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四話

 そうして、見えない弟が立てる足音に怯え、息を潜めるようになって、半年が経つ。位牌が倒れ、廊下が水に濡れる。

 弟を失った少年は、春に中学校に入ったが、放課後は以前と同じく、ひとり河原で水切りをする。街を東西に切り裂く大きな川の向こう岸をめがけて、一人石を投げ続ける。

 家に帰りたいとは思わない。しかし、帰らないわけにはいかない。あの犬だっている、ひとりは寂しい。遅くに帰ってくる両親だって、きっと、誰もいなかったら寂しい。

 何より、彼はまだ一人では生きていけない、帰らざるを得ない、帰れるのは、ありがたく思わなければならない。帰りたくとも、もう帰れない誰かがいるのだ。それを彼は十二分に分かっていたが、気持ちが重くなるのは仕方のないことだった。少しでも長い時間、木々に囲まれていない、開けた空の下にいたいと願ってしまうのは、不思議なことではなかった。

 それに、怖かった。次第次第に近づいてくる、弟の影が。あの床板が軋む音は、耳の奥に、脳の中にこびりついて離れない。授業中でも関係なく、ぎい、とそれは鳴る。家の中には、いつの間にか水たまりができる。立てた位牌は倒れる。見えざる者の息づかいが、気配が、広く暗く古い家の中を、歩き回っている。

 それらを振り切るように、石を投げる。ぴんぴんと跳ねていくそれを見ている間だけ、恐ろしいことを忘れられる。いつの間にか、会社帰りらしい観客が一人現れたが、彼は気にかけなかった。自分を見るその目が、川に入る自分を不安げに見つめる飼い犬とよく似ていたのだ。言葉にしない心配の言葉を避けるように、彼は対岸を見つめ続けた。



 春の雨の日、空気は暖かいと言うよりも、ぬるく気を削ぐものだった。遅くに起き出すと、休日だというのに、両親はもう家を出て行っていた。目を覚ました時分には既に、低く垂れ篭める黒雲から、細い雨が降っていた。

 二階の部屋にこもって、彼が宿題を終わらせていると、部屋に強い光が差した。数秒後に、雷がごろごろと大きく鳴り響いた。だいぶ近いなと、窓の外に目をやると、雨は目に見えるほどの粒となり、激しくガラスを叩いている。嵐になっている。外の木々が、大きく斜めに傾いでいて、よほど風が強いのだと知った。とん、とんと一際大きな雨粒が屋根を叩く音が、薄暗い家の中に響いている。外の川から水が溢れなければいいと、じっと外を見つめ、激しい雨が小さな犬小屋を襲っているのに気がつき、犬を玄関先に避難させようと、部屋を出た。

 裸足で廊下を歩き、階段を下りた。様々な水の音が、あちこちから聞こえてくる。ぴちょんと、水の垂れる音。ぼたぼたと、雨樋を辿る音。加えて、ざあざあと降りしきる雨音は、薄い膜を張り家を囲むように、こもって聴こえてくる。

 薄暗い。この家は、家族三人が暮らすには、広すぎる。ましてや、みんなが寄り付きたがらなければ、その暗さは一層際立った。照明を逃れた影が、廊下の端、部屋の隅、床に天井と、ひっそり蹲っている。

 不規則に聞こえる水の音に、どこかが雨漏りしているのかと、辺りを見回した。木造の古い家だ、珍しくもないし、驚くこともない。ただ、柱や梁が腐ってしまえば困ると、彼は一人きりの家を、玄関まできょろきょろと見渡しながら歩いた。すると電気の消えた、暗い居間が襖の向こうに見え、壁に掛かっているカレンダーの数字を意識してしまい、陰鬱とした気持ちが胃の中に沈むのを感じた。

 あと、二週間だ。それできっと、この家も少しだけ、ほんの少し、活気を取り戻すはずだ。きっと、そう。そうであってほしい。次の一年までの秒読みが始まるなんて、彼はもう考えたくなかった。代わりに、思考を放棄する悲しさが、あの子に対する罪悪感となって、心だけでなく、身体まで重く感じてしまう。

