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八話

 弟の命日、暗い家を出、月明かりの下、少年は犬を連れて川原に降りた。少し前には橋にまで溢れかけていた水は、今はいつもと同じく、静かに流れ続けている。

 美しい川のせせらぎ。しかし、そこに溜まる湿りに、少年は静かに息をついた。心臓の鼓動が僅かに早くなる。だが、それも仕方がないのかもしれない。これから、自分の全てを流してしまうのだから、緊張があっても仕様のないことだと思った。

「ごめんな、シロ」

 傍にいる、賢く優しい、勇敢な一匹の頭を撫でた。

「折角助けてくれたのに」

 幼さの垣間見える声は、少し濡れていた。

 少年は一歩足を踏み出し、冷たい水に、サンダルを履いた足を埋める。指の間を、さらさらと川の水が流れるのを見、白犬を振り返った。犬は尾をすっかり垂れ、寂しくしょげているようにも彼には見えた。くんくんと鳴いているのに、少年の決心は揺らぎそうになる。

 それを振り払うようにかぶりをふり、彼は小さく笑った。

「父さんと母さん、たのんだよ」

 自分の死は、弟の死にはきっとかなわないが、彼らが一滴でも涙をこぼしてくれたら、と思う。これ以上両親に苦しい思いはさせたくないが、弟は待ち続けているのだ。待つことをやめ、迎えに来ている。まだ幼いあの子には、誰かがついてやらなければ、心細くてたまらないに違いない。だから、慰めるのだ。だって自分は、お兄ちゃんなのだから。

「ありがとうな」

 そして、さよならと声に出さず小さく口を動かし、彼は正面へ視線を戻した。深く暗い緑の淵。あそこを目指せばいいだけだ。いや、たどり着かなくとも、引っ張ってくれるだろう。

 膝まで水に浸かった。冷たい。指先がじんと痺れ、泳ぐにはまだ早い季節を感じさせる。

 川の力は、川辺から離れる毎に少しずつ強くなり、足半分といえども、バランスを崩せばあっさり倒されるような勢いを持っていた。

 静かな音とともに、彼はもう一歩踏み出した。後ろから、犬が吠えるのが聞こえる。鼓動が早い。喘ぐように息を吸う。もう戻れ、危ないぞと叫ぶのが聞こえる度に、悲しくて仕方がなく、ともすれば涙が溢れそうになってしまう。

 死にたいわけがない。溺れて死ぬのは、とても苦しいと聞く。

 だが、もう先送りには出来ないのだ。あの子は、これを超えていった。息ができない、死んでしまう苦しみを、あの幼さで知ってしまったのだ。自分も、我慢のひとつぐらいしなければならない。

 犬が激しく吠える中、水中で自分の足首を掴む手がある。

 必死で涙をこらえ、呻きながら、彼は雫がこぼれないよう天を仰いだ。強く、強く痣ができるほど、爪の長い手が、足を掴んでいる。

 深みへ、見えざる力が彼を引きずり込んでいく。


 ――おにいちゃん!


 腰にしがみつく手の感触があった。後方に、彼の体は倒れる。

 それよりも、確かに聞こえた懐かしい声。あどけなく可愛らしく、恥ずかしがりやなあの子の声。ともの声。

 犬がざぶざぶと音を立てて傍へ駆けてくる。口に入った水を吐き、咳き込みながら、彼は腰を落としたまま、目の前に立つ影を見上げた。

 あの子じゃない。

 確信した。

 影はしっかりと人の形をとっていた。だがそれは、彼が知る弟のものではなかった。髪は長く、纏う空気は禍々しい、弟とは似ても似つかない姿だった。倒れる刹那に見えた、自分の足首を掴む指の爪は、真っ赤に塗られていた。

 影が倒れてくる。

 犬が吠えるのにはっと息を飲み、彼は転げるようにその場を離れた。ばしゃんと音を立て、影が川の水を跳ね上げる。

 浅瀬に転がり、足を川に突っ込んだまま、少年は掠れた声を、再びゆっくりと水中から立ち上がる影に向けた。

「ともじゃ、ない……」

 途端、ぐいと片足を引っ張られる。ものすごい力だ。石に脇腹が擦れ激しく痛んだが、彼は必死で足を引き返した。だが、足を握る力には容赦がなく、無理矢理にでも彼を水の中へ引きずり込もうとする。右足首を握る手を左足で蹴ろうとするが、ぴくりともその手はひるまない。

「がはっ」

 水を飲み、なんとか吐き出し、ずぶ濡れになりながら彼は両手で体を引き上げ、懸命に黒い力に抗った。


 死にたくない。

 本当は、死にたくなんてない。

 生きていたい。


 ずるりと体が滑る。頭が水の中に埋もれる。足を引かれる。夢中で川底の石を握り、体を引き、暴れながら息を吸うが、とうとう腕を立てても顔は水中から出なくなってしまった。

