大江戸 菊池
大店が並ぶ大通りから奥へ入った小道の奥には、小さな稲荷社がある。
そこへ、毎朝お供えを持って通う感心な少女がいた。
「神様、この界隈の人たちが、心安らかに暮らせますように」
少女の名は手毬。大店の料亭を営む主人の、目に入れても痛くない孫娘だ。
「それから、菊池様が面倒ごとに巻き込まれませんように」
手毬は子供のころから菊池を慕っていた。
菊池は、何人も弟子を抱える建具屋の息子。
まだ若いながら、あちこちの屋敷に名指しで呼ばれるほど信用のある職人だ。
手毬が一心に祈っていると、砂利を踏む音がする。
「あれ? 手毬? 朝早くからお参りとは、信心深いな」
「菊池様」
「よせやい、幼馴染に様付けなんて据わりが悪いだろ?」
「でも、佐倉様が……」
「あんな旗本の放蕩息子の道楽に、付き合う必要は無いよ。
今は俺のこと、玩具だと思って構っているだけだ。
そのうち飽きるだろう」
つい最近、菊池が建具の修繕を請け負った大名屋敷で、捕物があった。
たまたま、顔見知りの旗本の若君佐倉と、屋敷内で顔を合わせた菊池は、ついつい佐倉に手を貸してしまったのだ。
菊池は建具屋の息子とはいえ、幼いころから剣の道場に通っていて、佐倉とは兄弟弟子に当たる。
しかし、子供の頃は顔を知っているという程度で、話したこともなかったのだが。
『助かったぞ、菊池』
『いえ、たまたま居合わせましたので』
『私がここに来たのは、隠密同心として内密に事を収めるためなのだ』
『いや、そういうぶっちゃけは要りません。
何も教えずに帰してください』
『袖すり合えば他人ではない。
しかも、お前は私の秘密を既に握っているではないか』
『な、何のことでしょう?』
『私は女だ。性別を偽って、旗本の一人息子を演じている。
身内以外で、それを知るのはお前だけだぞ』
『……事故です。忘れさせてください』
以前、休日に用があり、道場へ向かった日。
一人きりだと油断した佐倉が、ばーんと胸をはだけていた。
生そのものを見たわけでは無いが、さらしをきつく巻き付けてさえ、なかなか立派なモノであった。
しかも、佐倉は女だということがバレたにもかかわらず、片手を上げて陽気に挨拶してきたのだ。
『よっ、菊池! このことは内密になっ!』
おいおい、勘弁してくれよと思っていたのに、なんだって?
佐倉は隠密同心? 何をする仕事かはよく知らんが、知らないほうが絶対お得な気がする!
「菊池様?」
「ああ、何でもない」
頭を悩ませる佐倉の存在に、つい考え込んでしまった。
手毬が不安げに見つめて来る。
……可愛い。
「佐倉様は、うちの料亭にお越しの際もおっしゃってますわ」
『建具屋の菊池の倅は、私の弟のようなものだから、よしなに』
「あの野郎~」
どこへ行っても、佐倉はそう触れ回っているらしい。
そのせいで最近、仕事先での扱いが良くなっている。
休憩時の茶も上等なものが出るし、せいぜい煎餅だった茶請けが季節の上生に変わってしまった。
「菊池様は……」
「なんだい?」
「佐倉様のことが、お好きなのですか?」
「な? 冗談は止めてくれ!」
「だって、佐倉様は男性とはいえ、あの涼やかな美貌。
男の方が惚れても、ちっとも不思議ではない気がします」
「断固、お断りする!」
「え?」
「俺が好きなのは……」
菊池は手毬をじっと見つめた。
幼馴染から一歩進みたい。小さい頃から、お前一筋なんだ、今から口説くぞ~!
「お、菊池~! こんなとこにいたのか!
おや、料亭の手毬じゃないか。なんだなんだ? お前たちそういう仲か?」
実に品の無い旗本の若君だ。
「そ、そんなんじゃ。
わ、わたし、仕事があるので失礼します」
「え? 手毬?」
手毬はそそくさと帰ってしまった。
「くそお~!」
「はは、いいとこだったのに悪いな。
だが、あれは脈ありだ。紋付き袴で貰い受けに行っても大丈夫だぜ」
「無責任なことを言わないでください」
「なんなら、私が口添えしてもいいぞ」
「結構です」
「そう言うな。可愛い弟弟子なんだから」
「それも、触れ回らないでください。ただの他人なんですから!」
「冷たいねえ。だが、いい知らせで心を温めろ。
菊池、お前は隠密同心である私の配下に任命された。
今日から、隠密十手持ちだ!」
「いらんわ!」
「無理無理。裏仕事とはいえ、正式に任命されたのだ。
私の上司の名前聞くか?」
「聞きたくないわ!」
「いや、聞け!」
「嫌じゃ!」
逃げる菊池、追う佐倉。
飛脚も驚く速さで、二人は大通りを駆け抜ける。
店先で水を撒いていた手毬は、そっとため息をつく。
「羨ましい。あんなに仲が良くて」
江戸の町は、表裏様々な人々の努力で、今日も平和だった。