表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
倭国大乱  作者: 明石辰彦
1/8

第一話 新天地へ

西暦一七〇年。 倭の地は、国々が互いに牙をむき合う「倭国大乱」のただ中にあった。 血で血を洗う戦はすでに数十年に及び、村々は焼かれ、田畑は荒れ、民の嘆きは尽きない。誰もが疲れ果て、しかし争いの炎は鎮まらない。


そんな倭国の中にある、小さな集落の首長である彼は、夜の海を見つめていた。 波が黒々とうねり、月明かりを砕いては返している。背後では、慌ただしく舟を押し出す村人たちの気配。 ――ここに留まれば、いずれ滅ぶ。 そう悟ったとき、彼の胸にはただ一つの決意があった。


「……我らは海へ出る。」


己に言い聞かせるように、首長は低くつぶやいた。 目指すのは海を隔てた先にある漢の国である。


今彼らのいる九州より北に大きな半島がある。その半島の南部にある馬韓と呼ばれる、倭国のように小さな国々が乱立している地域がある。その中のいくつかの国とはやりとりがあり、その国の住人から、馬韓より更に西にある漢という国のことも伝え聞いていた。 漢は一つの国が広大な地を支配しており、小さな国々での争いなどは起こらないという。 時折、漢人が移り住んでくることもある。逆に自分達が彼の地にたどり着くのも不可能ではないだろう。


それでも大地を離れることは恐怖であった。漁で沖合にでることはあっても、その遥か先の海で何があるか分からない。だが、争いに呑まれて朽ち果てるよりは、まだましだ。 戦いのない平和な地を目指すことに集落の人々も危険を承知で賛同してくれた。


火の粉が夜風に舞い、舟の影が波間に揺れた。


やがて、掛け声とともに舟は押し出され、暗き海へ滑り出した。 背後に広がるのは、もはや安住を与えぬ乱世の地。 首長は胸中に重き石を抱いたまま、波間を進む舟の先を見据えた。


出港した舟は七隻。総勢五十余名が夜の海に乗り出した。 女たちは幼子を抱きしめ、若者は槍や石斧を抱えていた。 老いた者は声を潜め、燃え残る村を振り返る。 誰もが、この渡海が生きるか死ぬかの賭けであると悟っていた。



舟の一団の中央に、一人の男が動かず座していた。 髪は伸ばし放題、爪も切らず、飲食は極限まで節制するため、骨ばった体に生気はない。 村人たちはその姿に目を合わせまいとし、子どもは母の胸に顔を埋める。 ――“持衰”(じさい)。 航海の成否をその身に宿す者。 病や死があれば彼の罪とされ、容赦なく殺される、生贄のような存在である。 逆に無事に着けば、その功績を讃えられる、神への祈りを捧げる者でもあった。それは古より伝わる、どうしようもない倭の習わしであった。


