第39話 魔女の憎悪
「す、すみません……」
アルフレッドとあんなことやそんなことをしていたのを見られていたなんて。
時を戻せるのなら、数分前の自分に教えてあげたい。
(いえ、もし時が巻き戻ったとしても、アルフレッド様を目の前にしたら触れたくなるに決まっているわ)
恥ずかし過ぎて顔から火が出そうだが、シエラは甘んじて非難を浴びることにする。
しかし、アルフレッドの方はなんとも涼しい顔である。
「シエラが謝ることではない」
「え、でも……」
「私たちがここに何をしに来たのか忘れたのか?」
アルフレッドに優しい声音で問われ、シエラは考える。
シエラがここに来たのは、王女誘拐疑惑がかかったアルフレッドを救うためである。
「や、やっぱり駄目じゃないですか! アルフレッド様には今、王女様誘拐疑惑があって、ついさっきまでイザベラ様はアルフレッド様の包帯で縛られていたし……そんな大変な時なのに」
「違う、シエラ。私たちの新婚旅行だろう? 人前でいちゃついても咎められるはずがない。それが、新婚の特権なんだ」
至極真面目な顔をしてアルフレッドが言う。
その表情には、新婚旅行とはそういうものなのだ、とシエラに思わせるだけの説得力があった。
「そうだったのですね」
「可愛いシエラ、愛しているよ」
「わたしも、愛していますわ」
濃厚な蜂蜜を空気にたっぷりかけたような甘すぎるやりとりに、怒りが爆発したのはイザベラだった。
「……よくも、わたくしの目の前で一度ならず二度までも寒気がするような場面を見せつけてくれたわね!」
赤の双眸が怒りに燃えている。
アルフレッドがシエラを庇うようにして、イザベラに向かう。
「アルフレッド様、これは一体どういう状況なのでしょうか? なんだか、イザベラ様の様子がいつもと違うような……」
「話せば長くなるが、簡単に説明すると、これまでの呪い騒動はすべて、ヴァンゼール王国に嫁ぎたくないイザベラ王女が起こした自作自演だったんだ。王女の我儘に、私たちは巻き込まれてしまったんだよ。シエラの記憶喪失も、前世が魔女だというイザベラ王女のせいだったんだ。だから、絶対に彼女に近づいてはいけない」
一度に入って来た情報が信じられないものだらけで、シエラの頭は混乱した。
しかし、確認したいことはひとつ。
「では、アルフレッド様はイザベラ王女様を誘拐していないのですね?」
「当然だ。王女を誘拐するぐらいなら、シエラを誰にも触れさせないように攫って閉じ込めてしまいたい」
「よかったですわ!」
アルフレッドはやはり誘拐などしていなかった。
シエラは安堵の笑みを浮かべる。
「いいのか? 君を攫って閉じ込めたいと言っているのだが」
「そちらではありません! でも、アルフレッド様になら攫われたいですわ」
「シエラ……っ!」
*
また二人だけの世界に入ってしまったことに気づいていないのは当人たちのみ。
イザベラの怒りは頂点に達していた。
「ちょっと! もっと驚くところがあったでしょう? わたくしは魔女の生まれ変わりなのよ? あなたの記憶を奪ったのもわたくし。恐れるとか、怯えるとか、何かないの?」
ベスキュレー公爵夫妻との会話に、気力をごっそり削られている気がする。
王女である自分は、いくら“呪われた王女”の噂を流したところで、ここまで蔑ろにされたことはない。
「それで、どうして記憶が戻っているのかしら?」
――ただの人間である小娘ごときが。
本来なら、記憶が戻るはずはなかった。
ただ、奪うだけの呪いだから。
「わたしの記憶が戻ったのは、アルフレッド様の愛があったからですわ!」
「何を言うかと思えば、愛ですって? くだらない。そんなもので呪いが解けるはずないでしょう!」
愛など薄ら寒い。人間が口にする愛などろくなものではない。
所詮は、口先だけ。
永遠の愛なんてものは存在しないし、人間の感情は移り変わる。
そう。グリエラを騙して自分は一国の王におさまった男のように。
しかし何故、イザベラの言葉にベスキュレー公爵夫妻は赤い顔をして見つめ合っているのだろう。
まさか愛の力で呪いが解けたなど馬鹿げた話を本気でしているのか。
「イザベラ様は、愛を信じていないのですか?」
シエラの純粋で、まっすぐな問いにイザベラは呆れるしかない。
