二話
初めは彼も、気のせいだと思っていた。
冬を迎えた頃、風が冷たくなる季節、軋む音で目を覚ました。遅くに帰ってきた両親が階下でストーブを使い、その熱で家鳴りがしているのだと、疑いもしなかった。だが、日が経つにつれ、忘れる頃に鳴るその音は、一定の間隔をおいているのに気がついた。
ぎい、ぎいと、壁の、床の鳴る音。まるで、遠くで誰かが歩いているよう。彼がそう思った次第には、それは家鳴りではなく足音と化していた。家鳴りではありえない、隣の部屋、さらに向こうを、だれかが歩き回っている音を、夢うつつの中で聞く。布団の中、誰もが寝静まった真夜中、そのだれかは寂しく、行き場をなくしている。
ひと月も経っただろうか、数日おきに聞こえる足音に慣れた頃、影を見た。もう寝ようと、階段に足をかけた。母親は風呂に入っており、父親はまだ帰宅していなかった。
後ろを誰かが横切った。
影が一度だけ、大きく揺らめくのを感じた。
はっと振り返ったそこには、誰かがいるわけもなく、やたらと長い廊下が向こうへ伸びているだけだった。
気のせいだ。
いや、そうではない。
彼は気がついた。いつも眠りの淵で聞く足音が、遠くで鳴っていた。ぞっと、冷たい感覚が全身を通り抜けた。
ぎい……ぎい……ぎい……。
ぎい。
真後ろで一度、鳴った。後ろには、階段があるだけ。段と自分の間には、人が立てる隙間などなく、また、人がいるわけもなく。
背筋が凍った。
翌日の朝に見た。弟の位牌が、倒れていた。
あの子だ。
あの子が、傍に来ていたのだ。
だが昨夜の感覚は、恐怖でしかなかった。照れくさそうに笑い、無邪気に抱きついてくる、幼い弟ではなかった。生きていたい、羨ましいと願い、願いのあまり僻み妬む、必死の願望。いや、欲望と言ったほうが近しいのか、そんな想いの塊だった。
だが、両親には言えなかった。弱ってしまった彼らは、悲しい話には必要以上に怯えてしまう。ましてや、幼くして死んだ我が子が、生きたかったと、死にたくなかったと、今になって出てくることなど、言えやしなかった。
「最近、家鳴り、ひどくない」
それだけを訪ねたが、想像通り、両親は不信な顔をした。家鳴りなどで何を言っているのかと思ったに違いないし、それ以上は、少年も口にはしなかった。また、二人が何も言わないのに、あれは彼らに干渉しないのだと確信した。
一番傍にいた者を羨み、出てくる。その現象に、間違いはない。
弟の位牌が倒れるのを、その度に直した。ごめんなと、何度も何度も口にし、手を合わせた。
ぎい。
ある冷えた夜も聞こえた。
音は次第に近づいてきていた。
ぎい。ぎい。ぎい。
階段を上がってくる。一段ずつ、正しく、正しく。
布団の中で、息を殺して彼は聞く。
ぎい……ぎい……。
あの位牌は、今まさに、倒れているのだろうか。そう思う。
ぎい。
廊下を辿り、部屋の入り口までやってきた。
ぎい。
ぎい。
暗い廊下を、音だけが行き来する。近づいて、遠ざかる。行ったり来たり。
いつか、足音はこの部屋にも入ってくるのだろうか。
彼は、扉から視線を逸らせない。
そのときは、素直に全てを差し出そう。しかし、そう思っているのに、彼の肌は粟立つ。
ぎい。ぎい。
足音が持つ、恨み妬み嫉み。その塊が、あの足音。恐ろしくて、油断をすれば震えてしまう。
ある朝、廊下に出て気がついた。
足音が行って戻った空間に、水たまりが出来ていた。吐く息が白くなるほど寒い夜だった、今も足の裏が痺れるほど床は冷たいのに、水は少しも固まっていなかった。
少しの間、動けなかった。




