第二十六話 宮崇の実力
いつの間にか、俺が倭人村で過ごした時間よりも、于吉のもとで修行(?)している時間の方が長くなっていた。
村に戻れば、前世と同じように過剰に持て囃され、英雄だの生まれ変わりだのと持衰の肩書きで呼ばれる。しかも、修行の内容を根掘り葉掘り聞かれて落ち着かない。
以前のように句章が危機に晒されているわけでも無い、今は于吉を監視するのが第一だ。
……だが。
于吉に会ってから、すでに数年。いまだ大きな動きは無い。
孫堅の息子――孫策。
彼の死はこの仙人もどきのせいで訪れるはずだ。
孫策が早くに死んだせいで、呉は伸び悩み、その後の国力差で魏に後れを取る要因の一つになった。
何よりも俺は孫堅の息子を守ってやりたかった。
まだ顔も見たこともないが、アイツの息子は俺の子供も同然だ。
「も〜、生まれ変わっても孫堅贔屓は健在だね」
ナビが呆れたように呟く。
俺は今、于吉に頼まれ、薬草採りをしている。押しかけで、無理矢理居候みたいなことを長い間続けている。こういった雑用くらいはさすがにやらないとな。
「でも、そろそろいいんじゃない?キミが観測者である以上、観るべきものは自ずと向こうからやってくる。キミが率先して近づいていく必要はないんだよ」
「うるさい。俺が自分から于吉の元に留まるのも、もしかしたら歴史の強制力の影響かもしれないだろ?」
俺は薬草を採る手を休ませずに応える。
「く、屁理屈を言うようになった。
悪い方向に成長してるな。お母さん悲しい」
ナビがわざとらしく泣き真似をする。
「けどさ、キミが何をしようとも、歴史は定められた結果に収束する。それは分かってるでしょ?」
「でも、孫策の死が定められた結果とは限らない。結果は同じでも“過程”は変わる。これもお前が言ったことだろ?」
「う〜、まだ言うか。孫策のような大物の死が、“過程”で片付けられるとは思わないんだけどな」
ナビが腕を組む。
「それに。それを言うならさ、于吉が孫策の死の原因になるって“過程”も、変化する可能性があるよね?」
「それは……」
俺は言葉に詰まる。今度は俺が痛い所を突かれた。
「確かにこの時代より後、東晋の干宝さんが編纂した『捜神記』には、
――孫策は于吉を捕らえて処刑した!けれどその亡霊が彼を呪い、二十五歳の若さで命を奪った!なんて逸話が記されてる」
大体俺の認識と一緒だ。
もしかしたら俺の知ってるエピソードは、ナビのいう捜神記が元ネタかも。
「けど、これは怪談集みたいなものだから、史実かどうかはかなり怪しい」
ナビは苦笑する
「むしろ、魏志倭人伝でもお馴染み、陳寿さんが書いた三国志呉書巻四十六、孫破虜討逆伝にある、孫策は暗殺者に襲われて致命傷を負い、後を弟の孫権に託して没した――って話の方が、歴史的には信憑性が高いと思わない?」
ぐぐ、確かにそうだ。
「ただ、現に于吉はこうして実際にいて、俺の前に現れた。
それに歴史書なんて、虚実ないまぜだろ?于吉に呪われて死んだって所が脚色でも、于吉が原因になったという可能性は否めない。1%でも可能性があって、そして現状俺にできることがこれしかないなら、今は黙って見ててくれ」
俺はナビを見上げ、真剣な表情をする
「今回は命を落とすような危険はないんだ。
だから、お願いだ」
そして頭を下げる。
「やれやれ、仕方ないな」
根負けしたナビが、大げさに肩を落としてため息をついた。
そして時は過ぎていく。
間もなく、端役ながらこの俺も、歴史の表舞台に上がることになる。
西暦184年の間に、張角やその兄弟である中心メンバーが病や戦で没し、黄巾の乱は一応の収束を見る。
