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五話

 しばらく顔を合わせなかったことを、会社帰りらしい男は、やけに心配した。

 ただ雨に濡れてしまい、風邪をひいただけと、彼は言葉少なに告げて、いつも通り握った小石を投げた。家族でも友人でもないその男は、やたらと安堵していた。

 いつもと変わりなどない。両親は今日も、朝早く出て行った。夜中まで帰ってこないだろう。

 まだ調子は戻らない。三回跳ねて、小石は水中に消えた。

「どうして、きみは水切りをしているんだい」

 男が言う。

 その声を、鬱陶しくは思わない。

 いつもの気分になれない。どうでもいいだろと、思えない。いや、どうでもいいと思っているのに、無視をする強さがない。反抗するのにも、力がいるのだ。今の彼は、そんな力を持っていなかった。

「……おとうとが、好きだった」

 呟いてしまった。

 弟という言葉を口にしたのは、彼にとって随分久しいことだった。心はいつも、そのことに向き合っているはずなのに、こうして声にするのは、最後がいつだったかさえ思い出せない。

 弟は、水切りが好きだった。自分はろくに石なんて投げられないくせに、誰かがそれをするのを見ると、すごいと言って、喜んでいた。いつも機嫌が良くなった。笑っていた。

「きみには、弟がいるんだ」

 当然の言葉に、彼は振り返りもせず、右手の中で小石を弄ぶ。心の波がさざめく。揺らぐ。傾いでしまう。

「いた」

 水に沈む石のように、僅かな言葉が沈んだ。

「四年前、溺れて死んだ」

 音を立てずに息を吸い、振りかぶって小石を投げた。水を切るのではなく、波紋を作るために、ただ投げた。

 手が空になり、彼はどうにもできず、緩慢に背後の土手を振り返る。そこにいる男の顔が困ってなどいなかったから、口を開くことができた。



 五月の海は、泳ぐには早かった。

 初めて見る海に、幼い弟は目を丸くしていた。海には入ってはいけないと念を押されていたし、聞き分けの良い子だったから、入ろうとは決してしなかった。それに、泳がずとも、楽しそうにはしゃいでいた。

 弟は、大人しく、優しい子だった。まだ六歳だったにも関わらず、大人の言うことをきちんと聞く、家族が大好きな、可愛らしい子だった。少し臆病で、三つ年上の兄に、いつもくっついて遊ぶ子だった。

 海に来ても、弟は自分の服の裾を掴んで、慣れるまでついてまわっていたのを覚えている。一緒に砂浜で貝殻を拾った。拾った小石を海に投げ、水を切って見せると、すごいすごいと飛び跳ねて笑っていた。小さなカニを追いかけ、フナムシの大群に驚いていた。

 引き潮の時分だった。あちこちにある岩のくぼみの中で、小魚が泳ぎ、貝がゆっくりと動いているのを見ながら、二人で探検をした。両親は、海岸で知り合いと話をしていて、白い賢い犬はその傍に控えていた。

 潮だまりを覗き回り、岩の上を伝い歩きながら、少し冒険しようと、弟の手を引いて、岩場の先へ向かった。弟ははしゃぎながらも、少し恐々とついてきた。

 いつも弟はついてきた。手を引くのは自分だった。無茶を言うのは、兄である自分だった。弟は、怖気づいても、手を繋いでいれば笑っていた。色んな遊びを二人で考え、二人で遊んだ。山に囲まれた静かな家の周りを、いつもいつも、二人で遊び回っていた。古い家には、軽い足音が駆けまわっていた。

 そんな、いつもと何も変わらないことだった。弟の手を引いて、左右を海に囲まれた狭い岩場を辿った。

「おにいちゃん」

 弟の声に振り返って気が付いた。砂浜にいる両親が随分と小さく見え、いつの間にか、随分と遠くまで来てしまったことを知った。

「うみ、おさかながいるよ」

 指をさす方向を見ると、澄んだ青色の向こうに、小さな銀色がちらちらと光って見える。

「ほんとだ」

 足を止めると、弟は隣でこちらを見上げて笑う。

「いっぱいいるね」

 大好きな、楽しい時間。

 楽しくて嬉しくて、いつまででも、覚えている時間。

 それは唐突に途絶えた。楽しい時間は、永遠に手に出来なくなった。

 一際高い波が、岩場を横切った。

 波に押され、軽い二つの身体は、海へ放り出された。

 上も下もわからなくなり、必死に両手で水を掻き、ぶくぶくと聞こえる泡を壊し、死にもの狂いで海面を目指した。

 人が豆粒ほどに小さく見える海岸から、白い犬が駆けてくるのが辛うじて見えた。

 恐ろしく強い力は、あっという間に自分を沖へ引っ張る。細い腕の懸命の抵抗など、露とも感じない自然が、襲い掛かった。岩場はすぐに遠くなり、海水が口に、鼻に入り込み、息が出来なくなる。絶対的な恐怖にもがけばもがくほど、身体は沈んでいく。

 ぐん、と波が立つたびに流される。助けて。足がつかない。苦しい。息が出来ない。

「にいちゃ……!」

 苦しげな弟の声がした。

 声の方に手を伸ばすと、弟が縋りついてきた。途端に、深く身体が沈む。水面が遠くなる。小さな手を握りしめる。波がくる。引きずられる。沖へ、沖へ流される。

 死ぬ。このまま、溺れて死んでしまう。

 恐怖に頭がいっぱいになった。なんとか弟を引っ張って上がろうとしても、波にもまれる身体は、まるでボールの様にあしらわれてしまう。平衡感覚が滅茶苦茶になる。どの方向に水面があるのか分からない。苦しい。くるしい。いきが、できない。

