第百十六話 反旗
迦夜が懐妊した。
既に臨月を迎えつつある。
季節は夏になっている。
狗奴国王から与えられた帰還までの期限は、今年の冬までだ。
何一つ、迦夜に期待はしていない。
だが、自分の天運を占ってみようという気には、タケルもなっていた。
「はじまりました」
迦夜の侍女が、血相を変えて現れた。
「そうか」
短く、それだけ答えた。
産むのは迦夜だ。
タケルは待つしかない。
男にできることなど、何一つない。
「いやいや、“そうか”じゃないですよ」
「そーだ、そーだ」
「迦夜様が今苦しんでらっしゃるんですよ」
「一人で可哀想だろ」
「将軍がお傍にいて差し上げなくてどうするのですか」
「この、人でなし」
一体お前たちは、誰の臣下なのかと問いたくなる。
兵や民たちは、迦夜のこととなると、タケルに対する物言いが遠慮の無いものになる。
タケルは口々に抗議の声を上げる者たちを睨めつけた。
流石に彼も気圧され、口を噤んだ。
どさくさに紛れ、特に口の悪かった者は、タケルに拳を入れられていた。
それでも、タケルに迦夜の所に行って欲しいという態度は、消えていなかった。
「わかったよ」
小さくため息をつき、タケルは妻のもとへと向かった。
産室の前には、既に人が溢れていた。
湯を運ぶ女、布を抱えた女、祈りの言葉を呟く者。
慌ただしく、張り詰めた気配が漂っている。
タケルが来たことに気づくと、女たちが急いで道を開けた。
中に入る前から、迦夜の獣のような咆哮が聞こえてきた。
産室の中は、熱と湿り気に満ちていた。
焚かれた香草の匂いが、血と汗の気配をどうにか覆い隠している。
床に敷かれた布の上で、迦夜は身体を反らせ、歯を剥き出しにして呻いていた。
薄く開いた濡れた目で、迦夜がタケルを見つめた。
本当に見つめたのか。
ただ、たまたまそこに向いただけのようにも思える。
激しく胸を上下させ、苦し見続ける迦夜の瞳は、何も認識していないのかもしれない。
また、迦夜が激しく吠えた。
耐え難い痛みによる絶叫か。怒り狂っているようにも聞こえる。
痛みにも、波のようなものがあるらしい。
少し落ち着き、また叫ぶ。
それを先程から何度も繰り返している。
死ぬのかもしれない。
そう思った。
実際、出産の際に命を落としたという話しを、何度か聞いたことがある。
痛みと小康の間隔が、次第に短くなってきた。
迦夜が滝のような汗を流し、悲鳴を上げる。
「迦夜様、もう少しです」
産婆が声をかけた。
迦夜が呻く。
そして、けたたましい泣き声が、産室をつんざいた。
「終わりました、迦夜様。よう、頑張られました。元気な男子ですよ」
産婆が赤子を抱えながら、迦夜を労った。
産まれ落ちたそれは、赤紫で滑りを帯びている。
皺くちゃな顔を歪めながら、必死に泣き叫んでいる。
まるで、猿のようだ。
ぼんやりとそう思った。
迦夜は息を乱し、虚ろな目で、赤子を眺めていた。
産婆に目を向けると、小さく頷いた。
迦夜は、無事なようだった。
タケルは深く、溜息をついた。
いつの間にか、自分が強く拳を握り締めていたことに、彼は気づいていなかった。
「王に報告を上げる」
「そう」
三日経ち、母子ともに落ち着いた時を見計らい、タケルは迦夜を訪ねた。
息子はそこにいない。
他の女たちが、今は代わりに面倒を見ている。
「父上には、代わりに宜しくお伝えしておいて。もう少ししたら、迦夜も子を連れて、狗奴国に戻ります、ともね」
「ああ」
迦夜は穏やかに微笑んだ。
少しだけ大人びたように見えた。
調練と称し、集落の離れた場所に軍を召集した。
こうすれば、迦夜に気取らることはない。
異変に気づけば、迦夜は騒ぎ立てるだろう。
普段ならどれだけ喚こうが、無視をすればいい。
だが、迦夜は産後直後なのだ。
気遣っているか?あの女を。
違う。ただ面倒なだけだ。
だから迦夜は、今は何も知らなくていい。
タケルは軍を進発させた。
