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三話

 年を越え、粉雪の舞う真冬の家で、彼は居間の炬燵に入ったまま少し眠ってしまった。その日も一人だったが、あまりに寒い季節に、飲み水も凍ってしまった一匹の大事な家族も、隣にいた。

 天板に突っ伏していた顔を上げ、あくびをしながら、みかんをひとつ剥いた。手から渡したひと房を、白犬は美味そうに食べた。

 ふと、その犬が立ち上がった。わん、と一声鳴いた。どうした、と彼が声をかけると、嬉しそうに尾を振りながら、犬は目を輝かせた。立派な番犬となるこの犬は、家族以外にはあまり懐かないし、こんな態度はとらない。どうしたのかと彼は白い毛皮に片手を当てた。

 わん。

 少しの興奮状態にある白犬は、訝しげな彼の脇に鼻を埋め、出ていこうと促しているようだった。楽しい、わくわくする何かが待っているとでも言いたげな犬の胴に彼は両腕を回した。

「どうしたんだよ」

 問いかけるが、犬は尾を振るだけ。言葉を使えない代わりに、懸命に彼を炬燵から押し出し、嬉しい場所に行こうと誘う。犬が向いている方向には、廊下と居間を隔てる襖が閉まっている。

 いや、閉まっていた。閉めたはずだ。

 こんなに冷える日には、少しでも部屋を温めるために、廊下の冷気は持ち込まないよう、特に気をつけている。

 その襖が、少しだけ開いている。

 片手ぶん程。先に続くのは、暗い廊下。

 寒気がした。急に、外から北風が入り込んできたようだった。そこから目を離せない。

 ひどく、喉が渇く。出ない唾を飲み込んで、もういない子に言葉を投げる。

「……いるのか」

 返事のあるわけがない。この家に、今は彼以外の人間はいないのだ。

 返事をするように、向こうの方で板が軋んだ。

 ぎい……。

 ぎい、ぎい。と、廊下の奥からやって来る。

 怖い。

 音しか聞こえない。角度のせいで、廊下の向こうは見渡せない。せいぜい、部屋から一歩出た程度の距離しか、視界には映らない。

 映ったら最後。それは、あまりに傍に来すぎている。今まで、見たことはなかった、だから「怖い」という思いだけで済んだ。無意識の内に、彼は震える腕で、犬の背を抱きしめていた。確かな体温は、絶対的な恐怖の中において、堪らなく頼もしい。

 しかし、犬の尾はもう振られていなかった。だらんとそれは垂れ下がり、犬は牙をむいている。

 ぎい。

 軋む音。

 呼吸すら止めてしまいそうになりながら、彼はなんとか喘ぐように酸素を吸った。浅すぎる呼吸のせいか、いくら吸っても、早まった鼓動は治まらない。

 怖い。向こうにいるあれが、怖くてたまらない。

 一歩ずつ、確かめるように、じわじわと追い詰めるように、それがやってくる。

 いや、弟が、やってくる。

 眠れるほど温まっていたはずの部屋が、寒くて仕方ない。噛み締めていないと、奥歯が鳴ってしまう。睨むように、彼は襖を見つめる。目を逸らせない。動けない。見てはいけない、わかっているのに視線はぴくりとも動いてくれない。

 低く、犬が唸り出す。

 ぎい。ぎい。

 近づくそれに、僅かに水音が混じっているのに気がついた。

 ぴちゃん……。ぴちゃん。

 息を飲んだ。全身が凍った。もうすぐそこ。そこにいる。だめだ、見えてしまう。見てしまう。こわいこわいこわいこわい……!

 わん、と犬が吠えると同時に、かたんと隣の部屋から乾いた小さな音がした。

 唐突な空気の振動に掻き消えるように、部屋の前まで来た足音は消えた。首筋を流れる汗を感じながら、少年はしばらく動けないままでいた。

 なんとか落ち着いてから、のろのろと這う様に、彼は隣の仏間へ入った。律儀に白犬はついてきてくれる。

 冷たい畳に膝をつき、さっき倒れたばかりの位牌を立てる。指が震えるのは、寒さのせいだけではない。

「ごめん……」

 何百回、何千回と繰り返した言葉を、手を合わせ、その指先に額が当たるほどこうべをたれ、呟いた。

「にいちゃんが、悪かった……」

 あの日、波にさらわれた弟。助けられなかった弟。生きるべきだった弟。生きたかった、たったひとりの弟。

 声が震える。体が震える。こんなものでは許されない、しかしこんなことしかできない自分が、情けなくて堪らない、どうして、どうしておれが助かったんだ、助けたのはおれだったんだ、出来なかった、助けられなかった、死なせてしまった、ひとりぼっちにさせてしまった。

 とめどない後悔を口にし続け、身体がすっかり冷え切ってしまっても、彼はじっと項垂れていた。

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