だが、翌年からの世の中は決して平和じゃなかった。
残党が各地に散り、地方は荒れ続け、後漢の威光は日に日に色褪せていった。
中央では宦官と外戚が権力を奪い合い、宮廷は腐敗しきっていた。
地方では董卓や袁紹、劉表といった連中がそれぞれ兵を抱え、群雄の芽を伸ばし始める。
もはや“後漢王朝”という看板だけが残り、中身は空洞だ。
西暦187年には北方で反乱が起こり、董卓は戦功を挙げて頭角を現した。
一方で、孫堅もまた戦で功績を積み重ね、名を広めていく。
そして西暦189年。
霊帝が死に、後継を巡る争いが一気に噴き出す。
外戚の何進は宦官を皆殺しにしようとして逆に殺され、洛陽は大混乱。
そこに董卓がいち早く進軍。霊帝が崩御した直後に即位した少帝を廃位。弟の献帝を擁立し実権を握った。
ここに董卓の専横がはじまる。
――翌、西暦190年。
董卓を討つため、各地の群雄が立ち上がる。
反董卓連合。曹操、袁紹、そして孫堅。
新たな戦いの予感に満ちる。そんな年。
きっかけは于吉の一言だった。
「寿春に招かれた」
于吉がそう告げた瞬間、俺の心臓は大きく跳ねた。
寿春――それはまさしく孫堅が拠点とする地。
これはただの偶然じゃないのかもしれない。
歴史の強制力が、俺をまた孫堅のもとへと導こうとしているのか。
「お、俺も行っていいか!?」
「さすがに長い旅程だ。宮崇だけに荷物を持たるわけにもいかんからの。むろん、はなからお主も連れていくつもりだったわい」
自分は荷物持たないのか……。
まあ、考えてみれば、もう于吉は84歳。おいじいちゃんだから仕方ないか。ちなみに宮崇は59歳。
俺は、15歳になった。
この時代15歳は立派な大人だ。もちろん母に挨拶はするが、いちいち許可は要らないはずだ。そもそも于吉と一緒なら、あの人は絶対反対しない。
「でも、どうやって行くんだ?俺達だけで行くのか?」
「迎えの者は来るそうだ。水運や馬車を利用して……そうさな、富春からならおおよそ十日はかかるじゃろう」
于吉は、当たり前のように言った。
10日。
それは俺の感覚からすれば、あまりに悠長だ。
だが電車も車もないこの時代であれば当たり前か。
でも、考えてみれば俺、会稽と呉から出るの初めてだな。
旅行みたいでワクワクしてきた。
俺は于吉から孫策を守るという目的をしばし忘れて、道中の想像に胸を躍らせていた。
見たことのない川、通ったことのない関所、どんな土地の人間に会えるのか……。
まるで修学旅行前夜の高校生みたいな気分だ。
迎えの者は祖茂と言った。歳は23。今の俺より年上だ。
一目で強いとわかる。流石は孫堅の部下だ。鍛え抜かれた身体をしている。
まあ、うちの宮崇ほどではないけどな。
「于吉殿。我が殿、孫文台の招きに応じて頂き感謝します。呉会で轟く、その活躍ぶりは、遠く九江郡まで響き渡っております。我らは今、逆賊董卓を誅滅する戦を控えております。是非とも、高名なる道士于吉様のその御力にて、我軍に神力を授けて頂きたい」
孫堅が神力なんてものに頼るとは思わない。
味方の指揮を上げるためってのはあるだろうけど。
一番は自分の領土で人心を集めている于吉を見定めることが目的だろう。
許昌に張角。民に影響力を持ちすぎる人物を警戒するのは、今の世の状況下では当然だ。
後々、孫策が于吉を斬ることになるとしたら、この絶大な民からの信心を脅威とみなしてのことかもしれない。
その後、俺たちは祖茂さんに先導され、富春を経ち、寿春へと向かいはじめた。
旅路のちょうど中間地点に、その地はあった。
ーー揚州廬江郡巢県。
