第百六話 出奔
神殿の外に出ると、そこに持衰の姿は無かった。
どうにか自分で場所を移したのか。
或いは、誰かが運び出したのか。
もしそのまま転がっていたら、ついでに止めを刺そうと思っていた。
タケルは小さく舌打ちをした。
なぜあの時に、ちゃんと殺しておかなかったのか。
日御子に一刻も早く会うためか?
そうではなかった。
持衰に対する、この国に対する情が、その時のタケルは捨てきれていなかった。
だがそんな甘さを、今のタケルは完全に消し去っていた。
そう思っている。
森の中の道を抜け、巫女たちの住処を堂々と抜ける。
行きもそうだったが、誰一人外に出る者はいない。
夜とはいえ、馬蹄の響きを隠しもせずにやってきたのだ。
タケルの存在には気づいているはずだ。
持衰の言った通り、何があっても家から出るなと、きつく申し渡されているのだろう。
神域を抜けた所に、タケルの騎馬隊が待ち構えていた。
彼直属の、天照軍の騎兵達だ。
その中でも、タケルが弁韓での戦いで、燕久利から託された者たちだった。
天照軍は本来、日御子の直属の近衛兵だ。
タケルの指揮下に入っているが、根本にあるのは巫女王に対する忠誠心だ。
しかし、彼らは違う。
日御子ではなく、タケルの武勇に惚れ込んで、ここまでやってきた者たちなのだ。
タケルが邪馬壹国を、連合国を捨てると言うのなら、なんの躊躇いもなく、それに付き従う。
その忠実なる兵たちのいる先に、険しい目つきでタケルを見据えている者がいた。
「都市牛利……」
タケルは周りにいる部下達を見渡した。
「将軍の足取りを追って、ここまでやってきたようです」
兵の一人が答えた。
特に興味もなさそうに、タケルは都市牛利を見下ろした。
国を出奔しようという今の今まで、この少年のことを顧みることはなかった。
「お前には、代わりの仕事を任せておいたはずなんだがな」
よく気付く少年だった。
だからこそ、タケルは都市牛利を傍に置いた。
それが仇となった。
謁見の場での出来事は、都市牛利に詳しくは伝えていない。
だが、その後のタケルの様子に、彼は違和感を覚えたのだろう。
「将軍、ここで何をしていたのですか」
「言っただろう。女王が邪馬壹国にお戻りになられる。その護衛を、天照軍が任されたのだ。これが俺たちの、本来の任務だからな」
「馬で、ですか?」
日御子は糸島までは陸路だったが、そこから船に乗り換えて海路で向かった。
都市牛利の指摘の通り、タケルの言い訳は筋が通らない。
「わざわざ調べたのか。いや、俺たちの跡をつけて来たのなら、どっちみち分かったことか」
「仲間を殺したのですか……」
返り血を浴びたタケルの衣は、月明かりの下でもはっきりと、どす黒い色を浮かび上がらせていた。
「そのつもりだったのだがな。どうやら生き延びたようだ。しぶとい男だよ。持衰は」
「持衰様を……」
必死に冷静さを取り繕っていたが、さすがに都市牛利に動揺が走る。
「都市牛利、俺はここを出る。お前とはもう今日限りだ」
部下たちに手を振る。
騎乗の合図だ。
声もなく兵たちは頷き、馬に跨りはじめる。
「待ってください、将軍……」
「言っただろう。もうお前に用はない」
今後のことは既に考えてある。
まずは南へ向かう。
そしていずれ、この下らない連合国を……。
「俺も連れていって下さい。将軍」
「なんだと?」
今宵はじめて、タケルは都市牛利を正視した。
「何を言っているのか、分かっているのか?俺はこの国を、女王を見限ったと言っているんだぞ」
「わかっています。俺には。将軍が、理由もなくこんな真似をする方でないことは」
都市牛利の眼差しに迷いはなかった。
「俺はあなたと共に戦いたい。あなたのもとで、強くなりたいんだ」
タケルの心の片隅で、小さく温かなものが宿った。
その感触を、タケルは無視した。
「餓鬼は足手まといだ」
「将軍、俺はこれまで、あなたの役に立ってきたつもりだ。あなただって、俺を当てにしてくれたじゃないか」
