海色と白雪のパティスリー
「ようこそ“グラシアス”へ、いらっしゃいませー!」
冬の海辺で行き倒れていた記憶喪失の少年が拾われたのは、小さい店長が経営する、ちょっと貧乏なパティスリー。
お客さんがこないので、お店は先行き不安。
「えっと、みんなでがんばろー!」
「……ふむ。やはり人間関係はむつかしいな」
頑張り屋な店長や、不器用な女の子。
「それって、ひとつ屋根の下ってことっすか?」
「あなたたちのお菓子は、評価してるのよ」
気まぐれ少女に、ライバル店の天才パティシエールまで。
様々な出会いを経て、世界は色づいていく。
「こういうのも、悪くないかもな」
あなたを、ぷにぷにふわふわな気分にさせちゃうような。
あまーいキャンディみたいな、素敵な恋物語をお届けします!
一つだけわかることは、俺がいま死にかけているということだ。
ここが何処かわからない、自分が誰かもわからない。
だが、身を苛む冷たさだけは、文字通り痛いほど伝わってくる。
足もとをさらう水の感覚と、耳朶をうつ潮騒で、かろうじて海辺であることだけは理解できた。
──もっとも、なぜ俺がそんなところにいるのかは、まだわからないが。
真っ暗な空から降る雪が、真っ白に砂浜を覆いつくす。
まるで世界の果てのような情景だ。
それを眺める俺は、もう体を起こすことすらままならない。
ただ伏せるがままに、這うこともできず、終わりを待つのみだ。
「これはマジで死ぬ。ヤバい」
目を覚ましてみれば、記憶もなく、この有様である。
夢だと思いたいし、冗談と信じたいが、残念なことに、近づいてくる死の感覚はあまりにもリアルだ。
吐く息は白い。
諦めが心を塗りつぶさんとしたその時である。
ざくり、ざくりと雪を踏む音。
薄れていたはずの聴覚が、なにものかの来訪を伝える。
視界には映っていないが……。この様で、なりふりなど構ってはいられない。
「そこの誰か、助けてくれ!」
自分でも笑えてきてしまうような、しゃがれた声であったが。
気付いてくれたのだろうか、足音は近づいてくる。
そして──それを聞き届けないまま、意識は闇のなかへと落ちていった。
*
「ん…………?」
まぶたを開くと、木製の天井が目に入った。
布団から体を起こして辺りを見渡してみる。
向いて右側には暖炉があり、いまも熱を発し続けている。
どうやら、俺は近くで寝させられていたようだ。
じんわりと、温かみが伝わってくる。
まだ手足の指先は感覚がないが、この様子だとじきに元に戻るだろう。
そして──左を向いて奥のほうには、中身が空のショーケース。
ふわりと鼻孔をくすぐる甘い香りに、ここがケーキ屋さんであることを直感的に把握する。
洋風に彩られた店内は趣があり、ついつい見回してしまう──と。
「あっ、起きたんだ」
レジ奥の扉がひらき、そこからぱたぱたと駆けてくる人影。
前にエプロンをかけた、小柄な女の子である。
彼女が駆け寄ってくると、明るい茶色の長髪が空中で踊り、スイーツのいい匂いが際立ってふわりと舞った。
「散歩をしてたら、あなたが雪に埋もれてたからびっくりしちゃった」
「あー……。それは迷惑をかけた」
力があるようにも見えないし、俺を運ぶのにも相当苦労しただろう。
「ユウちゃんがいなかったら運べなかったよ」
そんな考えを読みとったのか、彼女が口を開く。
「あっ、ユウちゃんっていうのはうちの店員さんでね。いまは裏のほうで仕込みの続きをしてるの」
「なるほど……」
いつまでも布団から身を起こしただけの体勢でいるのもどうかと思ったので、這いでて立ちあがる。
「おかげで助かった、ありがとう。その店員さんにも伝えてくれるか」
「わかったよ。困ったときはお互いさまだからね。それよりも、体のほうは大丈夫?」
「まだちょっと末端の感覚がないが……。これくらいならすぐに治るだろう」
多少、体をひねってみても特に問題はなさそうである。
「それならよかった。一応病院に行ってから帰ったほうがいいと思うけれども。送っていく?」
「気にするほどでもないと思うが……。あー」
そういえば、大事なことを忘れていた。
不思議そうに、下から瞳を覗きこんでくる彼女に告げる。
「そういえば、俺って記憶がないんだよな……。帰る場所も覚えてないし、どうしたものか」
「えっ、それって大丈夫なの?」
「多分だいじょばないけど、まあなんとかなるだろ」
そんなわけないでしょ、と目をまんまるくする少女。
当事者よりも慌てているので、こちらは逆に落ちついてしまった。
「えっと、名前は?」
「覚えてないな」
「どこから来たかとかは……?」
「それも覚えてないな。気付いたら、あの浜辺で倒れていたし」
加えて言うなら、それより前の記憶は持ち合わせていない。
その応答に、彼女は考えこんでしまった。
「いちおう、一般常識とかは覚えていると思うけど」
「でも、個人情報を覚えていないのはさすがにまずいと思うな」
「だよなー…………」
このまま外にでても、途方に暮れることになるだろう。
