第三十話 約束
孫堅と別れ、俺は自分の幕舎へと戻った。
于吉はすでに眠っており、宮崇は黙々と石臼で薬草をすり潰していた。
夜気に交じって、苦い香りが漂う。
宮崇は俺に何も聞かなかった。
俺から口を開くのを待っているのか、それとも本当に興味がないのか……。
どちらにせよ、今は言葉を交わす気分ではなかった。
この地に残るということだけを、明日伝えるつもりだ。
やがて灯火が揺れ、外のざわめきも遠のく。
――俺はここに留まる。孫堅の傍を守るために。
翌日――。
于吉は孫堅との約束通り、祈祷をはじめた。
まだ朝靄の残る野営地の中央に、祭壇が設けられる。粗末な石と木を積み上げただけのものだが、白布が張られ、香炉の煙が立ち昇ると、それはたちまち神域に変わった。
孫堅をはじめ将兵は整列し、誰もが息をひそめている。
戦場を駆ける猛者たちですら、この瞬間だけは刃を収め、祈りの場に身を置く一人の民へと戻る。
于吉は祭壇の前に立ち、桃木の杖を高く掲げた。
その口から洩れる声は低く、しかしよく通る。
声に合わせ、香炉から立ち昇る煙が風に流され、白い竜のような姿を成す。
兵たちは思わず息を呑んだ。
偶然か、神意か――。
厳かな雰囲気の中、祈祷は終わりを迎えた。
兵たちの頬に朱がさしている。皆が高揚しているのがわかる。
だが無理もない。それほどまでに、于吉の祈祷は神がかっていた。
于吉は深々と礼をすると、杖を携えて壇上から静かに立ち去った。
その背を誰もが目で追い、自然と道が開かれる。
入れ違いに、孫堅が壇上へと上がってくる。
武威を纏ったその姿に、場の空気が一変した。
先ほどまでの神秘的な静寂は、今や烈々たる熱気に変わりつつある。
孫堅は周囲を見渡し、力強く声を張り上げた。
「皆の者、よく聞け!今この瞬間より、我らは天意を得た!つまりこれは正当なる戦い、聖戦である!必ずや我々は、逆臣董卓を打ち破るであろう!」
衆目から歓声が上がる。
昨日はあれだけ道教を非難していた癖に……。
俺は思わず苦笑する。
使えるものは何でも使う。これも孫堅の覚悟のひとつか。
その後、孫堅は元々寿春にいた調練兵たちを手際よく編成し、魯陽への帰還を決めた。
一晩いただけで、もう戻るのか。せっかく会えたんたんだ、もう少しいて欲しかった。
「魯陽は董卓のいる洛陽と距離が近いからな。いつ敵が攻めてくるかもしれん。あまりここに長居はできぬのだ」
そう言って孫堅はテキパキと指示を出し、兵たちはそれに応えて迅速に行動する。野営地は瞬く間に撤収の気配へと変わる。
槍を束ねる音、馬の嘶き、旗を巻き上げる布のはためき――すべてが、まるで今から戦へ向かうかのような緊張を帯びていた。
全ての準備が整い、いよいよ出発するのみとなったところで、俺と于吉は孫堅の見送りに向かった。
馬上の孫堅は、より威風堂々としていた。
陽光を浴びて鎧は輝き、背筋はまっすぐに伸び、自信に満ち溢れている。頭に被っている赤い幘は灼熱に燃えているようだ。
付き従う兵たちもまた、その将にふさわしい精悍さを備え、列をなす姿は一つの巨大な矢のように鋭さを帯びていた。
「カッコいい……」
俺もこの中にいたかった。まだ孫堅と共に戦えないことに対し、悔しさがまた込み上げてきた。
「ではな、二代目の」
「ああ。すぐに追いかけてやるよ。って言いたいところだけど、祖茂さんもみんな行っちゃうんだよな?誰が俺に乗馬やら、軍略やらを教えてくれるんだよ?まさか独学とか言わないよな!?」
孫堅はくすりと笑い、
「安心しろ。適任を用意している。あとはその者たちがいいようにしてくれるだろう」
「その者“たち”?」
孫堅の言葉が引っかかった。たがそのことに言及することは叶わなかった。
「オイ、テメェコラァァァァア!!昨日アンダケッテヤッタッツーノニムワァダワカンネェミテーダナコラァァァァア!!ケンカ売ッテンノカガキャア!!」
昨日のヤンキーだ。相変わらず何言ってるか分からん。馬上から大声で喚き散らす。 俺は堪らず耳を塞いだ。
「おい、黄蓋。いい加減にしろ!」
祖茂さんが助け舟を出してくれた。
このヤンキー黄蓋だったのか……。
後に赤壁で活躍する武将だ。まさかこんな奴だったとは。
黄蓋は盛大に舌打ちして、怒鳴るのを止める。
そして孫堅は静かに鞭打つと、ゆっくりと愛馬が歩を進めはじめた。
少しずつ騎馬隊が遠ざかっていく。
やがて歩兵隊が続く。
倭人の一団が俺たちの前に差し掛かってきた。
