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一話

 深みへ引き寄せる、恐ろしい水の力。

 懸命に伸ばしても地につかない足。

 耳元で激しく唸る波の合間に聴こえる、弟の声。必死に手を伸ばす。細い腕がすがり付く。途端に勢いよく体が沈む。

 空気を求めて開いた口に大量の海水が流れ込む。白い犬が吠えながら、泳いでくるのが、辛うじて見えた。

 巨大な力が、引き裂くように。沖へ沖へと引っ張っていく。

 最期の声と共に、柔らかな感触が滑り落ちていく。



 石の平らで滑らかな感触を指で確かめ、振りかぶった。

それは、小さな水しぶきをあげ、水面を幾度も跳ねながら、やがて夕焼けに染まる川の中へと沈んでいく。

「流石だね」

 背後の土手から聞こえてくる慣れた声に返事をせず、少年は足元の石を拾い上げ、再び指で撫でた。河原には幾つも小石が敷き詰められているが、少年の足元には特に平らで手に収まる大きさの石が小さな山を築いていた。

 少年が先ほど描いた軌跡の横を、二、三度小石が跳ねていった。

「はは、中々ぼくは上手くならないな」

 土手に自転車を止め、少年に声をかけた男が、笑いながら言った。スーツを着たサラリーマン風の、中年に差し掛かった頃の男だった。

 少年は、黙ったまま、再び石を投げた。軽快に水を切っていくそれは、広い川を横断し、向こう岸に辿り着く手前で沈んでいった。惜しい、と隣で男が悔しそうに言う。

 昔はよくやってたんだよ、と、一ヶ月ほど前に声をかけてから、時折姿を見せるようになった男に、少年は対して関心を向けていなかった。しかし男は、それに不快な態度を示さず、いつも心底感心した台詞をかける。

「君は本当に、水切りが好きだね」

 手元の石に視線を落としている彼に、男が声をかける。

「別に」

 男の方を見ることもなく、少年が呟いた。

「暇潰し」

 そう言い、慣れた様子で石を投げる。

 中学生の暇潰しにしては、随分孤独で安上がりだが、男がそれに触れたことはなく、いつも満足そうにそれを見ているのだ。

「大きな川だよね」

 男は話しかけるように一人呟く。

「向こう岸まで、学校のプールより長いんじゃないかな」

 知らない、と彼はぽつんとこぼす。

「昔、人の手でこれだけ広くの地面をかいて、川を作ったそうだよ。上流から二本に分岐させて、たくさんの田圃に水を引いたらしい」

 彼が黙っていても、男は一人で続ける。

「川の傍に、人が住み始めて、村が合わさり街になって……随分人に愛されて、橋が出来て。ただ、遊泳禁止なのは昔からなんだってね。上流はもっと流れが速くて、人は流されるって聞いたよ」

 知ってる、と彼は呟いた。その上流の傍に、自分は住んでいるのだから。

 それでもこの水は、自分を押し流さない。幾度試しても、あのときの波には到底追いつかない。だから、流されない。

 もう、男も少年も何も言わなかった。ただ、石が水を切る音が、彼らの耳に静かに届くだけだった。



 日が落ち、男も再び自転車にまたがり、どこかへ帰っていった頃、少年はようやく地面に置いていた鞄を拾い上げた。

 街灯が足元を辛うじて照らす、緩やかな山道を、少年は歩いて登る。山道と言えども、きちんと舗装がされており、年明けには山のてっぺんにある寺に向けて車が何台も走る光景が見られる道だった。しかし、普段は不気味ささえ感じるほど暗く、左右に繁る木々の闇から何時なんどき何者かが飛び出してもおかしくないと思わせた。

右手の木々が、川になり、そこにかかる石の橋を渡ったところに、少年の住む家はあった。築何十年は経っていることが伺われる木造の家屋から光は漏れておらず、家の周囲に立つ木が、闇を一層深くする。


 引き戸の前にたち、鍵を取り出していると、途端に犬の鳴き声が静寂を破った。庭の隅の犬小屋に繋がれた、真っ白な毛皮をもつ犬が、飼い主の帰りに尾を激しく振り歓迎の意を示していた。

 それを見た少年は、ようやく引き結んでいた口を緩め、あどけなさの残る笑顔を見せる。待ってろ、と犬に声をかけ、家の戸を開けた。

 静まり返った屋内に、少年が上る階段がたてるギシギシという軋んだ音だけが響く。それはより家の寂寞を表しており、その広さを仇のようにすら感じさせる。

 父も母も、最近帰りが遅い。そんなことを思いだし、ふと室内のカレンダーに目を向け、少年は顔をしかめた。あの日が近づいているのだ。

もうどうしようもないというのに、せめて家を避けようとする両親を情けなく思う。そして、どうしようもないと、顔をしかめる自分に嫌気がさす。

 ため息をこらえ、鞄を下ろして着替えると、さっさと部屋を出、再び庭に出た。古い鍵で戸締まりをし、尾を振る犬の首輪から、鎖を外してやる。


 先ほど渡ったばかりの橋の脇から、川原に降りた。石だらけのそこをひょいひょいと器用に歩き、犬が振り返る。心もとない月明かりの下、少年はそれに続き、ふと視線を上げた。澄んだ水は対岸に寄るほど、緑色を濃くし、底の見えない不気味さを漂わせている。さらさらと、小気味良い音をさせながら、あちこちで流れは早くなり、人の力の小ささを静かに謳っている。

