2、クロヴィス
「クロヴィス様、少々しゃがんでくださいませ。雪が頭の上に」
「え、大丈夫です。自分で取れます」
クロヴィスは頭の上にある髪を無造作になでて雪を取ろうとしたがくっついたままだ。アルベルティーヌはくすくす笑って、やはり座るようにとお願いする。
クロヴィスが腰を落としてやっと届く頭の上、乗ってしまった雪を払ってやると、クロヴィスは顔を真っ赤にした。
やはり照れ屋なのか。申し訳なさそうにして、アルベルティーヌを見下ろした。身長差があるので、どうしても見下ろすような格好になるのだ。
「あの、寒くはないでしょうか?」
「大丈夫ですよ。コラリーがあったかくなるように、沢山着せてくれました。お散歩と聞いていたので、歩きやすい靴も用意してくれたのです」
雪が降り始めた頃、城の外に出て馬で遠出をすると言われ、コラリーがしっかり用意してくれたのだ。歩いていると暖かすぎるくらいだが、馬に乗っていれば丁度良い。
だから気にすることはないのだが、クロヴィスは気になるようで、ちらちらと横目で様子を伺ってくる。
「あの、北部はいかがでしょうか。寒くて嫌だとか。怖いとか、そういったことは感じないのですか?」
「今までの婚約者様たちは、そういったことを言われたのでしょうか?」
「そ、そう、ですね。まずは私の容姿に恐れをなすので……」
しどろもどろ。クロヴィスは令嬢たちの反応を口にする。出会ってすぐに気を失われたこともあると吐露するので、アルベルティーヌは眉根を下げた。
「クロヴィス様がお優しいことはお話ししていて分かります。今までの婚約者様たちはそれがご理解できなかったのでしょう。わたくしはむしろクロヴィス様で安堵しておりますよ。フローラン王子様とベアトリスお姉様の推薦に間違いはありませんでした」
だから安心してほしい。そう言うつもりだったが、クロヴィスは突然、がくり、と地面に膝を付いた。
「も、もう、私には、これ以上はっ」
「クロヴィス様!?」
一体どうしたのか。クロヴィスは膝を付いたまま、ポロポロと涙を流し始めた。
嗚咽を漏らし、項垂れて首を何度も振る。
「あの、ご不快になるようなことを申したでしょうか? わたくし、結構ずばずば思ったことを口にしてしまい、お姉様にご注意をいただくこともしばしありまして」
「ちが、違うのです! もう、私には、アルベルティーヌ様を騙すことは……っ」
クロヴィスが嘆きながらやっと白状したことに、アルベルティーヌは大きく眉を逆立てた。
「ダニエル! どこですか、ダニエル!!」
大声を上げながら、アルベルティーヌはダニエルのいる部屋を無遠慮に開けた。
「ご令嬢、一体何事でしょうか。急に部屋に入ってきて……」
言っている途中、アルベルティーヌは右手を大きく振りかぶる。伸ばせば頬に一発というところ、ダニエルは驚く様子もなくその腕を取った。
「何をされるのです。————いだっ!」
避けたと思うなかれ。アルベルティーヌの右足がダニエルの足の甲を激しく踏み付ける。その瞬間手が離れると、もう一度アルベルティーヌの右手が振り抜かれた。
ばちん、とヒットした音に、後ろにいたクロヴィスや集まってきたメイドたちが、ひっ、と息を呑む。
「卑劣な方ですね! 嫌なら嫌とはっきりおっしゃれば良いでしょう!」
ダニエルの白い肌が手のひらの形で真っ赤に染まった。後ろにいる聴衆たちが、うわあ。と声を上げるほどに。
「雪が降り始めれば北部からは出られないと聞きました。出て行きたいのは山々ですが、春になるまではこちらにお邪魔します! よろしいですね!」
アルベルティーヌはそう言ってくるりと踵を返した。扉の前に集まっていたメイドたちの中にクロヴィスがいたが、視線が合うとたじろぐように身を竦ませた。
————いや、クロヴィスと呼ぶには語弊がある。
「……冬は長いですよ。雪で都に戻ることができないから、この時期に来られたのでは? 婚約して長期に渡り城へ滞在すれば、婚約はスムーズに行われたと勘違いされるでしょう。領主を説得する時間が持てますね」
