を帯び、場の空気が一段と引き締まる。敗北の影は払われ、ここには再起を誓う者たちだけがいた。
「去年の一件で俺は理解した。連合軍など腰抜けばかりだ。骨のあった奴らは早々とやられてしまった。残っているのはこの期に及んで足の引っ張り合いしか頭に無い俗物どもだ」
孫堅の飛躍を嫌って兵糧を止めた袁術。
集まったはいいが、真っ先に犠牲になるのを恐れ、動き出すことのできない、他の連合軍。
完全に孫堅は、彼らを見限ったのだ。
「俺たちで、俺たちだけで洛陽を獲る。董卓を討ち、帝をお救いする」
孫堅が声を張り上げる。
諸将が孫堅に負けじと、大声で応じる。
幕舎には熱気が渦巻いている。
「袁術からの兵糧支援は期待できない。よって、悠長な戦はできぬ。出陣次第、一気呵成に洛陽まで突き進む」
兵糧が欠乏する前に勝負を決める、電撃作戦。
確かにもうこれしかない。
握った拳が緊張で汗ばむ。
「では、作戦の説明に移る」
そう言うと孫堅は公瑾に軽く目配せをした。
公瑾は軽く頭を下げると起立し、淡々と布陣案を述べた。彼の指は地図上で幾度か滑り、河岸、渡河地点、主要な街道、洛陽への近道を指し示す。
公瑾、いつの間にか作戦参謀みたいになってる。
若干16歳の少年がが将校たちの前でここまで堂々と話せるとは。
俺は内心で舌を巻く。
「先鋒は策が率いる。速射・速攻を得意とする騎馬隊を作り、道中の偵察と、もし敵の前哨があればこれを潰す。策は機動力を生かして、先に敵の目を攪乱せよ。…ただし無理はするな。進軍を路を確保したら即座に退くこと」
孫堅が孫策に命じる。先鋒。キケンな任務だ。まさか実の息子に課すなんて。孫堅の並々ならぬ覚悟を感じる。
しかし、孫策は嬉しそうに笑い、何も言わずにうなずく。
気負いは感じられない。戦に出られることを純粋に喜んでいるようだ。
「中央は黄蓋、重装の兵を以て防御と打撃を負う。
左翼には祖茂、右翼には程普を置く。後方は俺がつく、周瑜が総監、各部の連携と退路の管理を怠るな」
孫堅の目が地図から外れて、こっちを向いた。視線が滲むほどの熱を帯びている。
「倭人隊よ。お前たちをどこに置くかだが――持衰よ、聞け」
俺の心臓が一瞬止まるような気がした。周囲の視線が一斉にこちらへ向く。
「倭人隊は機動の部隊だ。お前らの小回りの利く強みを活かしてもらう。具体的な任務は三つだ」
公瑾がその言葉を受けて、駒一つ手に取る
「この駒が君たち倭人隊だ。一つは、伯符と同様に、先ずは周囲の索敵に努めてもらうが、より隠密性の高いものだと理解してくれ。
敵の偵察部隊と遭遇したらこれを撃破。伏兵に気づいた場合は旗や烽火を駆使して本隊に合図を送ってくれ。
二つ、我が軍が洛陽へ迫る最中に、側背からの小規模な突入を掛けて敵を掻き回せ。
敵の陣を乱すのだ。
三つ、これは持衰殿だからこそ頼めることだが、遊撃隊として各戦線の支援を行なってほしい。
君はどんな乱戦の最中にいようと、一瞬で敵と味方の状態を認識することができる。後方からの指揮であれば可能だが、敵と斬り結びながらそんなことができる人間は稀だ。その能力を使わぬ手は無いと、私から将軍に進言した」
公瑾に模擬戦の時に見せた、新たな観測者補正の使い方。
それを今回の作戦で最大限に活かせと言うことか。
実践での指揮は初めてなのに、そんな重要なポジションを任されるとは。
俺は期待される嬉しさよりも、プレッシャーの方が勝ってしまった。
「我らはただひたすらに洛陽を目指す。帝をお救いし、民の安寧を取り戻す。義は我らにある。故に、物資は限られているが、行軍中の略奪は禁止する。無秩序な食糧確保は逆に敵に口実を与える。補給は南陽郡のからのみとなる。現地での略奪を戒め、秩序ある行動を守れ」
王叡、張啓を躍進のために、半ば言いがかりで殺した孫堅だが、民への思いやりは忘れていなかった。
久しぶりに触れた孫堅の優しさに、俺は安堵した。
孫堅は最後に腕を組み、低めの声で締めた。
