第百二十七話 台与
決して広いとは言えぬ構造船に、私は腰を下ろしている。
かつては会稽で用意された大型船と中型船が邪馬壹国にはあった。
だが、長年の劣化は、修復作業だけでは追い付かなくなる。
二十年以上前に、それらの船は解体せざるを得なくなった。
漢から渡ってきた倭人、“船の民”達は、現在の倭国と比べれば、進んだ造船技術を持っている。
何とか小型帆船を用意することはできたが、流石に中国の進んだ技術を、そのまま倭国で再現するのは不可能だった。
だが、ナビに言わせれば、日本で帆船が登場するのは、早くとも古墳時代。
この小型帆船だけでも、五十年は技術を先取りしたものなのだ。
文句は言えない。
「じじ様、お魚だよ」
「ああ、そうだね」
私の膝の上に座った台与が必死に海に向かって指を差す。
勢いあまって落ちないように、私は軽く支えてやる。
この子に会ったあと、私は穂北彦に、台与を預かりたいと申し出た。
この子を女王に会わせるべきだと、会わせなければならないと、私は感じたのだ。
穂北彦もそのつもりだったようだ。
あっさりと承諾してくれた。
問題は台与自身がどう思うかだったが、邪馬壹国を離れることに、特に抵抗は示さなかった。
むしろ、船に乗れることや、知らない土地を見れること、そして女王に会えることの方が嬉しいようだった。
好奇心が強く、肝が据わっている。
こういう所も女王と同じだ。
似ていないようで、二人は通ずる所が多い。
吉野ケ里への帰還は、二日遅らせた。
台与の両親と、しばしの別れの時間を与えたかったからだ。
二人も共に迎えようと提案したが、それは断られた。
両親も台与に対して、何か感じる所があったのだろう。
だがそれでも、神の領域へと踏み出そうとする我が子に対しての、寂しさと、諦めの感情が、台与を見送る顔には浮かんでいた。
「じじ様、あれ、あれ」
今度は空に指を向けた。
「ああ、あれは鷺だね」
「あれは、さぎ。さぎ」
私の教えた言葉を、嬉しそうに復唱する。
胸の奥が、じんわりと暖かくなる。
久方ぶりに、味わう感情だった。
「じじ様、海すごい。船、楽しいね」
台与は私のことを“じじ様”と呼ぶ。
持衰と名乗った時、上手く聞き取れなかったのか、舌が回らなかったのか。
彼女の口から出てきた私の呼び名がそれだった。
決して、“爺”様という意味ではない。決して。
海路は順風満帆だった。
風と波が凪いでいる。
船の穏やかな揺れも気持ち良く、私は自然と目を閉じかけた。
「じじ様、いや、いや」
突然、台与が騒ぎ出した。
「どうした、台与。少し眠るだけだ。他の者が相手をしてくれるから、寂しくはないぞ」
「違うの、違うの。海が嫌なの」
「どうしてだ。さっきまで楽しそうにしていたじゃないか」
「今はやだ。今は居たくない」
子供特有の癇癪だろうか。
周りの者も苦笑している。
だが、台与の目を見た私は、背中に悪寒が走ったような気がした。
台与の目。
琥珀色の瞳。
女王と同じ……。
「ねえ、ねえ。これもしかしてヤバいんじゃない」
「ナビ、私もそう思っていた」
「あれ、じじ様、誰かいる?」
私の背後を指差した。
ナビの存在を感じ取った。
間違いない。
「うえ。こ、これ共感覚。 日御子ちゃんと一緒の」
ナビが叫び声を上げた。
「船を岸に着けろ。今すぐだ」
私も水主に向かって指示を出した。
初めは戸惑っていたが、私が真剣だと分かり、慌てて指示に従った。
直後、東の空から我々を追うように、黒雲が立ち込めてきた。
台与がそれに気づいて怯えはじめる。
私は台与を強く、胸に抱いた。
豪雨が叩きつけられ、波が荒れ狂い、雷鳴が轟く。
船の帆を急いで畳んだが、良いように津波に翻弄される。
「うわー、懐かしいこの感覚。久しぶりだ〜。全然嬉しくないけどねー」
ナビが喚き散らす。
私が飛ばないと思えば、ナビは吹き飛ばない。
そんな風に出来ているらしい。
頭では理解していても、中々上手くいかない。
ナビは必死に帆柱にしがみついているが、旗のように、暴風によって翻っている。
「ちょっと、ちょっと。イメージして。イメージ。私は飛ばない。嵐に遭っても、重石のように動かない。そんな私をイメージして。お願いだから〜」
「やかましい。もうやっている」
だが、無理だ。
目に飛び込んでくる情報が、脳の認識を支配してしまう。
「岸は近くだ。耐えろ」
嵐の咆哮に負けぬよう、私は喉を枯らした。
ナビに言ったつもりだったが、水主たちも反応し、懸命に櫂を漕ぎ続けている。
そしてとうとう、岸へと辿り着いた。
私はなるべく台与が濡れぬよう、懐に抱いて、自分の羽織で上から覆った。
幸い、雨を凌げそうな木陰がある。
全員でその下に駆け込んだ。
