第三十二話 周瑜
「まず、その周瑜というのはやめてくれ。君は私の親でもなければ、主君でもないのだから」
「……あ、すみません」
孫策は俺と周瑜の屋敷で夜を明かすと、早朝には孫堅の布陣する梁へと発っていった。
残された俺はこうして、周瑜と二人向かい合っている。
「えーと、公瑾」
「公瑾?」
「公瑾殿」
「まあ、殿はいいだろう。同い年だしな」
同い年なのか……。
それにしても礼儀にうるさいヤツだ。
あの孫策と友達だというのが信じられない。
「礼は苦手かい?」
少し微笑しながら周瑜、いや公瑾が問いかけてきた。
「いや、大事だとは思うけど、決まり事が多くて難しいんだよな。一番大事なのは相手を敬う気持ちそのものじゃない?」
「確かにな。元来、“礼”とは“仁”の心を体現するためのものだ。であれば最も必要なのは、君のいう“気持ち”だろう。だが、その気持ちをどう相手に伝える?」
「そりゃ、言葉や態度で示すしかないけど」
「その通りだ。“仁”の心があろうとも、“礼”がなければ相手に届かぬ。よほど気心知れた間でなければな」
公瑾はくすりと笑う。きっと孫策と公瑾自身のことを言っているのだろう。
なんとなく、孫策と公瑾が仲がいい理由がわかってきた。
二人の間に強い絆があるから、全くタイプの違う二人が親友でいられるのだ。
「それにな、持衰殿。“礼”は武器にもなる。特にこのような乱世においてはな」
「武器?」
「“仁”あれども“礼”がなければ伝わらぬ。だが、逆に“仁”がなくとも“礼”があれば、相手は勝手に仁の心を感じとる」
「うわ、なんかそれ凄くイヤだ」
「君は少し孫策に似ているな」
そういってまた少し微笑む。
恐ろしく整った顔立ちの公瑾が笑うと、そこだけ光が灯ったかのように明るくなる。
男同士なのに照れ臭い。
「“呉子”曰く。凡そ兵の起こる所の者五有りと云う」
「何だそれ?」
「なぜ戦が起きるのか?その理由を呉子は五つに分けているわけだな」
呉子って確か、秦が統一を果たす前の、春秋戦国時代に書かれた兵法書だよな?内容までは詳しくないけど。
「その後呉子では、戦いを避けるために礼の重要性を説いている。不要な敵を作らず、こちら側に引き入れておく。乱世を生き抜くためには必要なことだ。これは人対人であっても通ずるものだ。君もいずれ倭人を率いていくのだろう?上に立つものとして、覚えておいたほうがいい」
俺が上に立つ?
そうか、将になるということはそういう事なのか。
孫堅の力になりたい一心で、全くそんな自覚なかった。
そしてナビがまた、俺に睨みをきかせてくる。
「えーと、じゃあ、公瑾。改めて、俺が将になるため必要なことを教えてくれ。孫堅の、そして仲間と、乱世に喘ぐ人々の力になるために」
俺は、公瑾に深々と頭を下げた。
「かしこまった」
公瑾は肩をすくめ、わずかに微笑した。
こうして俺は、公瑾から本格的に指揮官としての教えを受けはじめた。
「君は常に皆から見える位置に立て。怖くても、前に出て声を張れ。
それだけで兵は乱れにくくなる。兵は指揮する者を頼りとするからだ」
「倭人隊のような少数なら、合図は簡潔でよい。“右を押せ”“左を守れ”“下がるな”――戦場では長い言葉は通じぬ。三言以内で命じる癖をつけろ」
「たとえば――敵がこちらの左から突っ込んできたとしよう。その時、君は『左、盾!』と叫ぶ。左翼の兵が盾を重ねる間に、中央の兵には『突け!』と命じ、圧をかける。これで敵は勢いを削がれる」
「もし押し返された時には、『散るな、まとまれ!』とだけ言えばいい。兵は退く時ほど耳を澄ますものだ。君が落ち着いていれば、皆も動揺しない」
公瑾はまずは現場での実際的な立ち回りや、指示の仕方を指導してくれた。
言葉で覚えさせるだけでなく、使用人や街の有志を集めて、公瑾と俺で模擬戦のようなことも行なってくれた。
もちろん初めはボロ負けだった。だが、何度も行なっていくうち多少は勝負になるようになってきた。
模擬戦は仕事が終わる夕暮れ時から日没まで、それ以外の時間は公瑾からの座学や模擬戦でのフィードバック。そして騎乗訓練。
この模擬戦は非常にありがたかった。
知識として身に着けるだけでなく、実際に指揮をして人を動かすことで、初めて見えてくるものもあったからだ。
公瑾や孫堅の言う通り、何の調練もしないまま戦場に出ていたら、俺は多くの仲間を死なせていただろう。
今になって自分の無謀さを痛感した。
「自分のことだけで一杯になるな。兵を見て動かすことが君の役割なんだ。疲れている者、怯えている者を鼓舞するだけでも、士気は変わる。君が戦いながらも兵を“見ている”ことが、何よりの指揮になるのだ」
模擬戦の最中でも公瑾は俺に対する指導を忘れない。
ーー兵を、仲間を見る?
