第百二十六話 次代
難升米達を乗せた船が出港した頃だろう。
糸島から船を出し、壱岐、対馬と経由して朝鮮半島南部へ。
そして、西岸伝いに黄海を北上して行き、帯方郡を目指す。
絶対の安全を保証されたものではないが、遥か昔、私たちが東シナ海を突っ切って、会稽にまで漕ぎ出した時と比べれば、何とも平和な航海としか思えない。
当時の無茶を思い出すと、未だに苦笑が漏れる。
景初三年。西暦二三九年。
百年以上に及ぶ、倭国の空白の歴史が、一時的に幕を閉じる。
だが、その歴史的な場面の門出を、私は見送ることは無かった。
一足先に糸島から、邪馬壹国へと向かう海路を取っていたからだ。
「日御子ちゃんの粋な計らいだよね」
潮風に当たりながら、ナビが私に声をかけてきた。
魏への遣使の準備が整ったのを確認し、女王が私に帰郷の命を下した。
私としては、先年の戦の影響で、狗奴国が沈静化している今を狙い、東国へも目を向けたかった。
そうするように言ったのは、そもそも女王の方なのだ。
だが、女王は私に帰郷を優先させた。
“東国と結ぶなら、魏と国交を繋ぎ、国としての箔を付けてからの方がいい”。そう言って、私の諫言を退けた。
確かに、女王の主張にも一理あった。
何より、珍しく有無を言わさぬ響きがあり、それ以上私は食い下がれなかった。
丁度、母のことも気がかりではあった。
何度となく吉野ケ里へ移り住むように勧めても、あの人は邪馬壹国を離れようとしなかった。
「だが、最も母上を気にしているのは、他でもない女王なのだろう」
「そうだね……」
女王は幼い頃に産みの母親を亡くしている。
そんな彼女は、若い時から私の母を、“母上”と呼び慕っていた。
女王にとって、私の母は、二人目の母親のようなものなのだ。
そんな母親に、女王はもう気軽に会うことが出来ない。
年に二度、春と秋の収穫祭は、邪馬壹国を訪れて祝う。
だが、母は民たちに混じり、下から祭壇に上がった女王を仰ぎ見ることしかできない。
そして女王もまた、衆人の中から、小さな母の姿を認めるだけだ。
ようやく、船は邪馬壹国の入江に辿り着いた。
船を降り、水主に先導され、王の集落へと向かう。
本来は先ず邪馬壹国王、女王の弟である穂北彦を訪ねるべきだが、今日は公務ではない。
途中で水主たちを解放し、私は家路へついた。
王の屋敷の丘の麓。
変わらぬ場所に、母の、私の家は建っていた。
随分と古い家になるはずなのに、壁はしっかりとしている。
宮崇に勝手に作り変えられた、薬方所としての機能も失われていないようだ。
薬を煎じたような匂いが、近づくにつれ強くなってくる。
「失礼致します」
帰るのは一年以上ぶりだ。
例年は女王の収穫祭に私も伴い、ついでに母を訪れるのが慣例なのだが、今年は遣使の準備でそれどころでは無かった。
「お帰りなさいでしょ、坊や」
当たり前のような顔をして、母が顔を出してきた。
薬方所内にいた薬師たちは、私の姿を見て拝礼する。
昔は平伏しようとする者もいた。
そんなことは必要ないと、母が強く窘めてからは、立礼で留まるようになった。
私としても、その方がいい。
それどころか、礼自体が不要だ。
貴人に会えば、下民は平伏しなければならないというこの国の慣例を、私は認める気になれない。
「私の息子です。普通にしていなさい」
母の言葉を合図に、おずおずと薬師たちが動きを再開した。
「使いも出さず、突然来訪してしまい申し訳ございません」
「家に帰るのに、なぜ一々使いが必要なの?」
薬師たちに事後を託し、母は奥の居住区へと進んでいった。
私もそれに従う。
座り込み、用意してくれた水に口をつける。
母は座らず、火を熾している。
私が帰ると、母は先ず食事の用意をするのだ。