そして県の名の由来ともなったのが、広大な水面をたたえる巢湖である。
「デカいな〜。すっげー、海みたいだ。」 向こう岸が霞んで視えない。 形は入り組んで、山に囲まれてて少し閉塞感があるような気がしないでもないが、眼前に広がる巨湖は、十分に見応えのあるものだった。
「どれくらいの大きさなんだろ?ガイドさん?」
「誰がガイドだ」
俺の軽口にナビがツッコミを入れる。
「えーと、巢湖はね、今の感覚だと東京二十三区よりちょっと広いくらい。
東西に五十キロくらい伸びてて、南北でも二十キロを超えるんだ。
だから見た目はもう完全に“内海”だね」
「へー。東京23区…。じゃあ、琵琶湖よりデカいのか?」
「面積だけで比べればちょっと上回るくらいだね」
「何をはしゃいどる持衰」
于吉だ。倭人たちから持衰と呼ばれ始めてから、于吉も俺のことをそう呼ぶようになった。
「いや、こんな景色見られるなんて思ってなかったから。祖茂さんも凄いと思うよな」
「ああ、持衰殿。俺は君たちを迎えに行く道中もここを通ったが、何度見ても感動する」
祖茂さんともかなり話すようになった。気さくな性格で親しみ易い。そういう所も考慮して、孫堅はこの人を迎えに寄越したのかも。気難しい人が長旅の同行者だと息が詰まるからな。
宮崇は相変わらず口数が少ないし。
荷車に乗っているというのに経典が入った竹籠を背負ったまま、静かに湖面に目を向けるのみだ。
「しかしな、持衰殿。この辺りはあまり油断できんぞ?」
「どういうこと?」
俺が首をかしげると、祖茂さんは視線を湖畔の山肌に向け、低く答えた。
「黄巾の残党が、この辺りの山中に潜んでいると聞く。官軍に追われて散り散りになった奴らが、野盗に堕ちて旅人や村を襲っているのだ」
「黄巾……」
思わず息を呑んだ。黄巾の乱が鎮まったのは数年前。
だが、あれほど広がった火の粉は、そう簡単に消えてはくれないか。
完全に鎮圧されるのは確か、曹操が青州の黄巾軍を取り込むまでだったろうか。
于吉が細い目をさらに細め、ぽつりと呟く。
「信を失った天下は、妖しい信にすがるもの。張角らが倒れても、民の心からは消えておらんのじゃ」
風が強まり、湖面がざわりと波打つ。
まるで、その言葉に応えるかのように――。
林の奥から男たちが飛び出してきた。
6人、7人。
頭部に黄色い頭巾。
「これが黄巾の残党か!?」
男たちの手には粗末な槍や棍棒がある。
こんな武器でも普通の商人や民には脅威だろう。
無駄に身なりのいい于吉がいるから、何処ぞの富豪とでも思われたか?
狭い道を塞ぐように荷車の前に立ち塞がり、槍を前に突き出す。
馬防柵のようにも見え、これでは勢いの出ないで荷車で無理矢理突破するのは難しいだろう。
手綱を引いて馬を停め、祖茂さんが積んでいた槍を引き抜く。
躊躇いもせず、襲撃者に立ち向かっていく。
「俺も……!」
剣を手に取り、祖茂さんの後に続こうとする。
しかし宮崇に腕を掴まれ、止められる。
「何すんだ宮崇!?祖茂さんの援護に回らないと」
しかし宮崇は首を横に振る。
「黄巾の残党が残っているかもしれない。今離れると先生が危険だ」
「でもあの数じゃ」
「よく見てみろ」
祖茂さんは一人目の胸を槍で突き刺し、二人目の首筋にその槍で斬撃を浴びせていた。斬られた箇所から鮮血が迸る。
「強え……。」
7人くらいなら問題なく倒せそうだ。
宮崇は祖茂さんの実力を正確に見抜いていたということか。
風切り音が響いた。
林の方角から。
「弓か!?」
宮崇はすぐさま于吉に覆い被さる。
背に負っていた竹籠に何本か突き刺さる。
