第二十七話 孫策
揚州九江郡寿春県。
俺たちはようやく目的地に辿り着いた。ここに孫堅がいるのか。
祖茂さんは疲れもあるだろうと、まず俺たちを幕舎へ案内してくれる。
于吉の話はすでに伝わっているのか、兵たちが遠巻きに眺めながらヒソヒソと囁き合っていた。
――于吉と一緒である以上、覚悟はしていたが、やはり落ち着かない。
途中、倭人の兵の一団を見かけた。その中で俺と同い年の倭人、タケルが声をかけてきた。
「馴染みの者か。儂らは先に行くぞ。やはり長旅は老体には堪えるわい」
言葉とは裏腹に元気そうな于吉はそう言って、宮崇とともに先へ行ってしまう。
宮崇も特に俺を気にする素振りはなかった。
「久方ぶりに出会う同郷の者もいるだろう。また後ほど迎えに来るので、ゆっくり語り合うとよい」
祖茂さんだけは、俺への気遣いを忘れずに二人を案内していった。
「タケル、お前も兵になったんだな」
「おお、久しぶりだな持衰」
俺とタケルは握手を交わす。タケルは今の村でひときわ腕の立つ男だ。倭人隊に参加したのなら、これから大いに活躍するだろう。
「于吉様がいらっしゃると聞いてまさかと思ったが、本当にお前まで一緒に来るとはな。道士の修行は順調か?」
「えと……まあまあかな?」
別に道士の修行をしているわけではないが、説明するのも面倒なので適当にごまかす。
「お前こそ、孫堅の調練に音を上げてるんじゃないのか?」
「孫堅ってお前……。相変わらずだな。いや、俺には軍が合ってるみたいだ。早く前線に出たいよ」
タケルは苦笑した。
「で、その孫堅はどこにいるんだ?」
「将軍は今、南陽郡の袁公路様を頼り、そちらに身を寄せている。袁公路様の上表によって、破虜将軍に、さらに豫州刺史を任じられた。そのため、最近はもっぱら南陽郡の魯陽県で兵の訓練をしている」
「袁公路……」
またの名を袁術。反董卓連合軍の盟主・袁紹の異母弟であり、名門袁氏の一族でもある。
後年、袁紹と対立することになる人物だが、孫堅は袁術の側につき、実質その配下として戦うことになる。
もうこの時点で関係が出来上がっていたのか……。
「なに考え込んでるんだ?」
「いや、てことは今はいないんだな?呼び出されて来たのに、本人が不在ってどういうことだよ?」
「明日には一度こちらにお戻りになる。ご子息にも久しぶりにお会いしたいだろうしな」
「ご子息!?」
まさか、そのご子息って――。
「将軍の長子、孫伯符殿だ」
「孫策!?」
「知ってるのか?」
知っているも何も、俺が于吉の側にいるのは、元々この孫策を守るためだったのだ。
そうか、寿春なら孫策がいるのも当然か……。
「ちっ……近くにいるのか!?」
孫策は于吉が原因で命を落とすかもしれない。
それを防ぐには、二人を接触させないのが一番手っ取り早い。何としても遠ざけなければ。
「ああ。普段は友人から譲られた舒県の屋敷に住んでいるが、父上が久々に帰郷とあってはな。飛んで来るのは当然だろ」
やはり、于吉と孫策は引き合う運命なのか?
