ツバメは麦畑へゆく③
―――――ニナの母は偉大だった。
今となってはどんなに辛かっただろうか想像をすることすらも出来ない。
だけどその時彼女は涙を見せず悲痛な叫びもあげず、ただニナに彼の笑顔の後を見せないよう盾となって壁となって真摯にギュッと抱き抱えていた。
一方私は、私の中ではピタッと時間が止まったみたいにその場から動くことが出来なかった。
目の前の積み重なったレンガの瓦礫をただただ見ることしか出来なかった。
「どうだあ!俺様の新しい魔法『砕』は?」
声につられゆっくりと顔を上げる。
頭上で両手を天に突き上げ、声高に叫びガッツポーズをとっている見たことの無い服装をした男がいた。
…あれが魔の国の兵士か。
「無機物にしかぁ書けねえし効かねぇが、それでも威力はお手のものだろぉ!?」
ローブのような紺の布でできた服装をした男が火の明かりに照らされ、その邪悪で不細工な表情を露にする。
…どうしてあんな顔が出来るのだろう。
「ツバメ、ニナ、走るわよ」
強い力でぐいっと後ろへ引っ張られる。
男の声に聞く耳をもたず、私とニナを力任せに瓦礫から遠ざけるニナ母さんには一切の余裕が無いように思えた。
「走りなさい」
ただ一言、言ったニナ母の目尻には光るものがあった。
だけどその目は震える私の全てを見透かすように、ただただまっすぐ私を捉え離さない。
「……!……ッ!」
私はバカだ。ここで足を止めたら本当に全部失う。
何が高校三年生だからだ。何が実感が無いだ。被害者ぶっんじゃねえ。ふざけるな私。
ニナ父さんは私とニナを守るために瓦礫の下敷きになった。
彼の死はもうどうしようも出来ない。
―――じゃあどうする。走るしかないだろ。
守ってくれたニナ父さんの思いを無駄にするな。
走れ。走れ。走れ。
「…はい」
私はうなずき、横のニナを抱えて立ち上がり、麦畑へ走り出すため瓦礫に背を向ける。
スタミナも走力もニナ母さんよりはあるから私がニナを抱っこして走った方がいい。
「さあ行きま…」
そう言ってニナ母さんを振り返ると、彼女は立ち上がっていなかった。
ニナ母さんは座ったまま私達を真っ直ぐに見つめ続ける。
だけど決して立ち上がることをしない。
違う、これはきっと……もう…
気づけば視界が滲んでいた。
「いいツバメちゃん、よく聞いてね?。」
そんな私を制するように、優しく力強い声色で私の名前を呼ぶ。
「…はい」
「魔法は紋章と呼ばれるものを書いて初めて発動されるもの。だから次発動するならまたその紋章を書かなければいけないの。」
息を切らしながら早口でも、ニナ母はしっかりとした口調で話す。
「だからそれまで、時間があるから…その隙に逃げるってことですよか?」
私が訊ねると、ニナ母も頷く。
先の醜男をみれば、奴は地面にまるで小学生の子供がコンクリートに軽石で落書きをしているかの如く、何かを書いているのが分かる。
それが書き終わるまでに私達…私はニナを連れてこの場を離れなきゃいけない。
「ええ…魔の国の狙いがこの街の占領だとしたら、麦畑より先に行けばきっと大丈夫なはず…」
だから…と彼女は先ほどの微笑みで私と私の腕に抱かれてるニナを優しく見つめる。
「まっすぐ、ただまっすぐ走りなさい。どうか…この子をよろしくね?」
そういってニナ母は私の背中をトンッと優しく前へ押しーーそしてその場に眠り込むようにして倒れた。
「おかーさん?何で行かないの?おかーさん!?」
ニナが驚いて悲痛な泣き声をあげる。
私は理解した。
彼女の足に、背に、瓦礫の破片が突き刺さっていたことを。
もう動ける体ではないことを。
そしてそれを荷物で隠しニナに必死に隠し通したことも。
「おかーさん!おかーさん!!」
「ニナ」
母は今まで見たことない慈愛に満ちた表情でニナを見る。
「ずっと大好き……私達の…素敵な天使…」
最後にそう言い残し、ゆっくりと瞼を閉じてその場から眠ったように動かなくなった。
「おかああさんん!!おかああああああああああさん!!!!!!」
腕の中で狂うようにニナはもがく。
ダメ。ここで下ろしては絶対にダメ。
あの目は覚悟を決めた母親の目だ。
そんなことへたれな私でも分かる。
叫び愛する母の元へ行こうとするニナを半ば強引に押し留めて全力で走りだす。
今は逃げること以外何も考えるな。
死を悼むのも嘆くのも悲しむのも、己を責めるのも嫌悪するのも、全部生きてから死にたくなるほどすればいい。
走れ。走れ。走れ。
私達は彼の、彼女の屍を越えてニナと共に生きて麦畑の先へゆく。
それが何も出来ない私に託された使命である。
―――私は走り出す、いつかの金色の世界へ向かって。