 スイッチを入れると、玄関まで一直線の廊下に、足元が見える程度の明かりがつく。これ以上の光は、住人に必要とされていない。

 けれど、彼は、あまりに暗いと感じた。この廊下は、こんなに薄暗かったかと思い返すような、影が覆い被さっている。

 突然、腹の底を揺らすような、雷の音がした。近くに落ちたようで、瞬く光と音は殆ど距離を置かなかった。廊下の明かりが明滅する。かちかちと消えては灯りを繰り返す電球を見上げ、停電になる気配を感じる。

 そして彼は、嫌な気配に、振り返ってしまった。途端明かりが消えた。がらがらと激しい音が家を叩いた。強い光に、影が映った。

 床に這いつくばる、黒い影。雷が明滅しても、それは廊下の端に残っている。

 少年は思わず息を飲んで、呼吸を止めた。影の塊を凝視する。

 べたりと、音がするようだった。

 塊から伸びる細く黒い腕が、こちらを向いて、べたんと床に力なく叩きつけられる。

 真っ黒が、這いずってくる。

 なのに、逃げられない。足の裏が縫い付けられたように、床から動かない。指令を出す脳が凍りついてしまい、身体が動いてくれない。

 逃げなきゃ、そう思うのに、まるで金縛りにあったかのように、動けない。

 這ってくる。

 べたり、べたり。

 家鳴りと間違える程度のものではなかった。それは既に、目視で確認できる塊と化していた。

 べた。べたん……べたん。

 雷が鳴る。一瞬の光の中、影はゆっくりと這いずってくる。電球は完全に灯らなくなった。それでも、暗闇の中、影は強い黒として、存在している。

 少年の喉から、掠れた呼吸が漏れた。息ができない。苦しい。苦しい。

 苦しいと、その影が言っている。べたん。少しずつ、少しずつ近づいてくる。

 長い廊下を、こっちに向かって、闇の中から。

 ずる。べたん。ずる……。

 逃げないと。逃げないと。怖い。こわいこわいこわい。

 しかし、思考がどれだけ警鐘を鳴らしても、少年の体は動いてくれない。あれに触れられたら、終わりだ。あれが一番望んでいるものを、奪われる。

 あれは、生きたかった。

 弟は、生きたかった。

 べたん。

 もうそこまで来ている影の手が、床に叩きつけられた。つうっと、黒い指先から、流れてくる。

 水が、少年の足の指先に触れた。

 冷たい。

 途端、弾かれるように、体が動きだした。

 踵を返し、脱兎のごとく、彼は廊下を駆けた。べたん。音が背中から聴こえてくる。笑い出す膝で懸命に体を支え、三和土たたきに飛び降り、引き戸を思い切り薙いだ。ガラガラと大きな音を立てて開いたその隙間から裸足のまま外へ駆け出した。

 土砂降りの雨が、地面を叩き、世界には霧が立ち込めている。向こうに見える石の橋にまで、川の水は溢れかかっていた。石橋を渡ろうものなら、たちまち滑り落ちて、濁流に消えてしまうだろう。

 びしょ濡れになりながら、彼は言葉もなく自分の体を抱きしめた。そして初めて、自分がひどく震えていることを知った。

 怖い。怖くてたまらない。けれど、もう家には戻れない。あれは今も、家の中を這い回っている。だからといって、橋を渡ることもできない。

 何かを叫びたくなったが、その何かを、言葉を見つけられなかった。いっそ走り出して、川に落ちてしまえばと思うが、それも怖くてたまらない。上手く死にきれなかったら、とも思う。岩に叩きつけられ、流れに揉まれても、半死半生で生きながらえてしまえば、よっぽど辛いことになる。

 震える膝から力が抜けた。がくんと体が折れる。ずぶ濡れの地面に蹲り、彼は、帰ってこない誰かを待った。ひとりは、怖い。ひとりぼっちは、怖い。八方塞がりだ、どこにも逃げ場なんてない。

 雨雲を仰ぐ。目なんて開けていられない。喉から、歯の隙間を通って、言葉にならない声が漏れた。呻く彼の頬を、熱い雫が流れ落ちる。

 少しずつ、削り取られていく。みんなが忘れたいと思っていることを、忘れるなと訴えてくる。忘れるわけなどない、それでも、忘れるなと念を押してくる。一人にしたのは誰だと、ひとりぼっちはこんなに怖いんだぞと、言い聞かせられる。

 言葉にならない謝罪を、彼は泣きながら続けた。土砂降りの雨の中、たったひとり、泣いて蹲っていた。

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