第九十八話 馬韓の将
「伯済国の将が一人、燕久利と申します」
四十前後だろうか。
タケルより少し歳上で、物腰は柔らかいが、逞しい体つきと意思の強そうな目をしている。
戦場で長く過ごしてきたのだろう。その姿と立ち振る舞いから、容易にそんな経歴が想像できた。
「倭国の大率、タケルと申します」
燕久利の名乗りに返しつつ、自らの名を告げる。
「大率、というのは……?」
倭国には王や首長以外に明確な役職名がない。
聞き慣れない肩書きに、燕久利がわずかに首を傾げた。
「こういう場で、軍の総指揮を任されるくらいの地位だと思っていただければ」
「なるほど。承知しました」
燕久利はにやりと笑う。
タケルの冗談めいた言い方だと思ったのだろう。
しかし実際には、タケル自身も自分の地位をどう規定すべきか分からず、そう答えるほか無かっただけだ。
「燕久利殿、此度のご助勢、女王に代わって礼を申し上げる」
タケルは軽く頭を下げた。
「なんの。我ら伯済国も、辰韓、特に斯蘆国には再三煮え湯を飲まされている。こちらとしても渡りに船です」
「斯蘆国には、それほどの軍が存在しているのですか」
「ええ。高句麗や我々馬韓と違い、騎馬軍はありませんが、その分歩兵が強い。城攻めも巧みで、我らの城の一つ、沙峴城が今や陥落寸前となっている」
忌々しげに燕久利が歯を食いしばった。
「なるほど。沙峴城から敵の注意を散らすための、今回の弁韓救援というわけか」
「渡りに船とはそういうことです、大率殿。このような状況で、我らが軍を分散させるとは、昔利音も思っておらんでしょうからな」
「それが、斯蘆国の将の名ですか」
「兄の昔于老と共に、斯蘆国で最も三韓に名を轟かせている将です」
その猛将が、今ここより北の沙峴城にいる。
できることなら、その戦に参加したいと、タケルは思った。
倭国に戻ってから何度か戦はあったが、漢にいた頃のような肌のひりつく戦いは一度も無かった。
どうせなら最強の敵に当たりいというのが、タケルの本音だった。
「大率殿?」
落胆の色を隠しきれていなかったのだろう。
燕久利が訝しげにタケルへ声をかけた。
「何でもありません、燕久利殿」
タケルは小さく首を振った。
目的は戦ではない。
弁韓との交易路の安全を確保し、筑紫島北部連合に利をもたらす。
――そして日御子に会う。
それこそが、今もっとも優先すべきことだ。
自らにそう言い聞かせ、タケルは朗らかに笑みを浮かべた。
燕久利と共に、軍を進発した。
彼の率いてきた軍は五百。
タケル率いる天照軍は二百。
そして狗邪韓国を中心とする弁韓諸国の軍が三百であった。
倭国軍が最も少ない。
だが、天照軍であればこの数でも、燕久利の軍に引けを取らない。タケルには、そうした確信があった。
目標は、弁韓北部の山中にある砦である。
この砦は、弁韓と馬韓とを結ぶ主要な交易路を見下ろす位置にある。
ここを斯蘆国から奪い返すことができれば、滞っていた物流が再び動き出す。
三つの軍勢が連なり、山道へと踏み入っていく。
寒気を孕んだ風が、木々の梢をざわつかせた。
前を行く燕久利の軍は、さすがに馬韓でも屈指の強兵と評されるだけあって統率が取れている。
兵たちは軽口も叩かず、足並みを揃えて進んでいた。
その後方に続くのが弁韓諸国の兵たち。
こちらは装備も統一されておらず、槍の長さや鎧の形もまちまちだったが、地の利ゆえか足取りは軽い。
そして最後尾を進むのが天照軍だった。
野盗や少数の辰韓軍との戦闘は何度かあったが、韓での本格的な戦闘は初めてだ。
だが、彼らに緊張はあっても恐怖はない。
倭国で鍛え上げられた武技と、何より女王への忠誠が、彼らに強靭な覚悟を与えているのだ。
「大率殿。この先にひらけた尾根がある。そこで一度、軍を整えましょう」
軍の歩みを止め、先頭から燕久利自らがタケルの元までやってきて言った。
「分かりました。指示に従います」
タケルが頷くと、燕久利は満足げに前を向いた。
山の奥には、斯蘆国が占拠している砦がある。
奪還すべき場所であり、また敵と刃を交える舞台でもあった。
タケルの胸の奥に、熱がこもる。
「……やっぱり、戦いが好きなんだな、俺は」
そんな己への苦笑を、タケルは喉の奥に押し込んだ。
本来の目的は戦ではない。
分かっているはずなのに、心はどうしても奮い立つ。
前方で、燕久利の軍旗がたなびいた。
三つの国の意地を背負い、三つの軍勢は山を登る。
その先には、斯蘆国の砦で待つ敵軍と、タケル自身が求める戦場があった。
態勢を整えた後、燕久利の軍の半数と、弁韓軍三百が、砦のある山へ向かって進軍を開始した。
山城は高所に築かれていることが最大の利点だった。
視界は遠くまで開けており、敵の接近をいち早く察知できる。
そのうえ高台から射掛ける矢は勢いが増し、逆に坂を駆け上がる側は、城に取り付くまでひたすら不利な状況を強いられる。
登坂の途中、味方の兵が少しずつ倒れていく。
だが、こちらは数が多い。
犠牲を払いつつも、城へと迫ることには成功していた。
