海辺の村
「どこに行くんだ」
「いつものとこ」
ああ、と納得したのか、同僚の小川は手を振って私を見送った。
味気ない白い施設を出ると、悠々とした植物達が生い茂っている。そこをいつも通り跳ねるようにして進む。
急に視界が拓ける。ここは崖になっているのだ。
苔むした白い人工物、瓦屋根を踏み台にしながら、下へ軽やかに下りていく。小川にお前は猫みたいだな、と言われたことがある。自分でもそう思う。
下に着くと、漁村がある。かなり小規模な村で、村人の数は三十にも満たなかったと思う。
こじんまりとした家々の中から一番大きい家に入る。
中の廊下には少女がいる。名前は知らない。私も自分の名前を教えていない。
少女は私を見ると、顔を綻ばせた。
薄いドアの向こうにある居間からは、いつものように複数の大人の怒鳴り声が聞こえる。特に若い女性のヒステリックな声が耳に突き刺さってきた。
「行こうか」
少女にそう言うと、彼女は頷いて私に走り寄った。
ウッドデッキに出ると、御世辞にも綺麗とはいえない、濁った色の海が眼前に広がる。
他愛無いお喋りを延々としていると、足に水が触れた。
下を見ると、ウッドデッキが海水に浸っていた。
何となく嫌な予感がして、視線を上げる。
波が大きな塊を作り始めているのが視界に入った。
これはいけない。
少女が波に足を取られて、流されそうになる。
慌てて少女の手を掴んだ。そのとき、彼女はずいぶんと嬉しそうな顔をした。
「ここは危ないから、高いところへ行こう」
ああ、そうだ、あのいつも喧嘩している大人達にも声をかけないと。
急いで家の中に駆け込むと、無人だった。おかしい。確かにさっきまでいたのに。言い知れない感覚に襲われる。
「行かないの?」
少女は突然いなくなったことに驚いていないようだ。というか、無関心のように見える。
「………そうだね」
少女に頷いて家から出る。
漁村がひどく古びて見えた。
施設についた。
もう避難済みかと思ったら、出て来たときと変わらず、小川がパソコンをいじっている。
「津波が来るかもしれない」
「本当?」
小川は驚いた様子で、パソコンの隣に置いてあるスマホをいじり出す。彼は三十秒とたたずに顔をあげた。呆れた顔をしている。
「津波なんてないよ。全く、お前が嘘をつくなんて稀だから騙された」
まさか。そう言いたかったが、確かに津波は来ない気がしてきた。
「あのね、私サヤって言うの」
脈絡なく、少女が言う。
「そうなの。私は真矢よ」
私も名前を明かす。
ふと、少女が死んだ幼い妹と重なった。