荷車に乗ってるのに下ろさなかったのはこの為か。
俺の方にも矢が向かってくるが、それほどスピードもない。観測者補正で難なく斬り落とす。
直後に6人の黄巾兵が躍り出てくる。
宮崇の言った通りか。彼の炯眼に舌を巻きつつ、俺も剣を手に荷車から飛び降りる。
剣を斬り結ぶ。
斬ろうと思えばすぐに斬れるが……。
ーーコイツらも元はただの農民。
それを思うとやはり躊躇してしまう。
俺の逡巡が隙となった。
伏兵の内2人が、于吉と宮崇の乗る荷車に駆けていく。
しまった。だが、あの宮崇なら。
祖茂さんと敵の実力差を正確に測る眼、伏兵の可能性を考慮に入れる冷静さ、何よりも経典170冊を軽々と抱えるあの膂力だ。
黄巾兵2人くらいわけないだろう。
俺は目の前の敵に集中する。
剣で弾き、間合いを取る。
すかさず、斬撃を与える。2人目、3人目と斬り倒す。
嫌な感触だ。でも、ここで殺さなければ、コイツらはより多くの命を奪うだろう。
「宮崇は!?」
そこで信じられない光景が目に入ってきた。
ーー逃げてる。
思いっきり逃げてる。于吉を抱え、荷車の周りをぐるぐる回りながら追いかけっこをしている。
背中に重い竹籠を背負い、于吉を抱えながらあれ程走り回れるのもある意味驚きだが、
「宮崇何やってる!?早く倒せ!」
俺は最後の1人の攻撃をいなしながら叫ぶ。
すると宮崇は眉一つ動かさずに、こちらに応える。
「持衰。早く助けろ」
「は?何言って……」
「私は……、弱いのだ」
今の状況にそぐわない、至極落ち着いた声でそう告げる。
「そうだ。宮崇はめちゃくちゃ弱いのだ。だから早くなんとかしろ」
于吉も宮崇に抱えられたままこちらに声をかけてくる。
何でお前らそんなに冷静なんだよ!?
俺は最後の1人を斬り倒し、于吉達の救援に向かう。
祖茂さんも最初の敵を全員始末したのか、こちらに走ってくる。
俺と祖茂さんで残りの敵を片付けた。
「これで全員のようだな」
祖茂さんが辺りを見回す。
安全になったと判断したのか、祖茂さんは再び手綱を握り、于吉と宮崇も何事も無かったかのように荷車に乗り込む。
俺も慌てて続く。
馬車に揺られながら宮崇に、
「お前、そんな形して戦えないなんておかしいだろ」
と俺が突っ込むと、
「私は走るのだけは得意だが、それ以外では俊敏に動けぬのだ。私が剣を一振りする間に、普通の人間なら五太刀は私に浴びせるとができるだろう」
ドヤ顔でめちゃくちゃダサいこと言い出した。
「そうだぞ。持衰。宮崇は本気出したら子供にも負けることができる。表面的な印象だけで判断するな、愚か者。相手の実力を正確に見抜けなければ、この乱世は生き残れぬぞ」
いや、何でお前らに偉そうにされなきゃならんのだ。
やいの、やいのと言い合っているうちにも、荷車は進んでいく。
さっきまで血と怒号に満ちていたのが嘘のように、湖面は穏やかに陽光を反射していた。
俺達はその光を背に受けながら、巢湖を後にした。
その後も何度か襲撃に遭うことになる。
黄巾党の活動範囲に近い分、この辺は本当に物騒だ。
加えて、足の遅い馬車は格好の標的になるだろうし、無駄に身なりのいい于吉が余計に賊を呼び込む。
地味な格好にさせようとしても、断固拒否された。
格好つけジジイめ。
祖茂さんは自分が一番危険な目にあってるのに、ただちょっと苦笑いするだけで済ませてしまう。
一応客人扱いだから強く出れないのかもしれないけれど、良い人だよな祖茂さん。
後半はかなり大変だった。
旅行気分に浮かれていた自分が、いかに甘かったかを痛感した。
それでも何とか俺たちは辿り着いた。
孫堅の待つ地、寿春に。




