第百五話 穢れた希望
竜巻が襲ってきた。
そう錯覚させるほど、タケルの剛剣は凄まじかった。
元々、常軌を逸した強さだった。
この5年で、それはさらに磨きがかかっている。
逆に俺は、日御子が女王になってから、まともに戦場に出ていない。
「やるな、持衰。すっかり鈍りきっていると思ったが」
「毎日、剣は振り続けていたからな」
俺は必死に避け続ける。
対してタケルは、嬉しそうに笑いながら剣を振り回す。
力強く、速い。
だが、こいつの剣筋は正直だ。
観測者補正があれば、軌道を見極め、ぎりぎりで反応することは可能だった。
だが、風切り音が肌のすぐ近くを通過するたび、肝が冷える。
俺の神経は、タケルの一振りごとに、確実に擦り減っていく。
集中が途切れ、タケルの刃にかかるのは時間の問題だ。
タケルの横一閃。
背をかがめて避ける。
髪が幾筋か斬られた。
文字通り、間一髪だった。
身体ごと、下から剣を突き上げる。
タケルの首に向かって、真っ直ぐに。
だがタケルは、上体を後ろに反らし、すんでのところでそれを避けた。
そのままの体勢で、剣を背中まで持ち上げる。
真向斬り。
隠す気もない。
そして、身体を引き起こしながら、タケルが剣を振り下ろしてきた。
何が来るかは分かっていた。
だが、突き上げの直後で、回避に移れない。
剣をかざし、タケルの剣を受ける。
火花が散り、重い衝撃の予感が、身体中を包み込む。
――だめだ。まともに受けたら。
勢いに逆らわず、タケルの剣を誘うように受け流す。
「その技、昔から得意だよな」
タケルの剣が急停止し、突如、軌道を変えた。
俺の刃に沿って、金属の擦れる音を立てながら、胸元へと迫ってくる。
身体を捻って逃れようと試みる。
だが、タケルの剣が早かった。
切先が、俺の胸を抉る。
鋭い痛みが走る。
傷は浅いが、胸元から血が流れ出る。
「すごいな。読んでたのか」
「お前の戦いは、ずっと見てたからな」
距離を取って向き合う。
肩で大きく息をつく。
タケルは汗一つかいていない。
やっぱりこいつは凄い。
こんな時なのに、俺は嬉しくなってしまった。
俺の友達は、今の倭国最強の男だ。
そんな奴と、俺は打ち合っているんだ。
「でも悪いな、タケル。俺もお前のことを、誰よりも知っているんだ」
本当は、実力でお前に勝ちたかった。
でも、やはりそれは難しい。
だから俺は、意地を捨てる。
「済まない、タケル」
俺は残った体力を振り絞り、タケルへと駆けた。
その勢いのまま、身体ごと剣を叩きつける。
それを難なくタケルは受け止め、さらに強い力で俺を弾き飛ばした。
反撃の一太刀を、タケルが放とうとする。
その直前を“観測”し、俺は右に跳んだ。
タケルの剣が止まる。
自分の左側を庇うように、タケルが体勢を変えようとする。
その隙を狙って、俺は剣を繰り出す。
何度も俺の剣を弾きながら、タケルは剣を振る。
だが俺は、常にタケルの左側へ回り込むように動いた。
その度に、彼の剣が鈍る。
逆に俺は良いように、タケルに向かって剣を浴びせ続けた。
先程までとは打って変わって、タケルが防戦一方になっていた。
俺は、タケルの腰に目をやる。
そこには、古い皮袋が提がっていた。
10年以上前、タケルが日御子に初めて会った時、彼女にもらった皮袋だ。
タケルとのかつての会話を、俺は思い出す。
“戦場には着けて行かないほうが良いんじゃないか? 返り血なんかで汚れちゃうだろ?”