城は堅牢だが、時間さえかければ、いずれは落とせる。
「問題は……」
タケルは四方に視線を巡らせる。
北東の遠方、地表を擦るように土煙が上がった。
「来たか」
当然、斯蘆国もこの山城の重要性は理解している。
有事の際に即座に駆けつけられるよう、城同士の連携を常に取っていた。
援軍を押さえつけ、味方を城攻めに専念させる。
それが天照軍と、燕久利の軍の残り半数に課せられた役目だった。
「では大率殿。手筈通りに」
燕久利の言葉に、タケルは静かに頷いた。
左から天照軍、右から燕久利軍が前へと進む。
打ち合わせこそ済ませてあったが、あくまで急ごしらえの混成軍だ。
無理に足並みを揃えれば混乱のもとになる。
タケルは、指揮系統は独立させたまま動いた方が良いと判断していた。
タケルの三十騎の騎馬隊と、燕久利の五十騎ほどの騎馬隊は尾根に留まり、そこから戦の趨勢を見守ることにした。
敵の増援は三百ほど。
こちらは騎馬隊を抜くと三百七十。
同程度の兵力がぶつかりあう。
「これは……」
隣の燕久利が目を見張った。
タケルは口の端をわずかに上げる。
斯蘆国軍が明らかに押されていた。
天照軍の突撃力が凄まじい。
「倭国の兵とは、こうも勇猛なのか……」
「いや、俺たちは特別ですよ」
斯蘆国軍は堪らず後退し始めた。
タケルと燕久利が揃って停止合図を送る。
これ以上は国境を越えてしまう。
深追いは禁物だ。
両軍が睨み合う形となった。
「無理に敵を倒す必要はない。向こうが攻めてこないなら、こちらはゆっくり城を攻めれば良いだけだ」
「その通りです、大率殿。ですが……」
「伯済国からしたら、城を取るだけでは旨味が少ないですよね」
伯済国の第一の目的は、沙峴城の敵をこちらに引きつけること。
敵があっさり城を捨てれば、危険を冒して兵を割いた意味が薄れる。
燕久利は小さく頭を下げた。
「申し訳ない。倭国方にとっては交易路さえ確保できれば良い。我らの事情は我らの物。お忘れ下さい」
その潔さに、タケルは武人としての美しさを見た気がした。
「いえ、俺もこのままではつまらないと思っていたところです」
言うや否や、タケルは騎馬隊に号令をかけた。
天照軍騎馬隊は躊躇なくタケルに続く。
「大率殿、何を――」
燕久利の声は、すでに風の中だった。
「天照軍、進め」
対陣していた天照軍の側を駆け抜けながら、タケルは叫ぶ。
その中に槍を構えた都市牛利の姿が見えた。
嬉しそうにこちらを見上げている。
敵が目前に迫る。
騎馬隊の存在に気づいていなかった斯蘆国兵は面食らった。
「曲がれ」
騎馬隊は一斉に軌道を変える。
「射て」
敵の鼻先を掠めながら、近距離から味方が矢を放った。
本来ならそのまま突撃したいところだ。
だが相当な鍛錬を積んだ騎兵でなければ、衝突の衝撃で馬から振り落とされる。
孫堅や呂布の騎兵はそれを平然と成し遂げたが、あれが異常なのだと、倭国で騎兵を再編したタケルは今さらながら理解していた。
馬の機動力を活かした離脱攻撃を繰り返す。
やがて敵も慣れ、盾を構えて矢を返すようになってきた。
「ここだな」
再び騎馬隊を敵に向ける。
タケルの反転の合図に、敵も軌道を読んで矢を向ける。
騎馬隊が左へ逸れた。
ただし、一騎を除いて。
タケルが馬ごと盾列を踏み越え、敵陣に突入した。
鏃は他の騎兵に向いている。
タケルを狙っている者は誰もいない。
そして、自陣に踏み込まれては、もはや弓は使えない。
蹄で敵兵を蹴散らし、剣で首を跳ねながら好き放題に駆け回る。
遅れて天照軍の突撃。
陣形を壊された斯蘆国兵は抵抗もままならず潰走した。
「追え」
国境を越えることになるが、タケルは構わず追撃の号令を発した。
馬の余力が僅かに残る程度まで追い回し、ようやくタケルは追撃を止めた。
既に辰韓の領土に入り込んでいるが、その場で陣を敷き直す。
「大率殿、危険だ。すぐに退がって下され」
騎馬隊だけを率いて、燕久利がタケルのもとに駆けつけて来た。
息を切らし、険しい表情をしている。
「いや、燕久利殿。このまま沙峴城まで攻め入る姿勢を示す。そうすれば斯蘆国も、より多くの兵をこちらに差し向けざるを得ない」
タケルは愉快そうに笑い、燕久利を見返した。
「これで沙峴城の援護になる筈だ」
「大率殿……なぜ我らの為にそこまで」
「言ったでしょう。このままだとつまらないって」
三日後、山上の城は陥落した。
これで倭国軍としての目的は果たされた。
だがタケルも燕久利も兵を引き上げず、沙峴城の方角へ、慎重に軍を進め続けた。
「大率殿、あれを」
前方の山道に、巨大な歩兵の塊が現れた。
千近い大軍勢。
旗には“昔”の文字。
「沙峴城攻めの指揮官は昔利音。となると……あれは兄の昔于老か」
燕久利が強い緊張を滲ませた声で呟いた。
その声音だけで、昔于老という将がどれほどの強敵か、タケルにも察せられた。
タケルの身体に、ぞくりとした震えが走る。
快楽にも似た昂揚が、血潮となって全身を巡っていった。