俺は歴史の強制力と呼ばれる見えない力を呪った。
「そんで、お前にも興味があるらしいぞ」
「俺?」
「伯符殿は腕っぷし自慢でな。強いヤツと闘うのが大好きだ。幼い頃から先代の持衰の話を聞いていたらしい。二代目のお前が来ると期待して、楽しみにしていたぞ」
「それってつまり……?」
「ああ。お前と手合わせしたいんだと。……お、噂をすれば」
倭人の兵たちがざわつきはじめる。
「おい、伯符様だ」
タケルが顎で示す方向から、まだ少年の面影を残す若武者が駆けてきた。
眉は凛々しく、瞳はぎらぎらと光っている。初めて会ったときの孫堅にそっくりな顔立ちだ。腰には立派な剣を佩いていた。
「おいタケル! そこにいるのが“二代目持衰”か!?」
孫策の大声に、遠くの者までこちらに目を向ける。
声デカ。于吉に気づかれなきゃいいけど。
俺は思わず一歩退いた。
コイツがあの孫策伯符か。
孫策はにやりと笑い、手を差し伸べる。
「俺と手合わせしてくれ!父上の前に、俺がお前の力を確かめておきたいんだ!」
単刀直入すぎる。
まるで子供が新しい遊び相手を見つけたときのように、喜びで目を輝かせている。
孫堅も明るく一直線なやつだったが、こいつはそれ以上だな。
「いや、俺は――」
「頼むよ持衰。伯符殿とまともにやり合えるヤツなんて滅多にいないんだ。相手してやってくれ。それに俺も、道士としての修行を積んだお前がどんな力をつけたのか気になるしな」
タケルが俺の後ろから囁いた。
「うおー! 二代目持衰と伯符殿が戦うってよ!!」
「こいつは見ものだぜ!!」
「俺は伯符殿に賭けるぞ!」
「バカ野郎、倭人なら持衰だろ! 俺は持衰に賭けるぜ!」
出た。倭人名物のヒャッハーなノリ……。
いつの間にか賭けまで成立してるし。これはもう逃げられんぞ……。
漢人と倭人たちに囲まれながら、俺と孫策は向かい合う。
「剣、槍、戟、棒。何でもいいぞ。何が得意だ!?」
「まあ、剣かな?」
孫策が顎をしゃくると、兵のひとりが木剣を抱えてやってきた。俺と孫策、それぞれに手渡される。
「先に一本。本物の剣なら致命傷になる一撃を与えた方の勝ちだ! いいな!?」
いいも悪いも、俺はこんな仕合自体、不本意なんだが……。
「そういえばしっかり名乗ってなかったな。俺は破虜将軍・孫文台の長子、孫伯符だ!」
「あ、えーと、持衰って呼ばれてます……」
俺の返答に、孫策は口の端をわずかに上げて返す。そして構えを取ったかと思うと、いきなり距離を詰めてきた。
一瞬で間合いに入ってくる。斬り上げ。
左足を引いてかわす。衣をかすめて刃先が通り過ぎた。
そのまま回転し、勢いを利用して胴を狙う。だが振り切る前に手に激しい衝撃。剣を弾かれ、腕が痺れる。相当な腕力だ。
剣が持ち上がり、一瞬胴がガラ空きになる。だが孫策も振り切っている。次が来る前に俺も構え直せる。
孫策が左脚を上げ、膝を折りたたむ。――蹴り!?