 犬の吠えるのが聞こえる。勇敢な犬は、今も勇ましく、自分を助けようと水に飛び込んでくれる。どうか、どうかあの犬は、溺れさせないで。

 緑の濃くなった水の中で目があった。長い髪を水中で黒々と漂わせる、その中心には真っ白な肌の女の顔がある。にたにたと笑っている。水中を這うような女は、自分の右足を両手ではっきりと握っている。

 なんとか頭上の水をかこうと両手を伸ばすが、指先がちらりと空気に触れるだけ。ぐいと足を引かれた拍子に、がぼと水を飲んでしまう。

 もう、駄目だ。

 死にたくなんて、ないのに。

 生きていたかったのに。

 絶望と孤独が、薄れる意識の中、心を満たしていく。


 ――そばにいるからね。


 ばしゃんと水が弾けた。

 するりと、手から足首が抜ける。ぐっと、女と反対側へ体が引かれる。誰かが服を引っ張っている。浮かんだ身体の腹を、泳ぐ犬が懸命に押している。

 なんとか岸辺に這い上がり、飲んでしまった水を必死に吐いた。頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れになり、むせ返る少年の横には、勇敢な犬が一匹、ぴったりとくっついて、川に向かって牙をむいていた。

 全身から水を垂らしながら、なんとか振り返る彼には、恨めしげに、いや、もはや憎々しい目で、川から半身を出している女が睨んでいるのが見えた。

 それも、数度瞬きをすると、霧のように消えてしまった。途端、白犬がぴくりと耳を動かし、尻尾を嬉しそうに振り出した。よろめきながら立ち上がった少年に体をこすりつけ、遠慮がちに、しかし楽しそうに服の裾を咥える。

 彼がついていく様子を見せると、犬は飛ぶように、川原を上り、橋の正面へ駆けた。

 続いて橋の脇を通り、繁る木の葉を払いながら、彼はその方へ顔を向けた。

 弟がいる。

 白犬と、楽しそうに跳ね回っている。

 明るい日差しの下で、半袖シャツと半ズボン姿の、あの日の弟が、嬉しそうに駆け回っている。四年前まで、毎日見ていた光景。自分と共にあった、楽しくて堪らない、大事な日常の風景がそこにあった。

 震えそうな足で、彼は一歩ずつそちらへ歩む。一歩。また一歩。弟と白犬は、子犬同士のようにじゃれあっている。ただそこに、音はない。はしゃぐ声も、野山の鳥の声も、川のせせらぎも聞こえない。

 駆け出そうと力を入れて足を踏み出した途端、それら全ては消えた。昼は夜になり、さらさらと流れる川の音が鼓膜を優しく叩き、白犬は彼を見つけ、嬉しそうに尻尾を振っている。まるで、弟のスケッチブックを見つけた時のように。

「今の……」

 幻だと思うには、全てがあまりにも鮮やかだった。そのことに、少年が呆然と立ち尽くしていると、懐かしい声がした。


 ――おにいちゃん!


 後ろからぎゅっと抱きつく小さな体。振り向かなくてもわかる。弟が傍にいる。嬉しそうな笑顔で、いつものように、少し照れたふうに。


 ――だいすきだよ!


 その声に、心が緩んだ。

 胸を熱い塊が昇ってくる。駄目だ、弟が、ともが悲しむと、それを喉元で必死でこらえる。


 ――ぼく、ずっといっしょにいるからね。


 少し熱い、弟の体温。小さな手のひらの感触。そうだ、ともの手は、こんなに小さかったのだ。

「ごめん、とも……本当に、にいちゃんが……」

 喉が焼けるようで、焼け付いて焦げ付きてしまいそうで、声がうまく出ない。

 柔らかな感触が、教えてくれた。腰に抱きついている弟は、首を横に振っていた。


 ――おにいちゃん、だいすき!


 ぎゅっと強く抱きつき、弟が後ろから前へかけていくのが見えた。小さな後ろ姿。家の方へ駆けていく。ぱたぱたと軽い足音。そうだ、ともは、あんなに軽くて小さい。廊下を軋ませることすらできない。

 全てに気がついた。弟は、懸命に自分を守ろうとしていたのだ。

 くるりと振り向いたともは、屈託のない、あの日の記憶と同じ顔で、笑っていた。

 もう、堪えることなどできず、少年は喉を焼く熱さに身を任せた。昇る熱は涙となって転がった。膝をつくと、やってきた白犬が、体をこすりつけてくる。

「ありがとう……」

 縋るように、彼はその犬を抱きしめた。後から後から、涙はぼろぼろと溢れてくる。

 弟は、自分を恨んでも、憎んでもいなかった。ずっといっしょにいると言ってくれた。許してくれた。大嫌いな自分を、生き残ってしまった兄を、だいすきだと言って、笑ってくれた。あの影から、ずっと自分を守ってくれていた。

 許す者などいないはずだった想いを、優しい弟は許してくれた。何よりも、誰よりも、弟は無邪気で素直で、優しかった。

 少年は、泣き続けた。

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