腕を組みうんうんと悩んで、やがて少女は俺に言った。
「あなたは、しばらくここの店に住みこみで働きなさい」
「……その提案は渡りに船だけれども、そんなこと勝手に決めていいのか?」
「問題ないよ。だって私はここの店長だし」
驚いて、二の句が継げなかった。
背丈も俺と頭一つくらい違うし、まだ子どもだとばかり思っていたが……。
「むっ、なんか失礼なことを考えてる気がする」
「あーいや、店長にしては若いように見えるなってだけだ」
「むん。こう見えてもう二十歳なんだからね」
いや、それでも店をもつには若すぎる気もするが……。
「…………これでも、毎日牛乳を飲んでるのにぃ」
そんな呟きは聞かなかったことにする。
けっこう気にしてたんだな……。
「ここで働くにしても、俺はケーキ作りについてほとんど知らないぞ?」
「そこはお客様への応対を任せる予定だから大丈夫。これまでにバイトとかってしたことはあるの?」
「いや、それも覚えてないな」
「……あー、そういえば。これは重症だね」
「すまん」
反射的に謝ってしまう。
「とにかく、記憶が戻るまではお願いね」
「ああ、助かるよ。よろしく……すまない、そういえば名前を聞いてなかった」
「私? 佐倉 由希だよ」
「ありがとう。これからよろしくお願いします、佐倉店長」
「そんな気を遣わなくたっていいよ、由希って呼んで」
そう言って彼女──由希は、花ほころぶように微笑む。
いい人に助けてもらえたようで、俺は幸福だな。
ところで……。ふむ、ちょっと暖炉の熱も暖かすぎるように感じてきたな。
ちょっと脱ぐとするか。
「えっと、なにをしているのかな?」
「なにって……。ちょっと暑いと思ったから、服を脱ごうと思ったんだが」
上着に手をかけて、半ばまでまくり上げたところで、怪訝そうな顔をした由希に声をかけられる。
俺はおかしいことをしただろうか?
「暑いなら、言ってくれれば温度調節するのに……。ってこら、また脱ぎはじめるなぁ!」
上着も肌着もまとめて脱ぎ去る。
叫ぶ彼女は両手で顔を覆っているようだが……。目のところだけは空いているな。
「そんなに見られると恥ずかしいんだけれども」
「見てないし! それならどうして脱ぐの?」
「わざわざ調節してもらわなくても、こちらのほうで服を着なければ解決するかと思ったからだ」
俺は変なことは言ってないと思うのだが……。
この様子だと、もしかして一般的には、こういった行動はおかしいものなのだろうか?
「あれ? もしかしていまの俺、変なことしてる?」
「……まぁ、普通は異性の前でいきなり脱ぎだしたりはしないよ」
ため息をつかれてしまった。
仕方ないので、服を着直す。
「これは、本格的に放っておくと大変なことになりそうかな」
珍獣を見るような目はやめてほしい。
ちょっと傷つく。
*
「店長、もうすぐ開店の時間になる」
奥の部屋から現れた女性が、由希に向かって声をかけた。
そして、俺のほうを見てすこし驚いたような顔をする。
「あれだけ衰弱してたのに、もう立ち上がれるのか?」
「まあ、そこは男子だからな」
力こぶを作って、平気であることをアピールする。
「わかったよユウちゃん。それと、今日から彼もここで働くことになったから」
「今日から……って、やっぱり店長は無茶苦茶だな」
ユウちゃんと呼ばれた彼女は、やれやれという風に首をふった。
それに連動して、黒のポニーテールが揺れる。
なんだかんだ驚いていないところを見る限り、由希のことはよくわかっているということなのだろう。
長い付き合いなのかもしれない。
「それなら自己紹介をしておいたほうがいいか。私は柚木 怜だ。君は?」
「あー、彼、記憶がないみたいで」
由希が代わりに説明する。
「そういうことで、ここにお世話になることになったんだ。よろしくお願いします」
「ああ、よろしくね」
怜は手を振って、開店準備を再開する。
「それじゃ、今日はいったん仕事の様子を見ていてね」
「はい、わかりました」
それからちょっとして、店が開き、しばらく経つ──が。
「お客さん……来ませんね……」
「うぐっ」
俺の言葉に、由希が呻く。
「まだクリスマスには早いけれど、そろそろ忙しくなる時期のはずではあるんだけどね……」
「ふーむ……。立地とか広告はどうなのでしょう」
「この店、市街地から離れた海のほうにあるからね。広告も出してはいるんだけれど」
しかし、現実に来店客はない。
「お世話になっているのですし、俺も一緒に頭をひねって集客方法を考えますよ」
「うっ、ごめんね」
「俺が手伝いたいだけですから。それより、お客さんじゃないですか?」
外から聞こえてきた車のブレーキ音。
由希は居住まいを正して、それを迎える。
「ようこそ“グラシアス”へ、いらっしゃいませー!」
まだまだわからないことだらけだけれども、こういうのも悪くないかもしれない。
冬の冷気が囁きかけてくる。
これから、もっと忙しくなっていきそうだ。