観測者補正で動体視力は強化されている。攻撃の“起こり”を読んで、俺は後ろに飛んだ。
蹴りが飛んでくる。腹部に当たる。後ろに飛んだ分だけ威力は殺しているが、それでも重い。
孫策の追撃。力では完全に負けている。受けずに避けるのが得策だ。
剣が轟音を立てて風を切る。まともに当たったら木剣でも死ぬかもしれない。
斬りかかる。剣で止められる。孫策が押し返してくる。俺は敢えて逆らわず、力を受け流した。
わずかに孫策の体勢が崩れる。
剣を返さず、そのまま柄尻で孫策の横っ面を狙う。すぐに反応して避けようとするが、浅く一撃が入った。
孫策はすぐに視線を戻す。笑顔――狂気じみている。だが、その顔はどこか嬉しそうでもあった。
戦闘バカめ。
先ほどよりも孫策の攻撃が速く、激しくなる。 本気になったってことね。 わずかな隙をついて剣を繰り出す。 かすりはするが有効打を浴びせられない。 剣がぶつかり合う。刃を合わせたまま孫策が前に飛ぶ。 剣ごと押され、自身の刃が額にぶつかる。 俺の剣を利用した攻撃。 そんなのありかよ? 踏み止まって構え直すが、額から流血しているのが自分でもわかる。
「そこまで!!」
終了の合図。まだ戦えるが、本物の剣だったら俺の頭は真っ二つだ。つまり、孫策の勝ち。
歓声が上がる中、孫策が駆け寄ってくる。
「凄え……凄えなお前! こんなに打ち込まれたのは初めてだ!なのに俺の剣は全然当たらない。あれが道術なのか?」
……凄いのはお前だよ。孫堅も強かったけど、こいつの武才はそれ以上だ。数年経てば孫堅を超える武人になるだろう。
「もう一度勝負したら、分からねえな」
勘弁してくれ。
「お前、歳は?」
「15だけど」
「俺とタメか! ますます驚いた。同じ歳でここまで戦えたのは今までタケルだけだったぞ!」
戦った直後なのに元気だな。
孫策のデカい声が頭の傷口に響く。
……ダメだ。このテンション、ついていけない。
「負けたのか、持衰。ダサいの〜」
この声は――。
皆の視線が声の主に集まる。
雲の紋様をあしらった白と青の着物。
桃木の杖。
艶やかな白髪。
于吉だ。
屈強な兵士たちの中にあっても、その異彩は少しも霞まない。傍らには宮崇もいる。
……やはり目立ちすぎたか。
いや、同じ営舎にいる以上、いつまでも顔を合わさないようにする方が無理な話か。
「あんたが于吉か」
孫策の声は先ほどまでと違い、鋭く突き刺さるようだった。
「いかにも、孫伯符殿」
「会稽は親父のシマだ。そこで随分と好き勝手してるらしいな」
「求められるまま、人々を救っているだけよ。孫文台の民をな。むしろ感謝してもらってもいいくらいだ」
「どうだかな。張角だって“人を救う”と宣って、結局は多くを殺した。敵も味方もな。しかも、張角はアンタの教えを受けたって話だよな?」
「いかにも」
「だったら、その師匠はなおさら警戒する。本気を出したら、張角以上の乱を起こせるかもしれない」
「儂をずいぶん買いかぶってくれるな。……だがそれを言うなら、そこな我が弟子、持衰も敵視して然るべきではないか?」
「こいつは父上の友の後継者だ。そして、いずれ俺たちの軍に加わる仲間だ。何より、こいつとは今、友達になった。敵じゃない」
……あれ、話が勝手に進んでるぞ?
それよりヤバい。空気が険悪になってきた。何とかしないと。
「お、おい孫策。俺はこの爺さんと六年一緒にいるけど、乱なんて起こせる器じゃないよ。薬草摘みも身の回りの世話も全部人任せの面倒臭がりだし。道士だ仙人だなんて言われてるけど、実際は金にがめつい、どこにでもいるただの医者だ。気にするだけ無駄無駄」
「お主、ちょっと失礼」
俺は孫策と于吉の間に割って入った。
孫策は険しい眉をゆるめ、
「……まあ、判断するのは父上だ。持衰に免じて、俺からはこれくらいにしておこう」
そう言って警戒を解いた。
「タケル、持衰、じゃあな。また手合わせしよう」
そう言って挨拶し、背を向けて去っていった。
何とかこの場は収まったか。
俺はホッと息をつく。周囲の緊張した空気も少し和らいだ。
「おい于吉。今のことを根に持って、孫策を呪ったりするなよ!」
「あんな小僧、はなから歯牙にもかけとらんわ」
ふん、と鼻を鳴らす。
とりあえず、いきなり斬られなくてよかった。
俺はいつの間にか、孫策だけでなく、この爺さんのことも守りたいと思い始めていた。