「じゃあな。タケル」
「おお、持衰」
互いの拳を突き合わせ、挨拶とする。
タケルたちも行ってしまった。
残ったのはわずかな新兵たちと、調練担当の古株たち数人だけだった。
しばらくすればまた志願兵や寡兵がやってくるそうだが、今は静けさに包まれている。
「では、儂らも行こうかの。達者でな持衰」
「ああ、于吉」
于吉には先ほど寿春に留まることは伝えた。
予感していたのか、特に驚きも反対もせず、ただ一言
「そうか」
と言われただけだった。
孫策を守るためにコイツに6年もの間くっついてたが、于吉が自らの意思で孫策に害なすことはないと判断した。
俺は仮にも孫堅陣営に残るのだ。また于吉と孫策が接触するようなことがあれば、すぐにわかるはず。ひとまず今はそれで良しとすることにした。
「宮崇も元気でな。送りの兵がつくとはいえ、帰りがお前らだけだとちょっと心配だな」
「安心しろ。いざとなれば全力で逃げる」
「そ、そうか」
宮崇らしいな。
そして2人はあっさりと立ち去っていった。
「よし、では俺たちも行くか!!」
「え?」
振り返るとそこには孫策が満面の笑みで立っていた。
「お前も一緒に行ったんじゃ無かったのか?」
「父上にはまだ早いと置いていかれた!!かわりにお前の面倒を見てやれともな!」
「孫堅が言ってたのはお前のことだったのか」
コイツと一緒にいると、また仕合を申し込まれそうで気が滅入る。
「で、行くってどこに?」
「舒県だ!そこに会わせたい者がいる!」
「会わせたい者?孫堅の言っていた人間って、もしかしてその人物のことか?」
「ああ、その通りだ!」
舒県。揚州廬江郡に属する県で、ここ寿春から急げば馬で半日ほどで到着する距離だそうだ。
馬で。
「馬?」
「ああ、馬で行くぞ。歩いてだと時間がかかりすぎるしな!」
「いや、孫策。聞いてないのか?俺は馬に乗れないんだ」
孫策は少し目を見開く。
「お前、あんなに強いクセに馬に乗れないのか。情けないやつだな!」
その笑いは決して悪意あるものではなく、子どもが不思議なものを見て笑うような純粋さだった。
だから余計に傷つく。
「わかった。俺が教えてやるよ!舒県に行くのはその後だ」
こうして、孫策指導のもと、俺の騎乗訓練が始まった。
孫策が調練用の馬を引いてくる。
この時代の馬は少し小柄だ。
だが近づけば、その黒い瞳と鼻から荒々しく吐き出される息に、全身が圧される。
「怖じ気づくな。まずは左から乗れ」
孫策が笑いながら馬の首を軽く叩く。
言われた通りに馬の横へ立ち、鞍の前の出っ張りを握りしめる。
反対の足を大きく振り上げ――
「うわっ!」
そのまま腹筋がついていかず、地面に転がった。
孫策の笑い声が響く。
「ははは!情けないな!でも大丈夫、俺も最初はそうだった」
何度か挑戦し、ようやく鞍の上にまたがる。
鐙がないから脚をかける場所はなく、両足で馬の胴を締めてバランスを取るしかない。
座ったはいいが、今度は前後に揺れすぎて危なっかしい。
「いいか、腰を立てろ!重心を真ん中に置くんだ!」
孫策の声が飛ぶ。
手綱を握りしめると、馬の耳がぴくりと動いた。
思わずぐっと引くと、馬が急に立ち止まり、体が前につんのめる。
「両方引くと止まる!進ませたいなら手綱を少し緩めて、脚で合図するんだ!」
必死に言われる通りにすると、馬が小さく鼻を鳴らして一歩踏み出した。
今はまだ1月で寒い。
それなのにわずかに動かすだけで、俺の身体はべったりと汗ばんでいた。
その後も孫策の指導は続く。
「手綱は握り締めすぎるな! 馬の口が痛いだろ!」
「腰を固めすぎるな! もっと背骨をしならせろ!」
「脚は強く挟むんじゃない、支えるように置くんだ!」
言われるままに繰り返しているうち、少しずつ身体が馬の揺れに慣れていった。
最初は必死に掴んでいた鞍も、気づけば両手で手綱を扱う余裕が出てきている。
「おお、いいぞ! その調子だ!」
孫策が目を細めて頷く。
馬の歩みは一定のリズムを刻む。
その揺れを、今度は怖いと思わずに身体に委ねてみた。
すると、不思議なことに身体がふっと軽くなる。
「……できた」
小さく呟いた俺に、孫策は満足げに笑う。
「よくやった。持衰!」
孫策も褒めてくれた。素直に嬉しい。
「馬に乗るのって楽しいな。この調子ならすぐに慣れるんじゃないか?」
「では次は駆けてみよう!それが終わったら馬上での騎射も練習だ!」
先は長そうだ。




