第九十九話 倭国の獣
斯蘆国、昔于老の軍。
先日の斯蘆国の兵達とは何もかもが違う。
一糸乱れぬ見事な統制。
それでいて、充足した気力のようなものを感じさせる。
これに勝る軍はタケルの知る限りは、孫堅と孫策の軍。
そして呂布の黒騎兵隊くらいだった。
「凄まじいですね。燕久利殿」
「昔于老は、斯蘆国の最高位である伊伐飡という位にある者です。そして、斯蘆国の王子でもある」
「王の息子?そんな男が戦場に出るのですか?」
「はい。我ら韓の国々の王は、自らの武勇を示すことも務めの一つ。王子と言えども例外ではありません。ですが、あの昔于老という男は、根っからの武人です。立場に関係なく、戦場に生きることを悦びとしているような男だ」
燕久利は、前方に現れた昔于老軍を睨みつけながらタケルに答えた。
「へえ、気が合いそうだ」
燕久利軍が中軍。弁韓軍は右翼。
天照軍は左翼についた。
そして、燕久利とタケルの騎馬隊が遊撃軍となり、全体から少し外れた場所に位置した。
矢が届く位置になった時、昔于老軍が奇妙な武器を構えた。
「弓、ではないな……」
確かに弓のような物に矢が番えてあるのだが、それは横倒しになっている。
そしてその弓を直接手にせず、弓の下に備え付けられた、細長い棒のような物を握っている。
「弩と呼ばれる物です」
燕久利が低く答えた。
「弓よりも威力が強く、射手の力に左右されにくい。鍛えた兵でなくとも扱えるため、斯蘆国はこの弩兵を多く抱えているのです」
「へえ……便利ですね」
タケルは昔于老軍の前列をじっと見つめた。
弩兵が一斉に構えた“横置きの弓”は、まるで獣が牙を揃えてこちらを睨むようだった。 どれだけ腕の良い弓兵でも、全員が常に強弓を引けるとは限らない。 だが、あれなら……。
「天照軍、盾を前に出せ」
タケルの号令が飛ぶ。
天照軍が一斉に動き、左翼に厚い盾の壁が生まれた。 同時に燕久利軍もそれを模倣して陣を整える。
「来ます」
燕久利の声とともに、昔于老軍の前列に並ぶ弩兵たちが、徐々に角度を上げた。
空気が張りつめる。
タケルの心臓が一拍跳ねた。
――来い。
敵の指揮官の号令を出した。あれが昔于老だろうか。まだ若い。束の間、そんな事を思った。同時に、大量の矢が重い破裂音を伴って放たれた。 小さな鉄の粒が雨のように降り注ぐ。
盾が震え、右翼の弁韓軍から悲鳴が上がる。 弩から放たれた矢は、普通の弓矢よりもはるかに重く、貫通力がある。
一射だけでこちらの陣形に目に見える乱れが生じた。
「……なるほど、確かに強力だ。持衰に頼んで似たようなものを作ってもらうか」
タケルの口元が、逆に愉しげに歪んだ。
昔于老軍が、矢を放った直後に一歩も動かず、そのまま再装填に入る姿が見える。
タケルは目を細めた。
「動かない。あれが隙か」
「そうです。弩は弓よりも装填に時間がかかる。だが、斯蘆国の弩兵はよく調練されている。その差は僅かだ」
燕久利の言う通り、すぐに再装填が終わった。
弩兵が構え直し、二の矢を放ってきた。
普通の弓矢よりも思い衝撃が、こちらの陣を震わす。
「よし天照軍、続け」
タケルの騎馬隊が突っ込む。
数瞬遅れて、燕久利の騎馬隊も飛び出した。
「燕久利殿」
「短い間ですが、貴方の考え方が分かってきた。必ずそうすると思っていましたよ」
燕久利が笑った。
タケルも微笑んで頷き返し、前を見やった。
昔于老軍の前衛が近づいて来る。
再装填に入った弩兵たちも、こちらに気いた。
あと数息。
あと一歩。