 向こう岸は、生い茂る木と水面が共に緑色で、境は曖昧だ。この辺りでは、泳いで遊ぶ誰かもいない場所は、下手に近づけばあっという間に飲み込まれそうな澱んだ色をしている。

 そして一歩、少年は川の水面へ足を踏み出した。履き替えたサンダルの下、石の隙間を水が流れていく。まだ透明なそれは、澄んでいるからこそ、鮮やかに色を反射している。半月が川の半ばに浮かび、ゆらゆらと漂っている。

 くうん、と犬が鳴いた。まるで、そっちは危ないよと、彼を注意している風、心配するような、儚い声だった。しかし構わず少年はまた歩を進める。かかとが水に濡れ、浸るつま先で水底の石を踏む。冷え切った水が、ねっとりした空気を冷やすように、指の間を流れていく。

 まとわりつく湿気を払うように、少年は額を拭った。春を迎えたはずだが、空間自体が湿っているようで、足を突っ込んでいる水中の方が心地よく感じられる。彼は、ぱしゃぱしゃと音を立てながら、賢い犬が隣に並ぶのを見下ろした。耳をピンと立てた中型犬は、白い毛皮が濡れることなど全く気にしない様子で、尾を水に流している。くんくんと鼻を鳴らしているのは、飼い主が誤ったことを考えないよう、実行しないよう、懸念しているようだった。

「なあ、シロ」

 引き結んだ口元を僅かに緩め、少年は呟き、小さく足を踏み出した。ぱしゃ、と音が鳴る。足首まで、水に浸かる。浸る指先は、揺らめく月を向いている。

「お前は、賢いよ」

 左足が、水中にくるぶしまで埋もれる。まだ流れは緩やかで、彼の足を掬おうとはせず、静寂を漂わせている。星灯りを受け、水面は美しく揺らいでいる。

 少年の言葉は、黙り込む景色に溶けていった。なのに、という小さな声は、答える者のいない夜闇に紛れていくだけ。

「どうして、助けたのは、おれだったんだ」

 そして、膝下まで、冷たい水に包まれた。

 五月という、緩やかな季節。その月には、彼の弟の命日があった。

 人であれば、もう危ないよと、危険を知らせただろう、その犬は、心配そうに彼を見つめる。それを見て振り返る彼の足を、黙っていた川の流れは、一分いちぶの隙間で払おうと流れ続ける。彼は、足に水の強さを感じながら、心の内で微かに呟いた。

 あいつは、まだ小さかった。まだ、小学校にも通えていなかった、と。

「助かるのは、あいつの方が、よかった」

 幼く、いつも楽しそうに瞳を輝かせていた弟は、あの日、あの時も、嬉しそうに、少し怖々と自分についてきた。

 そんな小さな兄弟が細い足で辿る岩場を、一度波が洗った。たった一度。その時、たくさんのものが流され、二度と触れられなくなった。

「……どうして、おれなんか……」

 今、少し流れが強くなれば。この冷たさが、上手くこの身体を押しのけていけば。

 そんな飼い主の願いを知ってか知らずか、白犬が一度吠えた。力強いそれは、馬鹿な真似を許してはくれない、戻って来いと、強く言ってくれる。少年はようやく、膝まで水に埋めた足を、深みにはめていくのを止めた。初旬の冷たさは、すっかり彼の体を冷やしていたが、今回も心の臓を止めるには至らなかった。ハーフパンツの先を濡らしながら、彼は一度、背側で揺らぐ月に、もういない子を見て、一歩岸へと歩む。対岸では、相変わらず水は不気味に澱んでいる。

 あの日、波は弟だけでなく、両親の心もさらった。古い家から笑顔を奪った。明るい声を流した。はしゃいで駆け回る、幼い足音は、二度と聞こえなくなった。残ったのは、機械的に生きる人たちと、彼らが寝起きするだけの空っぽの家。あの日を避ける両親は、今日もまだ帰ってこない。

 彼は、彼らが日付をまたぐ頃に、ようやく帰ってくることを知っている。必要以上に言葉は交わされず、彼らは仕事の疲れを睡眠薬にして、沈むように眠り、朝にはまたきちんと外へ出て行く。悲しみが強まるその日の前を、悲しみに暮れて過ごすことを恐れ、時間を忙殺して、過ぎていくのを待っている。悲しむのはその日だけでいいように、まるで避けるような日々を、毎年過ごしている。

 浮かばれないよな、少年は自嘲し、やっと水から足を引き抜き、川原に立った。嬉しそうに濡れた尾を振りながら、犬が傍に寄り添い、川を振り向く彼を澄んだ眼差しで見上げる。それを見、少年は対岸の緑の境へ視線をやった。あそこへ向かおうとした、ほんのわずか前の自分が、馬鹿らしくて笑ってしまう。こんなやり方じゃ、割に合わないよな、と。

「……恨んで当然だよな」

 もういない、幼い弟に向けた。

 ざわざわと、緑が音を立てる。風が水面を走り、淀みと周囲の葉を騒がせる。波の間で、葉と葉の隙間で、足元の石の下で、温度のないものが自分を見つめていることを、彼は知っていた。

「死にたくなんて、なかったよな」

 誰にも拾われないはずの声は、姿のないものが静かに聞き届ける。全て知っている、だから少年は、あの子が来たことを知ってしまった。

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