その後姿を、何となしに眺める。
少しだけ腰は曲がり、頭髪は歳の割に豊かだが、白く染まりきっている。
母は七十九だったかと、私は頭の中で数えた。
「日御子ちゃん元気?」
「はい。ご健勝であらせられます」
「そう、それは良かった。坊やも身体を労りなさいね。ちゃんと食べてるの?」
「はい、女王の御威光に甘える形にはなっておりますが、良い暮らしをさせてもらっていますよ」
「良い暮らしでも、食べなければ意味ない。何だか痩せてる」
私はその言葉に、曖昧に返事をした。
確かにここ最近、またまともに食事をする機会を失ってしまっている。
だが、私も私で、母に対して気になることがある。
「……あの、母上」
「なに、坊や?」
「その…、坊やというのは、止めて頂けないでしょうか?」
私も、もう六十四だ。
流石に坊やは厳しいだろう。
「なんで? 坊やは坊やでしょう?」
「いや、いくら何でも無理があるというか……。私の歳を母上はお忘れですか?」
「生意気。幾つになったって、あなたは私の息子なんだよ」
「それとこれとは、話しが別というか」
「全く。“持衰様、持衰様”って持ち上げられて、偉くなったつもりになっちゃって。あなたなんて、先代の持衰様に比べたら、まだまだなんだからね 」
そう言って母は鼻を鳴らす。
いや、先代持衰も私なんだが……。
「はい、申し訳ありません……」
説得は諦めた。
この人は、昔から温和な割に芯が強い。
母がここまで言って折れないなら、もうこれ以上やっても無駄だろう。
その後しばらくして、母が出来上がった食事を床に並べ始めた。
全て終えると、母も私の正面に座った。
「どうぞ」
「はい、戴きます」
礼をして、食事を始めた。
「ねえ、坊や」
「何でしょう」
問いかける母の顔は、何か苦しそうだった。
いや、私を労ってるような。……気の毒そうに、思っているような。
「その、“母上”とか“私”とか、止めた方がいいと思う。そういうのに憧れる年頃なのは、分かるけど……」
「え?」
「……ちょっと、気持ち悪いよ」
腹を抱えて床を転げ回るナビの笑い声が、私の耳にだけ響く。
とても不愉快だった。
――私は一晩を家で明かし、翌日丘を登り、王の屋敷を訪れた。
「ご無沙汰をしております。邪馬壹国王」
「けっ、お前だけかよ」
私の挨拶に対し、邪馬壹国王こと穂北彦は、辛辣な言葉を返してきた。
女王が今ここにいるわけが無いのは、この男も分かっている。
それでこの言葉を吐くというのは、要するに私への当てつけだ。
ジジイになっても変わらない。
兄である都萬彦には冷遇されていたとはいえ、腐っても王族。
甘やかされて育ってきたせいで、いい歳になっても幼稚さは抜けないのだ。
だが、私は違う。
この男の未成熟な所を、憐れんでやる余裕があるのだ。
「……黙れクソ餓鬼」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
私は穂北彦に拝礼した。
「首尾は?」
魏への遣使の件だ。
「出港は滞りなく。ですが、帰ってくるのは冬になってしばらくしてからでしょう」
「では、春になっても帰ってこなければ……」
「ありえません。ご安心ください」
穂北彦が鼻白む。
私がここまで不確定な事柄を、断定するのが珍しいのだろう。
「まーた、そういうことを。難升米の時もそうだったけど、先を見通すような発言は控えてよね」
ナビが横槍を入れてきたが、私は無視をした。
「ま、姉上の加護があるのだからな。信じよう」
「それで宜しいかと」
私の確信は、別のところから来るものだが、穂北彦が納得したのならそれでいいだろう。
実際、連合内各国の女王から享受している恩恵は計り知れない。
特筆すべきは農作業の効率化だ。
