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露の箱庭

澄み渡るような十月の朝、冬河鈴音はいい子でいることを諦めた。

学校へ行くことも家に帰ることもできず、あてもないまま辿り着いたのは何もない小さな公園。そこで鈴音は不登校の少年・弥央みおと出会う。

――あの綺麗な空がつくづく嫌になる。価値観が噛み合ったことで二人の関係が始まり、前へ踏み出していく。

少しずつその関係を変えながら。

 駅のホームに向かう人の流れに身を任せ、鈴音はいつも通りに改札を通り抜ける。

 今すぐにでも泣き出したい気持ちを必死に抑えつけ、大丈夫、いつも通り、と心の中で祈るように言い聞かせながら階段を昇る。


 前方には熱心にスマホを操作するサラリーマン、すぐ後ろには違う学校の女子高生数人がたわいのない会話で盛り上がっており、こちらに興味を示す様子は見受けられない。


 ほら大丈夫、私はちゃんとできている。重ねて言い聞かせ、ホームへと上がる。

 それから少し経った辺りでやって来た電車の窓ガラスが、断続的に自身の姿を映し出した。


 着崩すこなく袖を通した濃紺のブレザーと膝丈ではいたグレーのプリーツスカート。

 胸元にある茜色のリボンは曲がることなくきちんと留められ、肩まで伸びた黒髪は癖一つなくしっかりと梳いてある。


 側から見ればどこにでもいる高校生のはず。

 しかし、表情はあまりにも暗く、自覚した途端、周囲から向けられる悪意と嘲笑の入り混じった視線が脳裏を過り、手足の先が氷のように冷え切っていくのを感じた。


 同時に額には脂汗が滲み、ふらりと視界が揺らぎ、細い両足はわなわなと震え出す。

 更に追い討ちをかけるように、胃の奥から吐き気が襲ってきた瞬間、何かがぷつりと途切れた。


 数十秒後、停車していた電車が次の駅へ出発した後も、鈴音はその場に立ち尽くしていた。


 朝露を含んだ冷涼な風が吹くようになり、澄み渡る青と香煙のように薄く広がる白で彩られた十月中旬の空。

 冬河ふゆかわ鈴音すずねが初めて学校をサボったのは、そんな嫌になるくらい清々しい朝のことだった。




 逃げるように駅を出て、家とは反対方向へと歩いていく。


 どこに行くかなんて考えていない。ただ、何にも縛られない場所が欲しかった。

 その思いを一心にしばらく歩き続けてようやく辿り着いたのは、住宅地の狭い路地の中にひっそりと佇む小さな公園だった。


 ――ここでいいや。


 中に人影がないことを確認して鈴音は、固いアスファルトから柔らかな芝生の上へと足を踏み入れる。

 閑散とした空間の中に唯一設置されている木造りの屋根付きベンチに近づくにつれて、ほんの僅かに息が楽になっていく気がした。


 だが、それが一時的なものだというのは、自分自身が痛いほど分かっていた。

 のしかかる現実は何一つして変わっていない。


 勢いでここまで来てしまったけど、これからどうしたらいいんだろう。

 ベンチに腰を下ろした鈴音の頭の中を占めているのは、学校へ行けなかったことへの罪悪感と安堵だ。


 やっぱりあの時、電車に乗って学校へ行くべきだった。

 いやでも、行ったところで待っているのはきっと辛いことだけだ。


 今更ながら過ぎたことに対して思い悩むもすぐに、どうでもいい、という結論に至る。

 これ以上考えていると自己嫌悪に陥りそうだったし、何より思考を放棄したいくらいにぐったりとした倦怠に襲われていた。


「どこで間違えちゃったのかな」


 俯き気味に手すりに寄り掛かり、少しの間、ぼうっと足元に視線を落として、鈴音は小さく呟く。

 今日初めて発した自身の声は、微かに震えて弱々しかった。


 だからなのか、唐突に目頭がつんと熱くなる。

 え、なんで。思わず戸惑ってしまうが、理由は分かっている。


 ただ言葉にしてしまえば、抑えていたはず感情が弾けてしまいそうで。

 なので気づかないよう、他人事みたいに見て見ぬ振りをしていただけだ。


 だけど、それももう限界だ。

 きっと、最初から――。


 堪らず涙が溢れ出しそうになったところで、公園の入り口から吹いてきた涼風がふわりと頬を撫でた。