騎馬隊は変わらず二十。
投馬国を倒してから二年近くの間に、少しずつ仔馬を手に入れることは出来た。
だが、質が揃わない。
結局、最初から共に戦場を潜り抜けてきた、この馬たちに頼るしかなかった。
馬も齢を重ねた。
だが、まだ十分駆けられる。
歩兵隊も投馬国を攻めた時と同様、二百名。
タケルを認め、狗奴国からこちらに呼応する者も少なくなかった。
動員しようと思えば、もう二百名は増やせる。
しかし、投馬国に背中を刺されぬとも限らない。
それに備えるために、ある程度の数は残しておく必要があった。
狗奴国領に入り、タケルの所有していた集落に行き着いた。
久方振りの主の帰還に、民たちは湧いた。
迦夜がいないと知ると、明らかにがっかりしていたが。
それでも、タケルと迦夜の子の誕生については、まるで自分たちのことのように喜んでいた。
一番他人事のような顔をしていたのは、当人のタケルだった。
子の誕生を告げる使者を送った。
返使は、王より祝いの言葉も品物も託されてはいなかった。
何故、近くにいながら直接顔を見せぬのか。その問いかけを伝えたのみだった。
「のこのこと、死地へ赴くわけにはいかないからな」
「どういう意味でしょうか、タケル殿」
「王は俺を恐れている。一人で行けば、必ず俺を殺そうとするだろう」
「何を言われますか。貴方は狗奴国王にとって、勲功第一の将。そして、息子同然の方であらせられます。どうして王が、そのような愚かな真似をなさいましょうか」
タケルは可笑しそうに、口元を歪めた。
「いやいや、実際愚かでも何でもないんだ。王は俺を殺すべきだからな」
「タケル殿……何を?」
「白々しいな。腹を割って話そうじゃないか」
タケルは使者の近くに寄った。
「俺は、王の許しなく軍を動かし、大国を一つ打ち倒した。狗奴国に新たな領地を、人を、富を与えた」
「……それこそが、狗奴国王に対する忠義の証し――」
「違うな」
即座に遮った。
「分かっているんだろう?狗奴国王は、俺の力がもたらす恩恵に目が眩んだ。俺も時間が欲しかった。そこに王と臣下の絆などない。互いの利のために、誤魔化してきたに過ぎない」
使者の顔つきが、冷やかなものに変わった。
これが、この男の本当の顔なのだろう。
タケルの真意を、見極めるための存在。
「そして今、王の血を引く男子が、俺の掌中にある。俺は息子を正統な次期狗奴国王として推す。そしてそれまでは、俺が新たな王となる。そうこれより宣言する」
邪悪な笑みを、タケルが浮かべた。
肝の太そうな使者の顔にも、冷や汗が流れる。
「それが、貴方の返答ですか」
「王に伝えろ。大人しく禅譲するか、戦うのか」
「勝てるとお思いですか?今の狗奴国は強い。かつての投馬国よりも。貴方が、そうしたんだ」
「だろう?それこそが、先程俺が言った、王が俺を殺す理由だよ」
使者が帰り、タケルの返答を聞いた狗奴国王は、総力を上げてタケルを討つ姿勢を示した。
兵を集め、出陣の準備を整えているという。
タケルはその間に、大々的に自身の王位を宣言した。
「俺は、ただの小国に過ぎなかった狗奴国の為に戦った。そして強国、投馬国を破った。
だが王は、最後まで俺に一人の兵も、僅かな褒美も与えなかった。寧ろ俺が、狗奴国に与え続けてきた。力を。富を。
そして今、俺は狗奴国王の血を引く男子の父となった。
何もなす事の無かった王と、常に戦い続け、正統な血筋を得た俺と、果たしてどちらに王たる資格があるんだ。
だから俺は、禅譲を求めた。主君に刃を向けることなく、礼をもって訴えた。
だが返答はどうだ。王は、刃をもって俺に答えようとしている。
ならば、俺も力で応じる。
俺こそが王に相応しいと思うものは、俺に従え」
タケルの宣言に、呼びかけに、多くのものが集まった。
最早小さな反乱などではない。
狗奴国を二分する、王位をかけた大戦が、始まろうとしていた。