そうか。
俺は観測者補正を利用した。
あたりがスローになる。
今までこの力は、敵に対してのみ使っていた。
だが視線を仲間に向けると――
「右の兵が怯えて足を引き、列が崩れかけている」
「左の槍兵は疲れで腕が上がらない」
「中央の盾は打ち合いで弾かれて隙ができている」
そんな一瞬の変化が、手に取るように分かった。
「左、下がれ! 後衛と交代!」
俺は叫んだ。
怯んでいた兵がはっと顔を上げ、仲間と位置を変える。
「中央、踏み止まれ!すぐ援ける!」
「右、前へ出ろ!共に押し返す!」
力を取り戻し、槍を構え直す味方の姿に、俺もまた胸が熱くなる。
孫堅のような歴戦の将や、孫策みたいに天賦の才に恵まれたものは、一瞬で戦況を判断して指揮を出すのだろう。
今の俺には逆立ちしたって出来っこない。
けど、仲間を観測することで、経験と才能の差を大きく埋めることができる。これは俺にしかできない指揮だ。
いつもだったら崩れはじめるタイミングで、俺は相手を押し返すことができた。
今回はいけるか?
すると公瑾が調練用の木剣を左右に振る。
敵の両翼が散開する。押せ押せだった俺達は止まることができず、あっさりと囲まれる。
勝負ありだ。
「……信じられん」
いつの間にか俺の側に来ていた公瑾が、低くつぶやいた。
「君は一瞬の間に四方の味方の状態を把握し、それに合わせた指示を出した。あんな真似は限られた名将にしかできないことだ」
「けど負けちまった」
「いや、結果は大敗に見えるかもしれんが、勝敗の分かれ目は紙一重だった。君はやはり特別なのだろう。破虜将軍と伯符が気に入るはずだ」
俺は答えの代わりに苦笑いをする。
観測者補正なんてインチキみたいなもので、実際は俺の力ではないからな。
褒めてくれる公瑾に対して、申し訳ない気持ちがわく。
「ここまでできれば充分だろう。ここでの調練はここまでだ」
「え?じゃあ……」
「ああ。共に梁へ向かおう」
いよいよか……!
「じゃあ、早速馬で。急げば七日くらいか?」
「いや、馬車を用意する。それに乗って行くぞ。おそらく半月ほどだろう」
「何のために!?」
「馬で駆けたら、ゆっくり落ち着いて話せないだろう?君にはまだまだ教えることがあるからな」
「さっき、調練は終わりだって……」
「“ここでは”と言ったぞ?実戦的な動きが身についたら、次は大局的な場面で役立つ兵法を身に着けてもらわんとな」
そういうと公瑾は何処から取り出したのか、いくつもの竹簡を抱えてみせた。
「呉子に六韜、孫子兵法はもちろん、儒家経典や史書もあるぞ?武術一辺倒では優秀な将とは言えんからな。むしろ半月では足りぬ位だ」
とてつもなく嬉しそうに公瑾が笑う。
いつもなら芸術品のように美しいその笑顔が、この時ばかりは悪魔の微笑みに見えた。