 腕に絡みつく弟の指。その力は、あまりに小さすぎた。

 再び波に引かれた時、するりと、指は解けていった。

 指先に、柔らかな、弟の髪の感触。

 それが、消えていく。

 だれか、助けて。助けて。どうか、弟を。

 水をたくさん飲んだ。酸素を求める口に、海水が容赦なく押し入ってくる。

 もう、だめだ

 遠くなる。光が、遠くなる。暗闇が、近づいてくる。

 勇気ある一匹が、大きく吠えながら勇敢に海に飛び込み、掴まらせてくれた。大人が助けに来てくれた時には、意識は失ってしまった。



「……弟は、そのまま流された」

 そこから何キロも離れた洞窟で、幼い弟の身体は見つかった。

 どれだけ苦しかっただろう。恐かっただろう。だって、死んでしまったのだ、死ぬような恐怖を、弟は、あの臆病な子は味わったのだ。まだ両親も兄弟も感じたことのない絶望を、数年しか生きていない弟は、最期に見てしまったのだ。

「……本当に、仲が良かったんだね」

 男の言葉に、一人語りを終えた少年は、答えなかった。土手に座り込んだまま、過去のものとなった弟の最期を、話し終えた。

 あれから、体のどこかに、大きな穴が開いてしまった。から風が吹き込む度に、細い音がする。両親が帰ってこない夜、一人きりで過ごす時間、風は穴を通っていく。

 今だって、そう。あの子のことを思い出してしまえば。

「きみも、辛かったろうに」

 男が言った。

「そんなこと……」

 同情を締め出すように、少年は一言告げようとし、歯切れ悪く口を閉じた。辛くないわけがないだろう、たった一人の弟だったんだ、と、心の奥で囁く声がする。通っていく風が、そんなことを言う。

「死ぬのは、おれだったんだ」

 今度ははっきりと口にした。

「あいつは、まだ六歳だった。小学校にも行ってなかった。おれよりずっと、いいやつだった」

 小さくかぶりを振る。

「でも、優しい子だったんだろう」

 男の言葉を、今日初めて鬱陶しいと感じた。しつこい。今さら、何を言い出すんだ。

「きみが苦しむのを、その子は望んでいないと思うよ」

「苦しくなんてない!」

 思わず声を荒げていた。吹き込むから風を忘れてしまうほど、心の奥で静かに何かが燃えていた。限りなく怒りに近いそれは、しかし悲しみという感情から生まれていた。それを少年が、認めないまま。

 男が驚いていないことに、やけに腹が立つ。腹が立つ自分が嫌になる。人に当たる自分が汚くて、嫌いで、大嫌いで、生き残るのは弟だったんだという気持ちが募る。

 あれから、両親が心をなくすのを、ただ見ているだけだった。修復する知恵もないまま、自分の悲しみで精いっぱいになっている間に、家族はばらばらになってしまった。弟が大好きだった家族が壊れるのを、近くに居ながら自分は何もしなかった。自分は、弟を死なせてしまった。あの時、強引に誘わなければ、手を引かなければ、弟は死なずに済んだのだ。きっかけを作ったのは、まぎれもない自分自身だった。

「おれのせいなんだ! おれが死なせたんだ!」

 手に爪を食い込ませ、彼は叫んだ。

「おれのせいで死んだんだ!」

 そう、彼は弟殺しの張本人。それを痛いほど自覚しているから、楽しい想いなど二度としてはいけないと思ってしまった。離れる怖さを知ってしまった。絶望と向かい合う必要性を感じてしまった。

 だから彼は、ひとりぼっち。何もできないまま、そこにある自分を嫌い続けて、生きてきた。

「あいつが、生きてたら……」

 声は、小さく収束する。

「生き残ってたら……」

 きっと弟は、もっと上手な方法を見つけただろう。弟の優しさなら、両親を救うことも出来ただろう。

 だから弟は、自分を叱る。生きたかったと訴える。倒れる位牌、廊下に溜まる水が、何よりの証拠。

「……もう、おれは、いらないのに」

 少年がぽつりと呟いた言葉は、鉛の様に沈んでいった。




 何度も川に入った。あの時の波を求めて、少年は犬の散歩と称して、自分を押し流す力を探しに出て行った。止める人など、心を失くした家のどこを探しても見つからない。

 ただ、一匹の賢い家族だけが、止めてくれる。心配そうな、不安げな目で見つめ、力強い声で、引き返せと言ってくれる。

「シロ……」

 疲れた顔で帰った少年を、白犬はいつも嬉しそうに迎えてくれる。

「ごめんな……」

 制服のまま地面に膝をつくと、犬は胸に鼻を押し付けて、甘えた声でくんくんと鳴く。ぱたぱたと機嫌よく尻尾を振る大事な家族を、少年は抱きしめた。

「もう、どこにもいけないよ……」

 今日も、両親は帰ってきていない。

 涙のない泣き声を、彼はその家族だけに、訴える。

 誰もいない家に、今もいる。暗い、黒い影が、命を求めて這い回っている。生に貪欲なそれは、何故殺したと囁く。どうして、助けなかったと、死にたくなかったと呻いている。

「こわいんだよ……」

 少年が零した弱音を、白犬は鳴きながら頬ごとぺろりと舐めた。泣き笑いのような顔で、少年は家族の頭を撫でた。


 玄関は、覚えのない水で濡れていた。

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