「まずは以前同様梁を目指す。その後、先鋒の策が先行して、索敵しつつ偵察点を超えろ。持衰、お前たちは先鋒に随伴し、側背の抜け道を確保。状況を見ながら適宜三つの合図を送れ。第一は偵察点の突破を告げる鼓。第二は進軍路確保の鼓。第三は非常時の停止と集合の鼓。絶対に誤るな」
俺はその一文一句を噛みしめた。鼓のリズム、夜間行動、側背の小道――どれもが即戦力として俺たちに負わされた任務だ。
軍議は細部の確認へと移り、公瑾が歩兵の通路幅、渡河地点、夜間の行動手順を一つ一つ説明していく。俺は地図と駒に目を凝らし、自分の動きを必死に頭の中でシミュレートした。
軍議が終わったあと、秘かに孫堅に呼び止められた。
孫堅の幕舎に1人で来るように告げられた。
言われた通り俺は孫堅の幕舎に足を運んだ。
中には孫堅1人だけだった。
「座ってくれ」
そう言われ、俺は孫堅の几を挟んで孫堅の向かいに腰かける。
孫堅は幕舎の隅に置かれた小さな甕を開けた。
濁りを帯びた芳しい香りが立ちのぼる。柄杓で掬われた酒は青銅の爵へと移され、さらに漆塗りの盃へ。
孫堅は杯を差し出し、「共に飲もう」と笑った。
いや、俺未成年……。でも精神年齢は六十超えだからいいのか?ていうかこの時代に飲酒法なんてあるわけないし……でも、そもそも酒なんて呑んだことないんだよな。
孫堅が先に豪快に酒を呷る。喉を鳴らし、一息に飲み干す姿は実に様になっている。
俺の杯には、白く濁った液体。とろみがあり、酸味を帯びた米の香りが立ち上る。
恐る恐る口をつける。
甘い。米の甘み、ほのかな果実の香り。ジュースみたいで意外と……いや、辛っ! 喉が焼ける! 後から容赦なくアルコールの刃が追いかけてきて、俺は軽く咽た。
「何だ、二代目の。お前、酒は駄目なのか」
孫堅は愉快そうに笑い、再び盃を掲げた。
「すまんが少し付き合ってくれ。お前とこうして話せる時間も、しばらくないだろうしな」
軍議の間では見せなかった、穏やかで優しい眼差し。
こんな顔を見るのは久しぶりで、俺は少し照れてしまい、顔が熱くなる。
「キ、キミ…。確かに恋愛禁止とは言ったけど、だからって……」
いや、待て。なぜそうなる。
違う。違うからな。
俺は声を出さずに、慌ててナビに否定の視線を送る。
「大丈夫。大丈夫だから。同性愛は異常なことではないから、安心して」
ナビはにっこりと笑い、指をひらひらと振ってみせた。
「むしろね、キミのケースを考えると当たり前の帰結かもしれないよ? だって、キミは“繁殖”という役割から解放されちゃってるわけでしょ。普通の人間が背負ってる『子孫を残さなきゃ!』っていう生物学的なプレッシャーから、完全に自由なんだ」
なんでお前が必死なんだ。なおもナビは話しを続ける。
「だったら、純粋に“人を好きになる”って感情だけが残るのは当然じゃない?相手が男でも女でも関係なく、ただ“好き”って気持ちが芽生える。むしろそれこそ、人間という種の可能性を超越した、新しい“愛の仕様”かもしれないね」
ナビは胸を張って、得意げにウインクした。
な、何だその長ゼリフ。マジっぽいからやめてくれ。
「けど、やっぱり特定の人間と恋愛関係になるのは、子供の有無に関わらず、何かしら影響が出そうだからほどほどにね」
ナビが「ごめんね」とでも言うように両手を合わせる。だから違うって。
「二代目の。俺は本音を言えば、やはりお前には戦ってほしくない」
ポツリと孫堅が呟く。
俺をからかっていたナビが流石に口を噤む。
「許昌との戦いの折、先代持衰の、神のような力を利用して、俺は戦いに勝利した。持衰が死ぬかもしれないと分かっていながら」
「孫堅…」
同じような話しは、以前にも聞いた。
「だからこそ、お前を周瑜のもとにやったんだ。お前がアイツのもとで学んでいる間に、ケリをつけるつもりだった。なのに、こんなに早くやってきてしまうとはな」
「わ、悪い。けど、董卓が遷都して、洛陽の人達が大変な目に遭ってるって、お前が孤立していて、危機に瀕しているって聞いたら、大人しくしてるわけにもいかないだろ?」