「信じるはずがないでしょう。あなたが言うその愛に裏切られて、わたくしたち魔女は滅んだのだから」
イザベラとして生を受けた時から、少しずつ前世を思い出していた。
断片的に流れてきた前世の記憶が完全に戻ったのは、ヴァンゼール王国第一王子クリストフとの婚約が成立した日だった。
(わたくしは、絶対に騙されない)
グリエラを恨む気持ちはなかった。
ただただ、信じた愛に裏切られて、憐れだと思った。
傷ついて涙する親友の姿は痛々しく、人間を許すものかと心に誓った。
だから、イザベラは決めたのだ。
憎いヴァンゼール王国を滅ぼしてしまおう、と。
そのために必要なのは、力だ。
王族としての権力はある。戦力はまだ不十分だ。
前世のように魔法が使えれば、人の感情を利用して意のままに操ることもできる。
薔薇を好んで育てていたのは、魔力の媒体とするためだ。
人間の身体に魔力を溜めることはできない。
前世で、魔力の低い魔女たちが魔力を補強するために薔薇を利用していたことを思い出したのだ。
そして、【包帯公爵】のグリエラの魔力があれば、イザベラの野望は果たされるだろう。
ようやくここまで来たのに、また“愛”だ。
愛の末路など、絶望でしかない。そんなものに邪魔されたくはない。
「そうだとしても、わたしとアルフレッド様の愛は本物ですわ!」
アルフレッドの隣に並び、その手を握ったまま、シエラが叫んだ。
そして、アルフレッドも愛おしそうにシエラを見つめ、頷く。
「愛を信じられないというイザベラ王女の気持ちも分かる。私も、シエラに出会う前までは他人を信じることができなかった。【包帯公爵】である自分を愛してくれる人はいないだろうとも。だが、シエラは臆病で、情けない私でも愛してくれた。誰かを愛する気持ちを思い出させてくれた。シエラからの愛があったから、私は……」
「――もういい加減にして頂戴! よくそんな恥ずかしい台詞を堂々と言えるわね。愛に侵された者はみんな馬鹿になるのかしら……」
聞いているこっちがムズムズしてしまう。
さっきから一体、自分は何を聞かされているのか。
ラブラブ夫婦の惚気など聞きたくもない。
(こうなるのが面倒だから、記憶を奪ったというのに……)
しかし、記憶は戻ってしまった。
甘ったるい空気を漂わせ、イザベラの怒りに火をつける。
いっそのこと、すべて燃やしてしまおうか。
咄嗟の思いつきではあったが、我ながら名案だ。
炎の中では、歌姫自慢の歌も披露できないだろう。神の加護などもはや怖くない。
放火したのはベスキュレー公爵夫妻ということにして、ヴァンゼール王国との友好は解消し、戦争を始めてしまえばいい。
グリエラの包帯は惜しいが、使えないのなら意味がないのだ。
ドレスの隠しポケットから薔薇の香油を取り出し、イザベラは地面に叩きつけた。
ガラス製の小瓶が割れ、濃厚な薔薇の香りが漂う。
「わたくし、前世では〈炎の魔女〉と呼ばれていたの」
パチンと指を鳴らすと、火花が散った。
火花に触れた草花が燃え、小さな炎があがる。
懐かしい感覚だ。
薔薇の香りがイザベラの集中力を高め、微々たる魔力を与えてくれる。
「まさか、この森を燃やすつもりなのか」
アルフレッドの言葉に、イザベラはにっこりと微笑んであげる。
ついさきほどまで、愛を囁いていた男の焦る様子に、少しだけ胸の奥がすっとする。
「ねぇ、最後にひとつ、聞かせて頂戴。どうやってこの森に入って来たの?」
この森には、人除けの魔法をかけていた。
イザベラが許可した者しか入れないし、出ることもできない。
シエラがこの森に来たことがイザベラには信じられない。
「女神ミュゼリア様のおかげですわ」
シエラの口から出た女神の名に、イザベラの内にある憎悪が燃えた。
それに呼応するように、小さかった炎は大きくなった。
「ふふ、ふ……女神め。お前が愛する芸術の国は、私が滅ぼしてやる……っ!」
ずっと憎かった、女神ミュゼリアが。
だって、グリエラが愛したあの男に魔女を封じ込める力さえなければ、あんなことにはならなかった。
ただの人間だったならば、グリエラが傷つく前に自分が息の根を止めてやったのに。
それができなかったのはすべて、余計な加護を女神があの男に与えたからだ。
――ベラ、もういいのよ。
そう言って無理やり笑みをつくった親友の、涙がずっと忘れられない。