海に出ることを決めた時、まず突き当たる問題がこの持衰を決めることであった。

年老いた集落の老人が1人名乗りをあげたが、頑健なものでも辛い役目を、年取った人間が全うするのは難しい。

ある程度身体のできた人間でなければ持衰という役目を務めることはできない。

しかし、それ以外の人間で持衰に立候補する者はいなかった。

たとえ自分が無事に辿り着いても、他に犠牲が出れば死ななければならないのだから当然だ。

首長自らが持衰になるわけにもいかない。率いる者がいなくなってしまう。

そういった事情から、持衰を決める際は神の意を伺い、占いで選定することが多いようだ。

自分達もそうするしかないと決めかけた時ー




おずおずと手を挙げたのがこの男だと理解した時、首長の驚きは相当なものだった。

普段の彼は暗くはないのだが臆病で、狩りや漁に関してはいつまで経っても嫌そうにおこなっていた。

時折1人でぶつぶつとわけのわからないことを話していることもあり、首長だけでなく周りの人間も奇異な目で彼を見ることが多かった。


およそこのような命の懸った場面で前に出るなどとは、首長だけでなく他の者も思いもよらなかった。


持衰はその役目通り一言も話さず、ただ静かにその場に座り込んでいる



舟団が漕ぎ出して間もなく、空が急にかき曇った。

稲妻が海原を白く裂き、雷鳴が大地を揺るがすように轟く。

波はうねりを増し、舟は軋み、櫂を握る男たちの手は痺れるほどに震えていた。


「くそっ、沈むぞ!」

「子を抱け、しっかりしろ!」


女たちの悲鳴、幼子の泣き声、若者の叫びが入り乱れ、舟の上は恐怖に飲み込まれていく。

黒々とした波が一つ打ち寄せるたび、舟はまるで小枝のように翻弄され、誰もが死を覚悟した。


だが――舟の中央に座る一人だけが、ただ動かずにいた。


長く伸びた髪は雨に濡れ、痩せた体は波に揺れるたびに左右に振られる。

しかし、その眼差しは一切の恐怖を映さず、虚空を見つめるように揺るぎなかった。


「……あれを見ろ」

誰かが震える声で呟いた。


人々は気づいた。

嵐の只中で、この男だけがまるで別の世界に在るかのように静かであることに。


気味が悪い。

だが同時に――もしこの男が“持衰”でなければ、この舟はとっくに呑まれていただろう、とも思えた。


恐怖と嫌悪と、言葉にできぬ畏敬が、村人たちの胸に入り混じった。

嵐の咆哮の中、彼らはますます彼から目を離せなくなっていった。



波風は夜を徹して荒れ狂った。

雨は針のように打ちつけ、海は天を突くようにうねり、舟は幾度も転覆しかけた。

女たちは声を限りに祈り、男たちは櫂を握る手を血で染めながら漕ぎ続ける。


首長もまた、胸の奥で死を覚悟した。

ここまでか……

そう思った刹那、ふと視線の先に持衰の姿が映った。


彼は相変わらず、嵐の只中で微動だにせず、虚ろな目で闇を見つめていた。

恐怖の色は一片もない。むしろ嵐そのものが彼を避けているかのようにさえ見えた。

その姿に、首長はぞくりとした。

――神が彼を通して我らを試しているのかもしれぬ。


やがて夜が明ける頃、空は急速に晴れわたり、荒波は次第に鎮まった。

人々は疲れ果て、舟底に身を投げ出すようにして空を仰いだ。

どれほどの時が経ったか。

水平線の向こうに、黒々とした陸影が浮かび上がった。


「……陸だ!」


誰かが叫んだ。

人々は一斉に顔を上げ、涙と汗に濡れた顔で歓声をあげた。

舟は風に押され、やがて豊かな緑に覆われた大地へと近づいていく。


そこは、後に「会稽」と呼ばれる地――漢の領土の東の果てであった。

倭から遠く離れた異国の大地。

首長は震える手で額の汗を拭い、深く息を吐いた。


我らは……生き延びたのだ。


しかしその安堵の裏で、彼の胸には消えぬ不安があった。

この見知らぬ地で、果たして我らは受け入れられるのか。

そして舟の中央に座る“持衰”の男は、相変わらず何も語らず、静かに前方を見据えていた。



舟はやがて波打ち際に乗り上げた。 人々は砂を踏みしめると、次々にその場へ倒れ込み、抱き合い、涙を流した。 誰もが命の重さを実感し、声を限りに大地へ感謝した。


首長もまた、砂を掴んで胸に押し当て、深く息を吐いた。 生き延びた――その実感が、重く、はっきりと胸に沈んでいく。


ふと振り返れば、舟からゆるゆると降り立つ一人の姿。 持衰であった。 嵐の夜を通じても眉ひとつ動かさなかった彼は、今もなお表情を変えず、濡れた髪を垂らして歩み出てきた。


首長は歩み寄り、思わず声をかけた。


「……よくやった。お前のおかげで我らは助かったのだ」


持衰は無言で首長を見返えす。 相変わらず眼は焦点が合わず虚空を見つめていている。 元々こんな男では無かったが、長い間誰とも口をきかず、飲み食いも満足にしていなかったのだ。 誰よりも疲弊しているのはこの男なのだ。 早く休ませなければ命に関わるかもしれない。


「おい。誰か介抱してやってくれ」


首長の言葉に反応した何人かが駆け寄ってくる。 皆口々に労いと感謝の言葉をかけながら彼の身体を支え、連れ立っていく。


「……マジ、死ぬかと思った……」


「……?」


持衰が何か呟いたような気がした。 ふと、彼の方に視線をやってみるが、両脇を他の者に支えられながらフラフラと歩いていく後ろ姿があるだけだった。


……いや、空耳だろう。

そう自らを納得させながらも、胸の奥に小さな違和感が残った。


だがそれもすぐに、新たな不安に塗りつぶされていく。

ここは異国の地。

安堵の先に待つのは、未知なる試練であった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
日本がまだ倭国の時代の歴史小説はじめてで新鮮でした! 辿り着いた場所が会稽とのことですが、時代的に後漢と交流するのかな。 主人公の持衰の性格や思考も気になる…。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