“皮袋に血がつかないように、敵を斬ればいいだけじゃないか”
タケルは、確かにそう言っていた。
日御子の皮袋を、常に庇いながら戦っていると。
俺の意図に気づいても、タケルはどうすることも出来ない。
染み付いた戦い方は、それが枷になると分かっていても、抜けるものではない。
剣撃を何度も浴びせる。
受け損ない、避けきれず、タケルの身体に小さな傷が刻まれていく。
大振りの、渾身の一撃。
タケルが受け止める。
俺の身体がガラ空きになる。
タケルが剣を振り被るが、そこに躊躇いが生じる。
俺の身体は、常にタケルの左腰、皮袋の前にある。
そうだよな、タケル。
今、俺を斬ったら、大事な日御子からの貰い物を血で汚すことになる。
そんなこと、お前には出来ないよな。
タケルの反応が、少しずつ遅れてきている。
力量の差が圧倒的でも、一方的に攻められ続ければ、いくらタケルでも疲弊はする。
右袈裟。
刃がかち合う。
素早く斬り返し、
反対から、タケルの剣を跳ね飛ばす。
タケルの頸が覗く。
このまま、剣を振り下ろせば。
瞬間、タケルと視線が交錯する。
やってみろよ、持衰。
そう言っているように見えた。
「じゃあな、タケル」
俺は迷いを振り切り、剣を走らせた。
――鮮血が舞った。
肩口から斜めに衣を裂き、血が流れ出す。
膝をつき、力なく腕をぶら下げている。
傍らに、叩き折られた剣が転がっている。
「タケル……」
掠れた声だった。
「お前なら、日御子を……」
「もう何も言うな、持衰」
血を払い、剣を腰に差す。
「お前は負けたんだ」
持衰の横を通り過ぎ、タケルは神殿へと向かった。
腰につけた皮袋が、初めて血で汚れた。
かつて、友だった者の血で。
神殿の中には、初めて足を踏み入れる。
御子や王族でしか入れぬ聖域だ。
下らない慣習に、日御子は囚われている。
再び怒りが、タケルを襲ってくる。
神殿の奥には、もう一つの王都で見たような高座があった。
あの時は幕で覆われて中が見えなかったが、今はそんなものはない。
篝を焚く炉と、青銅の鏡、神木の枝などが飾られている。
そして祭壇の脇に、出口のようなものがある。
タケルは垂れ下がった幕を押し上げ、中へと入った。
「日御子……」
「タケル、久しぶり……」
胸が詰まる。
ようやく会えた。
目の前に、日御子がいる。
女王ではない。
タケルが愛した、本来の日御子が。
「日御子、迎えにきた」
「タケル。サイは……?」
タケルの呼びかけに応えず、日御子はまず、持衰の身を案じた。
暗い嗜虐心が、タケルの胸に去来する。
「死んだよ……」
琥珀色の透き通った瞳が、タケルをじっと見据える。
何かを見定めるように。
「そう、サイは生きてるのね……。でも、危険な状態……」
安堵と不安が、日御子の顔によぎる。
タケルは歯を強く食いしばった。
今はタケルが、日御子の前にいる。
今は、自分のことだけを見てほしかった。
「日御子、俺と一緒に行こう。俺たちのことを、誰も知らない土地へ行って、静かに暮らそう」
「ありがとう、タケル。でも、それは出来ない……」
日御子がゆっくりと、頭を振った。
「女王としての、責任か?」
タケルは一歩、日御子に近づいた。
「違う……。これが、わたしの望みだから……」
まただ。
望み。
またその言葉だ。
「何が望みだ」
堪えきれず、タケルは日御子に近づき、その肩を掴んだ。
驚くほど、細い肩だった。
「望みというのは、自分が幸せになるために抱くものだ。他人の幸福のために、自らを犠牲にするようなものじゃない。お前は、お前のために生きるべきなんだ。国に、王たちに、民に縛られるな」
掴んだ手に、思わず力が入ってしまう。
日御子はわずかに顔を顰めるが、タケルはそれに気づく余裕がなかった。
それでも日御子は臆することなく、むしろタケルをいたわるような眼差しを向けた。
「それは違う……。貴方がわたしを想ってくれるように、わたしもこの国の人々を想っている……。ただ、それだけの話なの……。だからわたしは、自分のために、生きている……」
「だったら……。だったら、何故」
タケルは声を荒げた。
「お前は、あの時泣いていたんだ」
感情が昂り、肩を強く揺らす。
日御子が体勢を崩してよろめき、背中から床に倒れた。
鈍い音が響く。
押し倒すような形で、タケルも日御子に覆い被さっている。
痛みで、日御子がうめき声を上げた。
その苦悶の声を聞いて、タケルは我に返った。
「ひ、日御子……すまない。俺は……」
「タケル、わたしは平気……」
そう言って、そのままの姿勢で、日御子がタケルを見上げた。
「タケル……。わたしは、わたしの身一つで……みんなが平和に暮らせるなら、こんなに嬉しいことはない。タケル、お願い……。今のわたしを認めてほしい……」
