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七話

 夜も眠れなくなった。彼は一人、誰も帰ってこない部屋で、足音に震えた。いや、両親は帰ってくる。しかし、そんな真夜中に、疲れた彼らを頼っても仕方がない、だれかの気配なんて話をしても、怪訝な顔をされるだけだ。そして朝にはまた、ひとりぼっちに戻ってしまう。

 明日には、弟の命日となる日、母親が買ってきたカステラを、彼は切り分けていた。弟が好きだった。弟は、切り分けられたひと切れのカステラを、いつも大事そうに、少しずつ食べて、嬉しそうに笑っていた。

 そんなことを思い出しながら、必要な分だけを切ってしまい、食べてもいいと言われたあまったぶんを少しだけ、彼は飼い犬にあげた。犬はぱくりと食べると、満足そうに尻尾を振った。

 寂しさと怖さを紛らわせるため、彼は足を拭いた犬をよく家に上げるようになった。白犬は、とても賢く言うことを聞き、爪で畳をかいたり、机をかじったりなどしない。飼い主である少年の傍らにくっつき、いつも機嫌よさげにしていた。

 反対に、疲れた顔の少年は、やけに尻尾を振る犬を少し不思議に思いながら、その視線の先にある押し入れに目をやった。犬は、まるで家族の誰かがいるように、嬉しそうにしている。鼻を鳴らして、甘えた声を出している。

 押し入れを開けてやると、犬は中のダンボールを鼻先でつついた。何かにおいのするものでも入っているのかと、少年は手を突っ込み、一冊のスケッチブックを見つけた。埃まみれのそれは、この四年間見つけられなかった、弟のものだった。

「どうしてわかったんだ」

 手形のつく表紙を眺め、少年が問いかけたが、犬はまるでそこに弟がいるように目を輝かせ、嬉しそうにしている。

「……あいつ、いるのか」

 この犬には見えているのかもしれない、と少年は思った。犬の瞳には、弟は恨みを持つ者として映らないのだろう。当然だ、この犬は何もしていないのだから、怖いはずがないのだ。

 スケッチブックを開くと、一ページ目には、弟が自身の名前を練習した跡があった。「友」の文字が入っている弟の名は、多くの人を愛して愛されるようにと、両親がつけたものだった。


 ともだち、ひゃくにんできたら、いいな。


 そう言って、羨ましげに兄のランドセルを背負ってみながら、弟は照れたように言っていた。小学校に入ったら、たくさん友達を作りたいと、笑っていた。そんな子は、まだランドセルが歩いているように見えるぐらい、小さかった。

 ページを捲ると、クレヨンや鉛筆で、色々な絵や日記が描かれていた。その殆どが、家族と遊んだ思い出を描いたものだった。

 兄とかくれんぼをしたこと。飼い犬と追いかけっこをしたこと。両親に遠くへ遊びに連れて行ってもらったこと。あどけない想いが、紙の一面に広がっている。


 うみにいくの、たのしみです。


 まだ海を見たことがなかった、最後の日に、弟は水色と青色のクレヨンで、そんな事をかいていた。

 その後ろのページは、全て真っ白だ。

 胸が苦しくなった。

「とも……」

 弟を呼び、少年は何度もスケッチブックのページをを見返した。大人しくて優しい、はにかんだ笑顔が頭に浮かぶ。どこを繰っても、弟がどれだけ家族が好きだったかがよく分かる。明るい絵が、惜しみない幸せを語っている。誰もが屈託なく笑う世界、それが弟が見ていた全てだった。

 なのに、弟はもう、白のページを埋めることはできない。

 その寂しさに、少年はスケッチブックを抱きしめた。誰も、弟の代わりにはなれない、ともの代わりに続きを埋めることなど、できやしない。

 聞き慣れた音がする。

 ぎい。

 板が軋む。

 少年は畳に膝をついたまま、動かない。

 ぎい……ぎい……。

 傍で犬が唸り声を上げる。少年は、弟の軌跡を抱いたまま、目を閉じた。奪って少しでも楽になれるのなら、弟の魂が救われるのなら、それでいいと思った。もう、恐怖はなかった。むしろ、そうしてほしいと、音を待っていた。

 足音が、確実に近づいて来る。一歩、一歩と、廊下を歩いてくる。ぴちゃぴちゃと、水を踏む音がする。

 わんわんわんと、犬が激しく吠えた。

「シロ」

 傍らの犬を見、彼は笑った。

「もういいよ」

 牙を剥きだした犬の背を、そっと撫でる。

「もう、いいんだ……」

 弟は、幸せだった。この家で、自分たちと暮らして、こんなに幸福だったのだ。それを知ることができてよかった。この足音は、生きている時間を精一杯生きた、幸せだった、誰もが笑顔だった、そんな世界に包まれていた。それを取り戻したいと願うのは、当然なのだろう。

 もう、すぐ後ろに足音が。

 犬が大きく吠えた。かたん、と小さな音がした。

 ぱたぱたと駆ける、細い足音が聞こえた。よく覚えがある、弟の足音だ。

 何か心に引っかかるものを感じながら、少年はやっと顔を上げた。今もまだ、自分は連れて行かれなかったことを知った。もっと追い詰めるつもりなのだろうか。それなら、それでいいとも思った。ただ、家の中で死ねば、両親はこの家に、もう二度と帰ってこないような気がし、それは寂しいなと、ぽつりと思った。

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