 少し遅れて芝生を踏む柔らかな足音が耳元に届く。

 足音がした方へ顔を上げれば、毛先から中間にかけて緩いパーマがかかった、目元がやや隠れるくらいまで伸びた黒髪の少年がビニール袋を手に下げて近くに立っていた。


 白のプルパーカーにワインレッドのダウンベストと私服姿ではあるが、鈴音と同い年くらいの少年だ。


 一瞬だけ目が合い、鈴音は咄嗟に顔を伏せる。

 制服姿で誰かと出会ってしまいばつが悪くなったのもそうだが、単純に泣く寸前の表情を見られたことが恥ずかしかった。


 込み上げてくる羞恥心と居た堪れなさに、この場から走り去りたくなる衝動に駆られるが、疲弊しきった両足は言うことを聞いてくれそうにない。

 かといって、見ず知らずの人を突き返してみせるほどの気力も度胸もないので、結局、自分ではどうすることもできないまま数秒の沈黙が過ぎてから、ようやく少年が口を開いた。


「隣、座らせてもらうね」


 柔和な声でかけられた思いがけない言葉に、へ、と間抜けな息が出てしまう。

 もう一度顔を上げてみると、少年は優しげに笑みを浮かべている。


「あ……はい、どうぞ」


 何なんだろう、この人? 本当はいないで欲しいんだけどな。


 そう思いながらも、断るのも馬鹿らしく感じ、項垂れるように首を縦に振る。

 でも、不思議と心の底から嫌なわけでもない。相反する気持ちに内心、首を傾げる。


 もし理由があるとしたら、この人も学校に行ってないからかな。

 自分以外に同じような人がいたことで、心のどこかで安心したのかもしれない。


 なんて結論づける傍らで「ありがとう」少年はベンチの反対端に座ると、ビニール袋からサンドイッチを取り出し、包装を剥がし始めた。

 ここで朝ご飯食べるんだ、と少年を横目に鈴音は、視線を入り口の方へと逸らす。


 しばしの無言が流れる。柔らかな陽射しと穏やかなそよ風を肌で感じながら、頭上を見上げてみる。

 青のキャンバスに所々薄く白が彩色された空は相変わらず綺麗で、なんだか責め立てられているような気分になる。


 あの空を見て苦しくなるのは自分だけなのだろうか。

 今の天気が土砂降りの雨だったら、この気持ちはいくらかマシになっていたのか。


 天気良いね、と少年が話しかけきたのは、そんな風に自問を投げかけていた時だった。

 突然だったもので驚きのあまり、ひゃっ、と変に声が裏返りそうになる。


「ああ、ごめん! 急に話しかけちゃって。迷惑だったよね」

「いえ、お気になさらず。確かにとても良い天気ですね」


 少年の方に顔を向けると、既に手にしていたサンドイッチは無くなっている。


「だよね。おまけに気温は涼しくて、風も気持ちいい。まさに最高の朝って感じ」

「そう、ですね」鈴音は空笑いで相槌を打つ。


 そうだ、普通はそう思うはずなのだ。

 異端なのは私の方で、こんなだからここにいるのだろう。


「でもさ。今から変なこと言うんだけど。だからこそ俺は、」


 少年はここで言葉を区切った。

 ……え、小さく息が漏れる。


「――この綺麗な空がつくづく嫌になる」


 なぜ見ず知らずの少年に嫌悪感を抱かなかったのか、その理由をやっと理解した。

 そっか……あなたもなんだ。少年の言葉になんだか救われたように感じて、今度こそ息が軽くなる。


「あはは……おかしいでしょ?」


 苦笑混じりに言う少年に対して、鈴音は全力で首を横に振る。

 肯定なんてできるわけがない。だって、私もあなたと同じだから。


「ううん、おかしくないです。少しもおかしくなんてない」


 鈴音が少年を真っ直ぐ見据えてそう言うと、少年は少しだけ目を丸くした後、フッと笑みをこぼして、ありがとう、と二度目の感謝を口にした。

 それからベンチから立ち上がり、入り口へと歩き始める。


「じゃあ、また会うことがあれば」


 そして、最後に背中で言い残して、少年は狭い道路へと抜けていった。


 彼の後ろ姿を見送りながら鈴音は、近いうちにまた会うことになると、なんとなく予感する。

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