日御子が、タケルの瞳を覗き込む。
タケルもまた、その美しさに魅入られ、言葉を失う。
美しい。
いや、美しすぎる。
日御子の眩しさは、タケルの影を際立たせる。
彼女と比べてしまえば、彼女以外の人間が、酷く卑しい存在のように思えてしまう。
彼女と同じ立場でいられるのは、この世で持衰ただ一人だ。
タケルも二人に近づこうと努力した。
我欲を捨て、国に尽くそうと。
そうすれば、いずれ日御子と対等になれる。
そんなものは幻想だった。
タケルが、日御子と同じになることは出来ない。
ならば、いっそ……。
組み敷いた体勢のまま、タケルはまじまじと日御子を眺めた。
倒れた弾みで、衣が乱れている。
衿がはだけ、胸元が大きく開いている。
裾がせり上がり、白い脚が内腿まで覗いていた。
汗ばんだ肌は月光に照らされて妖しく輝き、沸き立つ身体の匂いが、タケルの鼻孔をくすぐる。
乱れた髪は、その妖艶さをいっそう際立たせていた。
日御子は恥じらう様子もなく、ただじっと、潤んだ瞳をタケルに向けている。
ごくりと生唾を呑み込む。
タケルのものが、熱を帯びていく。
そうだ。
タケルが日御子と同じになれないのなら、日御子をタケルと同じにすればいい。
彼女を汚して、穢して、神の御子から、ただの女に堕とす。
そうすればタケルは、やっと日御子と並べるのだ。
衣に手をかけ、剥ぎ取れば、日御子のすべてを、タケルは知ることができる。
心臓が高鳴る。
ゆっくりと、日御子の衿元に手を伸ばした。
「タケル……」
びくりと、タケルの身体が震えた。
「貴方の、わたしに向ける“色”の意味が、わたしには分からなかった……。けど、今なら理解できる……」
「日御子……?」
「わたしのことを想ってくれて……ありがとう。それなのに、サイと二人で、あなたを置いてけぼりにした。ごめんなさい……」
日御子の頬を、涙が伝う。
「いいよ……タケル」
日御子が両手を伸ばし、タケルの頬に添えた。
心地よい温もりが、タケルを包み込む。
「日御子のすべてを……あなたにあげる」
吐息混じりの日御子の囁きが耳に届く。
そのたびに、タケルの疼きが、痛いほどに増していく。
日御子。
触れたい、その肌に。
感じたい、君自身を。
「だけど、タケル。女王日御子を、みんなから奪わないで……。サイを、悲しませないで……」
今にも日御子に、自分の全てをぶつけようとしていたタケルの手が、思わず動きを止めた。
「日御子、何を……」
「わたしは、あなたのものになる。でも、サイの力になってほしい……。あの人の傍に、ずっといてあげて」
その言葉を聞いた途端、タケルの男は急速に萎えていった。
日御子から手を離し、よろよろと立ち上がった。
後退り、日御子の傍を離れる。
自虐的な笑いが、腹の底から込み上げてきた。
こいつは……こいつらは、いつもいつも、お互いのことばかりじゃないか。
その時、タケルは悟った。
どれだけ日御子の身体を汚そうとも、彼女は彼女のままなのだ。
その気高き精神は、決して穢れることはない。
タケルごときが、日御子を変えられるわけがない。
タケルがどれだけ日御子と持衰の間に入り込もうとも、この二人は、自分の手の届かない世界で繋がり続けるのだ。
永遠に。
「タケル……」
日御子が上体を起こす。
乱れた衣を、直そうともしない。
艶めかしいその姿が、今は空々しく思えた。
「ようやく分かったよ、日御子……」
「タケル……?」
「お前を手に入れるには、お前のすべてを、奪わなければならないんだな……。そうしないと、お前はいつまでも、女王の自分を捨てられない……」
絶望。
だがその先に、澱んだ希望が姿を現す。
「日御子、俺は、お前が固執するすべてを壊す……。国土を蹂躙し、兵を討ち破り、王を滅し、民を奴隷とする。そして、お前の愛する男……持衰を殺す」
日御子が、息を呑む気配がした。
「俺は、いつか必ずお前の国を滅ぼす。そして、何もかも失い、一人ぼっちになったお前を、俺が迎えに行くんだ。そうなって初めて、俺たちは本当の意味で一緒になれるんだよ」
天を仰いで歪んだ笑みを浮かべる。
その時のことを想像し、タケルは愉悦に浸った。
瞳には、狂気が宿っている。
そして日御子は目にした。
言葉とともに立ち上る、美しいほどに純粋な“黒”を。
日御子は、生まれて初めて戦慄した。
「それまで待っていてくれ、日御子……」
穏やかに、最後にタケルは、日御子に微笑んだ。
けれど、その顔は、日御子の知っているタケルのものではなかった。
そして彼は背を向け、日御子のもとを去っていった。
彼女はもう、彼を呼び止める言葉を、持ってはいなかった。