観測者補正による動体視力で、素早く仲間を見渡す。
全員いる。ついでにナビも。犠牲者は無かった。
だが、あと少しでも判断が遅れていたら、ただでは済まなかった。
「あー、マジ死ぬかと思った。あ、これキミの真似」
「台与、やはりこの子は……」
私は懐で震えている台与を、じっと見守り続けた。
――程なくして嵐は去った。
先程の光景が信じられないほどに、空は晴れ渡った。
そこからは何事も無く、伊都国に辿り着いた。
その後、川船を乗り継ぎ、ようやく吉野ケ里に戻ることが出来たのだった。
「なになにこの子。超絶可愛いんだけど」
私たちを迎えた於登が、台与を見て絶叫した。
周りの巫女たちも、少女を眺めて騒ぎ立てている。
「お嬢ちゃん、お名前は何て言うの?」
「とよ」
「台与ちゃんか〜。台与ちゃんはお幾つ?」
「よん」
元気よく、指を四本立てて、於登に手を伸ばした。
途中あんな目に遭ったのだ。
台与の疲労を懸念していたが、この様子では大丈夫そうだ。
ここに来るまでにぐっすり眠っていた。
それで体力をかなり回復したのだろう。
これが若さか……。
「於登もう良いだろう」
「え〜、もうちょっとお話しさせてよ。こんなちっちゃい子がここに来ることなんて、珍しいんだから」
「女王にお目通りしたいのだ。それに臺与はしばらくここに滞在する。またいつでも会える」
「ちぇっ、はいはい」
不服そうだが、ようやく於登と巫女達は、台与から離れた。
「あのさ、持衰殿」
すれ違い様、於登が誰にも聞こえないように、私に耳打ちをした。
「台与ちゃんて、何者なの。王族、ではないよね? でもあの目は、まるで……」
「また説明する。今は女王に会わせるのが先だ」
「分かった……」
私は女王の屋敷へ、台与と二人きりで入った。
「台与、ここは女王、日御子様のお屋敷だ。私と、限られた巫女達しか、女王と直接会うことは許されない。台与も会っていいのか、それを女王にお伺いしてくる。だから、ここで少しだけ待ってくれるか?」
膝を立てて台与と目の高さを合わせ、言い聞かせるように伝えた。
駄々を捏ねるかと思ったが、台与は素直に頷いた。
「わかった」
「いい子だ」
「うん。とよ、ここ好き」
少し微笑んで、立ち上がった。
私は一人で、絹布で仕切られた向こう側に、足を踏み入れた。
女王は既に高座の上に座していた。
「本日、帰国いたしまた。帰参が遅れましたこと、お詫び申し上げます」
女王の前で、平伏した。
「謝るのは、私の方です……。東の空に、嵐の気配は、僅かに感じていました……」
「女王にご指示された旅程に従っていれば、何ら問題は御座いませんでした。偏に、私の不徳の致すところです」
頭を垂れ、もう一度女王に詫びた。
「ですが、その窮地を救った者がおります」
「それが、あなたの後ろに控えている者……」
「左様に御座います」
「分かりました。通しなさい……」
「宜しいのですか」
あまりにもあっさりとした女王の決断に、かえって私が念を押してしまった。
「あなたが、私と引き合わそうとしている。それだけで、十分会う理由になります……」
「承知致しました。……台与」
私の呼びかけに反応し、仕切り布から、臺与が顔だけを覗かせた。
「お許しが出た。こちらへ来なさい」
「はい」
子供は何故か一々走る。
また、はたはたと駆けてきた。
そして転んだ。
だが、すぐにむくりと起き上がり、私の隣まで走ってきた。
そして、私の姿を真似するように、女王の御前で跪いた。
「弟君、穂北彦王よりお預かりしました。名を台与と申します。……台与、ご挨拶を」
「とよ、です」
舌っ足らずだが、はっきりとした声で名乗った。
「日御子と、申します…」
「台与は、女王のかなり遠縁に当たるそうです。王族の系図ではありませんが」
「御子様と、母上の血筋……」
「左様で御座います。台与が天災の予兆に気付いたことで、我々は辛くも難を逃れたのです」
私たちの話しの内容が理解できないのだろう。
台与は頭を下げながらも、忙しなく私と女王を盗み見ている。
「台与…、顔を、良く見せて…」
私は台与を促し、顔を上げさせた。
二人が向き合う。
琥珀色の、同じ色の瞳が、互いの姿を映し出している。
「そう…、あなたも……」
「ひみこさま、きれい」
共感覚者同士の二人。
視覚は視覚だけでなく、音は音だけではない。
複数の五感が連動しあい、事象を捉える。
この二人にお互いがどう映っているのか、私の想像が及ぶべくもない。
「ひみこさま、痛いの? 泣いてるの?」
「ううん、ただ、あなたに謝りたくて……」
困ったような顔で、台与が小首を傾げた。
私は見ていられず、ずっと目を伏せていた。