天照軍の騎馬隊が、まるで影のようにタケルの背後へ続いた。
タケルは息を吸い込んだ。
部下たちと燕久利の騎馬隊が左右に反れて弓を射掛ける。
タケルは曲がらず直進した。
今度は最初から仕掛けるつもりだった。
その時、素早く弩兵たちの背後から盾隊が現れた。
蹄が盾に弾かれ、侵入を防がれた。
その後方から矢が飛んでくる。
瞬時に角度から軌道を読んで剣を盾にする。
思い衝撃とともに弓が弾かれた。
だが、その脅威は離脱していく騎馬隊にも向けられている。
後列の騎兵の何人かが矢に射たれ、馬上から転げ落ちた。
舌打ちをして、タケルは自分を防いだ目の前の敵兵の盾を掴み、剥ぎ取った。
その盾を思い切り前方の弩兵に投げつけた。
顔面に直撃して、骨が砕ける音を鳴らして倒れ込んだ。
盾を奪われた兵の喉笛を突き刺してから、タケルは馬首を返して離脱した。
タケルが離れた直後、燕久利の騎馬隊が楔のように敵陣へ突っ込んでいく。
だが、昔于老軍は崩れない。
盾隊が素早く隊列を組み替え、弩兵の前に壁となって立ちはだかった。
「厄介だな……」
騎馬を走らせながら振り返り、敵の動きを観察した。
弩兵が撃つ。盾隊が庇う。再装填が終わるまで時間を稼ぐ。
そして再び撃つ。
その循環が、一切の無駄なく回っている。
「これが……斯蘆国最強の軍か」
タケルは遊び相手を見つけたように嬉しそうだった。
「こんな戦い方がある。やはりここに来て良かった」
「弩兵と盾の組み合わせが厄介だ。馬を持たぬ代わりに、そのいなし方が巧みだ」
合流してきた燕久利が、悔しげに唸っている。
「その弩だがな、燕久利殿。いい武器だが、少し男らしくないと思いませんか?」
「どういうことだろうか。大率殿」
燕久利はタケルの言っている意味がよく読み取れなかった。
「誰が扱っても、同じ威力になる。どんなに頑張っても、武器の性能で力が決まる。それが男らしくないんだ」
そう言ってタケルは自分の矢を番えた。
思い切り弦を引き絞る。
弩では決して届かない距離。
通常、それよりも射程が劣る弓など、ここからでは使い物にならない。
自棄になったのか。
燕久利はそう思った。
タケルが弦を解き放った。
矢が消えた。
いや、物凄い速さで敵に向かって飛び出したのだ。
遥か彼方で敵が倒れた。
流石の昔于老も想定外だったのだろう。
倒れた兵は盾を構えず、無防備な状態だった。
「俺の弓は、弩よりも強い」
不敵な笑みをタケルが浮かべた。
信じられない物を見たように、燕久利が目を見開いている。
それは昔于老も同様だろう。
急いで斯蘆国軍の前衛が盾を構え直している。
しかし、敵にそれ以上の動揺は見られなかった。
「もう同じ手は通用しないか」
「あんな物を見た後では、もう少し混乱しても良いものだが。なんとも冷静な男だ、昔于老は」
「そうだな。だけどもし昔于老が、盾と弩、そして冷静さだけの男なら、もうこの戦は終わりだ」
「どういうことだ。大率殿」
いつの間にかタケルと燕久利の口調が、少し砕けてきていた。
二人の間に戦いを通して、戦友としての絆が芽生えつつあった。
「燕久利殿、俺の騎馬隊をあなたに預けたい。俺は歩兵を指揮する」
「大率殿……?」
「任されてくれないか。燕久利殿」
「……承知した」
被害はまだこちらの方が多い。
それなのにタケルは、獲物を追い詰めた野獣のような目をしていた。
倭国という辺境の獣が、もしかしたら斯蘆国最強の武人を喰い殺すかもしれない。
その期待感が、燕久利から断る気持ちを消失させた。