他国と比べ、連合国の農作物の収穫量は突出している。
この時代において、食糧の潤沢さは、ほぼそのまま国力に直結する。
女王の気象術が、それを可能にしている。
倭国に暦が無いのは、それを用意する必要が無いせいでもある。
「女王の御名のもと、大海へと漕ぎ出したのです。沈むわけが御座いませぬ」
「ま、そういうことだな」
そうだ。
女王さえいればこの国は安泰だ。女王が居さえすれば。
「では、ご挨拶も済ませたということで、私はこれで」
「早っ。もう行くのかよ」
穂北彦王と話すことは、それほどないからな。
「待てよ持衰。ちょっと神殿の方まで来てくれないか」
「神殿へ……?」
辞去しようとした所を止められ、私は神殿まで穂北彦に同行させられた。
邪馬壹国の神殿では、毎日神への祈りが捧げられている。
この国は古より、自然崇拝主義の国だ。
空や山に神を見出し、その声を聞き届け、時に政にその意志を反映させる。
典型的な古代アニミズム思想といえる。
そして神との対話は、代々御子と呼ばれる女性が行う。
今は女王が、連合国全体の御子のようなものになっている。
かつてのように、神殿の御子が邪馬壹国の方針を決定づけることはなくなった。
それでも、未だ神殿において独自に祈祷は続けられている。
「お前に会わせたい者がいてな」
「会わせたい者、ですか」
道すがら、穂北彦が私に説明を始めた。
「ああ、俺の親戚なんだけどな。えーと、確か母上の兄上の玄孫に当たるはずだ」
「それは最早他人なのでは……」
「で、そいつがちょっと変わっててな」
穂北彦は私の指摘を無視して続ける。
「変わっているとは……?」
「ま、とにかく会ってみろ」
そして私達は神殿へと辿り着いた。
壁も出入り口も、白い絹布で覆われた神域。
その景観は、今も変わってはいなかった。
外から断りを入れ、中へ入った。
若い巫女たちが、我々を迎え入れる。
「呼んで来てくれ」
それだけで巫女に伝わったようだ。
軽く頭を下げ、奥へと引っ込んでいった。
間もなく、はたはたと小さな足音が響いてきた。
現れたのは先ほどの巫女だが、足音はその後ろから鳴っている。
すぐに小さな影が、仕切り布の奥から飛び出し、先に出てきた巫女を追い越していく。
まだほんの幼い少女だった。
「あ……」
ばたりと、思いきり前のめりに倒れた。
巫女が止める間もなかった。
床に貼り付けられたように、うつ伏せで転がっている。
これは泣くな。
私は数瞬後に訪れるであろう喧騒に身構える。
だが意外にも、少女は一人で起き上がり、何事も無かったように、こちらに走ってくる。
そして、私の真正面で立ち止まり、しげしげと見上げてきた。
初めて出会う私を、遠慮のない眼差しで、物珍しそうに見つめてくる。
――そして私は、その少女に目を奪われた。
似ている。“彼女”に。
いや、一見すると似ても似つかない。
確かに、美しい顔立ちだが、与える印象は全く違う。
“彼女”は薄氷のような危うい魅力を湛えていた。
だが、目の前の少女は生気に溢れ、煌々としている。
肩まで伸びた髪は、まるで滑らかな光を発しているようが、茶色がかった黒髪だ。
同じ美しさでも、“彼女”とは正反対のものだった。
ではこの少女の、何が“彼女”を感じさせるのか。
瞳だ。
心の底を見透かすような、澄んだ琥珀色の瞳。
この瞳だけは“彼女”と、女王と全く同じものだ。
「気付いたか、持衰」
「……穂北彦、この子は」
「俺の遠戚、つまりは、姉上と同じ血を引く者。この子の名は……」
ああ。とうとうこの時がやって来た。
次代の足音は、もうすぐそこまで迫ってきていたのだ。
新たな希望。
始まり。
それは、代わりに何かが終わるということだ。
「台与」