後ろからダニエルが打たれた頬を拭いながら浅い笑いを浮かべた。アルベルティーヌは後ろ背にしたまま横目で冷めた視線を向ける。
「この時期を逃しては婚約が来年になってしまうから、この時期になっただけでしょう。王子様はあなたがいつまでも未婚だからと心配されて、わたくしにお話をくださいました。ただそれだけです」
「ここで何かあっても、戻る道がなければ戻ることはできません。今までの令嬢たちはそこまで頭は回らなかったようですが」
「何を勘違いされているのです? 戻ることができるならば、さっさと戻り、王子様にお断りを入れます。領主の性格があまりに悪く、わたくしの相手としてふさわしいとは思えないとお伝えするだけでしょう。わたくしは、あなたの性格の悪さにがっかりしているだけです。本物のダニエルさんがお相手であれば、どれだけ嬉しいか」
きっぱりはっきり、アルベルティーヌは言い切った。部屋を覗いているクロヴィスがぽっと頬を染める。部屋の中にいたダニエルは、わずかに眉を顰めた。
「自分がおもてになると勘違いされているのですか? それはあなたを知らぬ方々が囁いた、ただの噂でしょう。笑わせないでいただきたいです。あなたはよろしいのよ、ダニエルさん。クズみたいな領主に無理に従わされたのですから。毎回、ご令嬢のお相手、心が痛んだでしょう。クズみたいな領主のせいで、あなたがあらぬことを言われても、それを黙って耐えなければならないのですから。ですが、あなたは反省すべきですわ。領主様」
クズを連呼して、アルベルティーヌはダニエルを後ろにすると、部屋を出て勢いよく扉を閉めた。
本物のクロヴィス・アポリネールは、長い銀髪を一つに結んだ、細身の男だった。
執事と言っていたダニエルはアポリネール領の城を守る騎士の一人だ。クロヴィスでもなく執事でもなく騎士であるダニエルは、婚約者として送り込まれる令嬢たちを、いつもクロヴィスと偽って追い返していた。
「くだらなすぎて、平手だけでは足りませんね」
「申し訳ありません……」
「ダニエルさんはいいのですよ。顔を上げてください」
食事の席で、ダニエルはしょんぼりとしたまま扉の前で立ち尽くしている。ダニエルが気にする必要はないのだが、優しい性格なので気落ちしたままだった。
(主人から命ぜられてはどうにもならなかったのでしょう。嫌われ役を部下にやらせるなど、恥ずべき行為ではないでしょうか?)
クロヴィスと偽っていた時、朝食はいつもダニエルが席に着き一緒に食事をしてくれていたのだが、今日は立ち尽くしたままだ。正体がバレてしまったので主人の席に着くわけにはいかないのだろう。
その主人、本物のクロヴィスは姿を現していない。今まで知らぬ顔で執事のふりをし、食事の席で突っ立っていたのに。
「あの方はおいでになるつもりはなさそうですね。でしたら、皆さんでお食事をするのはいかがでしょうか? 一人での食事は寂しいのです。ダニエルさん、お座りになって。皆さんも、一緒にお食事をしましょう?」
アルベルティーヌの言葉に一同顔を見合わせていたが、アルベルティーヌが再度頼むと、素直に席に座り始めた。
「申し訳ありません。アルベルティーヌ様。クロヴィス様はあれでも優しい方なのです」
そう言ったのは料理長だ。コック帽を外して深々と頭を下げつつ、クロヴィスを擁護する。
「クロヴィス様は、女性が苦手で。苦手というか、嫌悪しているというか」
「都では、子供の頃から女性に追い掛けられてばかりだったようで」
クロヴィスに仕えている者たちは、謝りながらもクロヴィスの女難を口にした。
お茶会に誘われれば飲み物に媚薬が入り、パーティ会場では部屋に連れ込まれたり、贈り物には婚姻届が同封されていたりと、話が尽きない。
聞いているだけでげんなりしてくるエピソードを口々に話し始める。
「性格は捻くれてしまったのですけれど、私たちには良いご主人様なのです」
コラリーが付け足した。話を聞く限り、彼らはクロヴィスを庇おうとしている。命令されて言わされているようには思えなかった。