「やはりお前は持衰の生き写しだな」
孫堅が少し笑う。
そして、その顔が真剣な表情に変わり、俺に向き合う。
「お前の言う通りだ。董卓は、あの男はこの世にいてはいけない人間だ」
孫堅の目つきが険しくなる。
「董卓が自身で廃位させた少帝を、弑し奉ったことは知っているか?」
「ああ」
正確に言えば、それが起こる前から解っていたという方が正解だが。
やはり現実でも起こったことだったのか。
董卓は少帝を、
ーー当時は廃位されていたから、弘農王だが
殺害した。
「けど、何で董卓は少帝を?廃位させて、自分が即位させた献帝がいるんだから、今更殺す必要なんかないだろ」
「連合軍は、董卓が擁立した献帝の正統性を認めず、少帝を復位させることを大義名分としていた」
「それってつまり……」
「少帝を弑することによって、連合軍の存在意義そのものを失わせようとしたのだ」
「けど、そんなことをしたって……」
「そうだ。董卓を倒す理由が無くなるわけではない。だが、少なくとも俺達は、“少帝”という武器を失った」
そんなことのために、まだ幼い少年の命を平気で奪うのか。
「董卓を諫めた延臣たちも次々に処断されている。必然的に残るのは、わが身可愛さに董卓に傅く者どもだけになる。アイツがいる限り、この国はどんどん腐っていく」
孫堅は持っていた杯を、几に叩きつけた。
「だから、二代目。もう一度。もう一度だけだ。お前のお前たち倭人の力を俺に貸してくれ。俺はどうしても董卓に勝ちたいのだ」
そう言って孫堅は額を几につける。
「孫堅。俺は、俺たちはお前に命を預けてるんだ。何度だって俺たちはあんたの為に戦う」
「いや、勝手に預けるなー。キミの命はこの世界の存在そのものに関わってるのよ?そんな軽いもんじゃないんだから」
ナビがツッコミを入れてくるが、俺は無視した。
「いや、あと一度だ。俺は先代の首長殿の想いにも応えねばならんのだ」
その言葉にどきりとする。
首長の想い。それは、俺の父親だった人の希望。
「この戦いが終わったら、お前は倭人を引き連れ、故郷に帰れ」
もう二十年以上前のことだ。倭国大乱から逃れ、この地へやってきた俺たちは、漢の地で強者に搾取される絶望の中にいた。そんな時、首長が差し示してくれた一筋の光——
ーー漢の地で力と知識を得て、いつか故郷へ帰る。
元々、俺たちはそのために漢で学び、訓練してきた。孫堅と共に戦うようになったのも、自分たちを守るためだったのだ。だが、ここでの生活に馴染むうちに、首長の望みをどこか忘れてしまっていた。まさかそれを、倭人ですらない孫堅に思い出させられるとは。
「元々倭人たちが俺と一緒に戦っているのも、故郷で生き残る力を付けるためだ。そして、おそらくお前たちは、もうそれが十分に備わっている」
「確かにお前の言う通りだ。ここに逃れてから二十年。みんな帰る時が来たのかもしれない。首長の願いを果たす時が」
あの時いた者の多くは死んだ。だが若い世代に意志は受け継がれている。故郷の地を踏みたいという思いは、確かなものだ。
「でも俺は残る。お前を支えることが、今の俺の願いだ」
「ちょっと何言い出すのよ! キミの役目は日本の歴史を観測することなんだよ!? 残ってどうすんのよ!?」
孫堅は嬉しそうに、そして悲しそうに笑った。
「二代目の。俺もそうしてもらえればどんなにいいか。だがな、首長殿はもういない。誰が代わりに倭人たちを導くんだ?」
「それは、新しい首長が句章の集落にいる。何も俺が上に立たなくても——」
「お前しか出来ない」
孫堅が、俺の言葉を遮った。視線は真っ直ぐで揺るがない。
「倭人には持衰が必要なんだ。俺の二人の友のために、お前はその意志を継いでくれ」
その瞳の真剣さに、俺は何も言えなかった。わかっている。俺が首長の想いを継がねばならないのだ。
「わかった。孫堅」
俺は頷くしかなかった。
「お前は死ぬなよ、二代目」
孫堅は杯を口に運んだ。