「それは大率としての俺にとってだ。今の俺はその身分も捨てた。もうお前には何の価値もない」
タケルは意識して、冷たく言葉を吐き捨てた。
「この際だからはっきり言おうか、都市牛利。俺はお前のことをずっと目障りに思っていたよ。俺に重用されていると勘違いして、馴れ馴れしく纏わりついてくるお前をな」
都市牛利の顔が歪む。わなわなと、唇が小刻みに震えている。
それでも、僅かな希望に縋るように、タケルの姿を見つめ続けている。
「わからないやつだな。さっさと消えろと言っているんだ。小僧」
踵を返し、タケルは愛馬の元へと向かおうとした。
「待てよ」
顔だけを、都市牛利に向けた。
その手には剣が握られ、タケルの首を狙うように、切先が輝いていた。
「だったら、あんたは俺の敵だ」
涙の滲んだ瞳に、幼い殺意が灯っているのを、タケルは見て取った。
それは、憧れた男に拒絶された、都市牛利の思いの裏返しだった。
日御子を得るために国を捨てる今の自分の姿を、タケルは目の前の都市牛利に重ねた。
「裏切り者は、俺がここで始末する」
がたがたと、都市牛利の握る刀が震えている。
馬に乗りかかっていた兵が、剣の柄に手を置いた。
それをタケルは手で制した。
「剣を向けたな、都市牛利。それがどういうことなのか、お前は分かっているんだろうな?」
タケルも腰に差した剣を抜いた。
構えは取らずに三歩だけ、都市牛利との距離を詰めた。
「来い」
都市牛利が肩でおおきく息をついた。
伏せた目をタケルに向ける。
揺れていた焦点が合う。
刀の震えが止まった。
十三歳の少年に、あるまじき精神力だ。
都市牛利が踏み込む。
一気に距離を消し、斬撃を放つ。
いい太刀筋だった。
戦に出始めたばかりのタケルと、同じくらいの実力はありそうだった。
だが、タケルはそれを軽々と躱す。
次第に都市牛利が大振りになっていく。
ぶら下げるように握っていた剣を、唐突にタケルは振り上げた。
高い金属音が響き、火花が爆ぜた。
都市牛利の剣が手を離れ、宙を飛び、樹木に突き刺さった。
都市牛利の視線がタケルから離れ、自身の得物を追って彷徨う。
「馬鹿が」
左拳を都市牛利の腹にめり込ませる。
腰を折り曲げ、悶絶した。
柄を握った反対側で、横面を殴った。
全力ではない。だが、容赦もしなかった。
都市牛利が吹き飛び、地に倒れ伏した。
死んだか?
一瞬そう思ったが、倒れたまま都市牛利が悶えていた。
さすがに普通の人間よりは頑健だった。
肩を蹴って仰向けにした。
腹の上に座りこんで、両足で都市牛利の左右の腕を踏み押さえた。
痛みで、タケルを跳ね除けようとすることさえ出来ないようだった。
都市牛利の顔のすぐ横に、剣を突き立てた。
彼の頬に、一筋血が流れ出る。
「お前、何か勘違いしてないよな」
耳元に口を近づけ、囁く。
「何だかんだと言っても、俺がお前に手心を加えると。本気で俺がお前を殺すわけがないと。どこかでそんな甘えを、お前は抱いてはいなかったか?」
蔑むような眼差しで、タケルは都市牛利を見下ろした。
細く荒い呼吸を、都市牛利が繰り返している。
「俺に刃を向けた以上、俺はお前を……殺す」
突き刺した剣を引き抜いた。
都市牛利の眼前に切先を向ける。
瞳孔を見開き、都市牛利がそれを凝視している。
再び、振り下ろす。
肉を割く感覚が、タケルの手に伝わる。
「一度だけだ。都市牛利……」
刃は肩口を、浅く斬っていた。
都市牛利が瘧のように震えている。
立ち上がる。
都市牛利の股間が湿って、その下の地面が濡れていた。
「俺は再び、この地を訪れる。その時までに、お前はどこかに逃げ隠れていろ。もう二度と、俺の前に姿を見せるな」
愛馬に跨りながら、タケルは言葉を投げ棄てる。
「違えばその時こそ、貴様を殺す」
馬腹を蹴り、かけ声を出す。
馬が走り出す。
兵たちもそれに続く。
そうだ。俺は戻る。
この国に。
そして、全てを壊し尽くす。
日御子を、手に入れる為に。
タケルは一度も、後ろを振り返ることはなかった。