(王子様が心配していた意味が分かったような気がします。中々お相手が見付からないわけですね)
クロヴィスを手に入れようと、令嬢の父親たちが争いを始め牽制し合うこともあり、騙して領地を得ようとする者までいたそうだ。
この北部の地は珍しい鉱物が採掘されることで有名だ。比較的最近見付かった鉱山で、それによってこの領地は潤ったという。
「ここは雪国で住みにくいでしょう。食料がなくなってひもじい時代もあったんです。先々代あたりで改革を進めて、それを引き継ぎ、もっと住みやすくしてくれた方なんです」
「鉱山が見付かってやっと豊かになったと思ったら、それを欲しがる貴族がこぞって婚約者になる令嬢を送ってきたんですよ」
「いい方なんですよ。女性にあれなだけで。嫌な思いを散々されてきましたから」
アルベルティーヌもクロヴィスの噂は良く耳にしていた。ほとんど伝説のようで尾鰭がついているような気もしたが、クロヴィスの相手を望む女性は多かった。
若くして領主になり、領地には金のなる鉱山がある。身分とその背景は他の貴族と比べようがない。
白銀の地にふさわしい精霊のような方。その存在感に令嬢たちは気を失ってしまうほど。
(存在感の解釈がわたくし違いましたね。ダニエルも相当な存在感だったので、間違いではないと思ったのですが)
「クロヴィス様も、初めはちゃんと相手にされていたんですよ。しかし、私たちに対する態度や雪国の暮らしにくさに文句を言う方が多くて」
「領土に籠もらず都にいればいいとか、領土を軽んじる発言をする方もいましたし」
「身分と顔目当ての女性ばかりにうんざりしてたんですよ。来たら来たらで文句ばかり」
「その内、相手にするのも面倒になって、ダニエルに頼むように」
皆の視線がダニエルに向くと、大きな体を小さくすぼめた。ダニエルはクロヴィスのふりをして令嬢たちを脅し、すぐに帰るよう仕向けていたのだ。
「お顔を知っている方がいらしていたのではないんでしょうか?」
「クロヴィス様は十七に差し掛かる頃までしか都にいないですし、学院にも通っていたので、女性で顔を知っている方はごくわずからしいです。幼い頃に会ったご令嬢はいるでしょうが、十年近く都のパーティは出ていませんので」
令嬢たちに十年で随分顔が変わったと疑問に思われても、領主だと言い張られては令嬢たちもどうしようもない。ダニエルのいかつい雰囲気と雪国の暮らしにくさに根を上げて、早々に婚約を破談にしてくる。
さっさと帰ってくれればありがたい。
しかし、それでも留まる令嬢たちの中には、クロヴィス扮するダニエルに色目をつかう令嬢もいたそうだ。
(それは女性不信になってもおかしくないですね)
「今回は王子様の紹介だったので、やめた方がいいと言ったのですが……。本当に申し訳ありませんでした」
ダニエルはしょんぼりとして、アルベルティーヌにもう一度深く頭を下げた。
ダニエルのせいではないから、もう謝らないで良いのだが。
それをさせていたクロヴィスが出てこない方が余計に腹立たしい。部下たちに面倒ごとを押し付けて、自分は姿も現さないのだから。
(それでも人を騙すのはいけないでしょう。しかも婚約で結婚ですよ。一生の話です)
「どうか、お許しください。クロヴィス様はアルベルティーヌ様に悪気があったわけではないのです。女性の心が信じられないほど大きな傷をお持ちなのです」
ダニエルがもう一度深々と頭を下げると、皆も同じようにアルベルティーヌに深い謝罪をした。
「クロヴィス様、お手紙が届いておりますよ」
雪が吹き続け、やっと晴れ間が見られた頃、都から一通の手紙が届いた。
執事のスルマンは黒の執事用の服に身を通して、手紙を持ってくる。もう偽る意味はないので、本物の執事として仕事を行っていた。
偽っている間は騎士の格好をさせていたが、細身のスルマンは騎士姿があまりに似合わないため、アルベルティーヌの前には現れないようにさせていた。
今さらながら紹介すべきだろうか。そう考えつつも手紙に押された印を見て、クロヴィスは顔を大きくしかめた。
「フローラン王子よりお手紙ですね」
