第百一話 友
昔于老の剣筋に、タケルは徐々に慣れ始めていた。
速く、鋭く、変幻自在。しかしわずかに癖がある。
幾度も刃を交えるうちに、その癖が手の内に入ってきた。
今までの昔于老の敵は、彼の剣筋を覚える前に斃されてきたのだろう。
ゆえに問題にはならなかった。タケル以外には。
だが、昔于老もまた、タケルの剛剣に対処し始めていた。
先ほどよりさらに徹底して、力で受け止めず、受け流し、逸らし、殺してくる。
タケルの一撃は、何度も受けられる威力ではない。
それを知り尽くした者の動きだった。
二人が組み合っている間に、天照軍の円陣は少しずつ小さくなっていく。
押し寄せる斯蘆国兵により、犠牲者が増え始めていた。
大将首が目の前にあるのは、大いなる好機。
だが同時に、タケルが昔于老に釘付けにされている状況は、円陣全体にとって致命的な危機でもあった。
握った鉄剣が、徐々に重さを増していく。
タケルはこの戦場で、誰よりも長く剣を振り続けていた。
しかも、斯蘆国最強の将、昔于老を相手にしながらだ。
限界は近い。
タケル自身、それをはっきりと感じていた。
――もう、決着をつけるしかない。
「後先考えるのはやめだ」
呟きと共に、タケルの剣が爆ぜるように振り抜かれた。
さきほどまで徐々に鈍り始めていた剣筋に、再び覇気が宿る。
不意を突かれた昔于老は、タケルの一撃を正面から受けてしまった。
押され、足の軸がぶれる。
だがすぐに態勢を立て直し、冷静に剣を捌き始める。
昔于老には分かっていた。
この猛攻こそ、タケルが残った力のすべてを燃やそうとしている証だと。
一撃必殺の重さ。
しかし同時に大振り。
いずれ隙が生じる。
その隙を突くか、あるいはタケルが動けなくなるのを待つか。
どちらにせよ、勝利は自分の側にある。
そう確信しかけた時。
タケルが、横薙ぎの一閃を放った。
この日タケルが見せた中で、最も速く、最も重い一撃。
――昔于老はそれを、完璧に躱した。
タケルの身体が流れる。
昔于老の目の前に、差し出されたような無防備な胴。
「さらばだ。倭国の将」
昔于老の剣が振り下ろされる。
タケルを確実に両断する、必殺の軌道で。
――だが。
「……何?」
剣に重い衝撃が走った。
自分の刃が、何かに弾き上げられた。
二度目の失態、落剣は辛うじて避けたが、腕が痺れる。
何が起きたのか。
タケルは剣を地に突き立て、それを足の代わりにして踏みとどまっていた。
そして、馬の蹴りのように下から跳ね上げることで、昔于老の剣を弾き上げたのだ。
偶然ではない。
何度も繰り返した隙だらけの大振り。
すべては、昔于老の動きを誘導するためのもの。
タケルが地に刺した剣を引き抜く。
逆手に持ち替え、その勢いのまま昔于老の胴を斬りつけた。
切先に血が滲む。
獲ったか。
「……いや、違う」
昔于老は倒れなかった。
肩で荒く息をし、わずかによろめきながらも、まだ立っている。
その眼には、なお生の輝きが宿っていた。
「浅かった……」
タケルは、深く息を吐いた。
視界が霞む。
全身が返り血と汗で張り付いているのに、喉だけは砂を呑んだように乾いていた。
昔于老が剣を構え直す。
タケルも、震える手でどうにか剣を持ち上げた。
今のタケルに、あと何合耐えられるのか。
昔于老が下半身に力を込めた。
来る。
だがその瞬間、昔于老の横合いから斯蘆国兵が飛び出した。
昔于老を押しとどめる。
更に三人の兵が彼を囲んだ。
「邪魔だ。どけ」
昔于老が怒号を上げる。
だが、一人の兵が耳元で短く囁いた途端、その声がぴたりと止まった。
昔于老は名残惜しそうにタケルへ一瞥を送り、踵を返した。
次の瞬間、駆け出す。
続くように斯蘆国軍全体が、潮が引くように一斉に退き始めた。
その奔流に天照軍は呑まれかける。
「踏みとどまれ。倒れれば踏み殺されるぞ」
円陣を小さく縮め、必死で距離を保つ。
ほどなくして、後方から燕久利軍と騎兵隊、弁韓連合軍が駆けつけた。
「弁韓連合は無事だったか」
タケルが息を吐くと、燕久利が馬を跳ねさせて近づいてきた。
「大率殿、よくぞご無事で」
「燕久利殿、この撤退は」
「伯済国から急報が入った。昔利音が沙峴城を奪還した。昔利音軍は城を放棄して撤退。伯済国本軍が、今こちらへ向かっている」
先ほど斯蘆国兵が昔于老へ伝えたのは、その知らせだった。
挟撃を避けるため、昔于老は即座に軍を返したのだ。
「昔于老軍を沙峴城から引き離し、我らは持ち堪えた……大率殿、礼を言わせてくれ。あなたのお陰だ」
燕久利の目は赤く充血していた。
「……俺たちの、勝ちだ」
その言葉が脳に染み込んだ瞬間、タケルの足から力が抜け、尻から地へ崩れ落ちた。
タケルの戦勝報告を、俺は神殿の中で受け取った。
伊都国南部の平野にあった小さな集落——そこを五年かけて大改修し、女王の第二の都として造り替えた場所である。
佐賀県吉野ヶ里。
今はただ王都と呼ばれているが、後の世では必ずこの名で知られるようになるだろう。
報せを携えて来たのは、御子長となった於登だった。
日御子の座す神殿には、限られた巫女だけが足を踏み入れられる。
女王の姿を仰げるのは、同じく神に仕える巫女の身である女人のみ。
例外は二人。
弟の穂北彦。
そして、持衰である俺。
「そう……」
於登の報告に、日御子は静かに頷いた。
「女王。では……」
俺は高座の日御子を見上げ、慎重に言葉を待つ。
「うん。約束を果たそう……。やっと、タケルに会える」
「……ああ」
日御子がそっと微笑む。
思わず俺も、立場を忘れて以前のように頷き返してしまった。
タケルと交わした約束。
弁韓の平和を取り戻した暁には、あらゆる報酬と引き換えに、女王に見える名誉を特別に与える。
斯蘆国との戦いの勝利は、北部九州連合にも計り知れない恩恵をもたらすだろう。
タケルの功績は、誰の目にも明らかだ。
これだけの理由があれば、諸王も少しの我儘は認めてくれるだろう。
いや、必ず認めさせる。
「では早速、諸王にも報せを送ります。大率が戻り次第、謁見の場を設けましょう」
「謁見……」
日御子が少し眉を顰める。
「何事にも、建前は重要ですから。友と会うだけでもね」
そう、日御子は女王なのだ。
ただ人と顔を合わせるだけでも、それ相応の理由がいる。
けど、タケルと日御子は。俺たちは。
いつまでも友達だ。
俺は言外にそんな意味を込めたつもりだった。
「うん……」
タケルと日御子が顔を合わせた時、どれほど喜ぶだろうか。
それを想像するだけで、自然と口元が綻んだ。