「碌なことなど書いていないだろう」
フローランは幼少の頃クロヴィスと共に育った仲だ。年上なため、兄貴面をしてクロヴィスをよくからかっていた。
手紙もどうせアルベルティーヌのことしか書いていないのだから、このまま捨ててしまおうかと算段する。
「ダメですよ。捨てては。アルベルティーヌ様がいらしてから日数をおいて送られた手紙です。王子はなんでもお見通しでしょう」
(だから読むのが嫌なのだ。今の状況をきっと想像していて、手紙をよこしたのだろう)
それが分かるので、クロヴィスは嫌々ながらその手紙を開いた。
『アルベルティーヌは可愛いだろう。婚約式を終えたらすぐにでも結婚式を挙げておけ。お前の性格じゃ逃げられるからな。大切な妻となる者の妹だ。しっかり相手をして、日頃の行いを正せ』
「何と書いてありましたか?」
「何も書いていない。もう、燃やせ」
「ダメですよ。全く。しっかり読んでください。二枚目もあります」
『本当にお前にはもったいないが、お前の捻くれた性格を直してくれる貴重な存在だ。お前は彼女を追い出すことはできないし、彼女に反論することも叶わない。彼女の前で膝を折ることになるだろう』
最後まで読んで、やはり丸めて暖炉に放り込む。最後にあった、『負け惜しみを口にする日を楽しみにしている』の文が、また腹立たしい。
「都にいらした頃、多くの女性がクロヴィス様の機嫌を取ろうとしてきました。女性たちもそうですが、その親となる者たちもあの手この手と考えられないようなことを行ってきたものです」
「何が言いたい」
スルマンはため息混じりにそんなことを言い始めるが、これは説教の前置きだ。スルマンはわざとらしく、コホンと咳払いをする。
「アルベルティーヌ様はクロヴィス様のお顔にはあまり興味がないようですね」
ずばりと口にされて、クロヴィスはカッと頬が熱くなるのを感じた。
アルベルティーヌはダニエルとして側にいたクロヴィスには見向きもしなかった。執事という言葉を信じ、それだけの者として認識していた。
今まで通りの女性たちと同じく、身分や金、顔を見て寄ってきたわけではない。いかつい顔のダニエルを前にして笑顔を見せて話を聞く柔軟さ。本質をしっかり見極めようとダニエルに積極的に話しかけていた。
ダニエルの性格は柔和でも、強面で体格も良いことから、令嬢たちから敬遠されがちだった。それを利用したクロヴィスに対し、アルベルティーヌはクズを連発した。
真っ直ぐな性格なのだろう。堂々とした態度で怒りを見せて、平手打ちどころか足を踏みつけてくる。その隙に外れた手をもう一度振り抜く鼻っぱしの強さだ。
(女性に殴られるのは初めてだったな……)
「可愛らしい方ですね。少しは、前向きになられたのでは?」
「向こうが断るだろう」
「断られないようになさいませ。もうこんなチャンスは来ませんよ」
そうは言っても、アルベルティーヌはこの話をなかったことにするだろう。何ならもう一度右手を振り抜いても良いと思っているはずだ。顔も見たくないだろうと思い彼女の前に姿を現さなかったが、それがなおさら悪いと、アルベルティーヌは激怒していると耳にした。
(ダニエルもコラリーも他の者たちも、代わる代わるアルベルティーヌの様子を伝えにくる)
とにかくすぐに一緒に謝りましょう。だの、また殴られる前にちゃんと謝りに行きましょう。だの。何でも良いから、早く謝りに行くのが良いのでは。だの。
とにかく謝れと次々に部屋にやってきた。しかも皆が同じように、一緒に謝りに行こうとする。
命令をしたのはクロヴィスであるのに、城の者たちは共犯だと名乗り出てくるのだ。
そのせいとは言わないが、意固地になるように部屋に引き籠もっていた。
「いつまでもいじけていては恥ずかしいですよ。クロヴィス様」
「うるさい」
核心をつかれて眉根を上げる。自分で分かっていることを人に指摘されると、無性に恥ずかしい。どうすべきか決めかねていると、大仰な音を立ててダニエルが部屋に入ってきた。
「クロヴィス様、魔獣の群れが現れました!」