第38話 夫婦の再会
目を開くと、そこは歌劇場ではなかった。
薄暗い、森の中。
どうしてここに? と考えたのはほんの一瞬だけ。
シエラが聞き逃すはずがない、愛しい人の音が近くから聞こえたのだ。
リィン――というシエラが贈った鈴の音も。
音の方向へ、シエラは夢中で走る。
ほんの数日離れていただけだというのに、もう何年も会えていないと思うぐらい、アルフレッドが恋しかった。
「アルフレッド様っ!」
光の差さない森でも美しい金色の髪、今すぐに抱きつきたい広い背中が見えた。
シエラの声に振り返り、驚きに海色の瞳が揺れる。
すぐにでも駆け寄ろうと思っていたシエラだが、アルフレッドの側に何やら信じられないものが見え、動きを止めた。
「……アルフレッド様。そこに包帯で縛られている方は、イザベラ様ではないですよね?」
「…………」
分かりやすくアルフレッドが目を逸らした。この無言は肯定ととっていいだろう。
「そ、そんな! じゃあ、アルフレッド様がイザベラ様を誘拐したというのは事実? 一体、何がどうなってこんなことに……あぁ、どうしましょう。いいえ、きっと、何か事情がおありなのよ……それに、たとえ何があっても、わたしはアルフレッド様の味方。それだけは変わらないわ」
シエラは自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
愛しい夫が友好国の王女を包帯で縛っている。
目の前の状況がまったく理解できない。
そもそも、アルフレッドがイザベラを誘拐する意味が分からない。
シエラが記憶喪失になっている間に、大きな変化があったのだろうか。
しかし、アルフレッドのことは信じている。彼には彼の考えがあるはずだ。
シエラには、アルフレッドと共に罰を受ける覚悟がある。
その決意をアルフレッドに伝えようと顔を上げた時、あたたかい温もりに包まれた。
「シエラ、無事でよかった」
ずっと聴きたくて仕方がなかった愛しい低音が耳元で響く。
たくさんの心配をかけた。たくさん傷つけた。たくさん悩ませてしまった。
ようやく、愛しい人のもとへ帰ってこられた。
シエラの目には涙が浮かぶ。
この状況も忘れて、シエラはただアルフレッドのぬくもりに縋る。
「アルフレッド様、わたし、全部思い出しましたから。もう絶対、アルフレッド様のこと忘れたりしませんから!」
胸元にほおずりするように身を預ければ、愛しい人の心音が聞こえた。
どくどくと激しく打つその音は、アルフレッドの緊張を伝えていた。
「記憶が、戻ったのか……?」
記憶が戻ったことを告げれば喜んでくれると思っていたのに、アルフレッドは不安そうに問う。
それと同時に、抱擁も解かれた。離れたぬくもりに切なくなる。
「……アルフレッド様は、わたしの記憶が戻らない方がよかったのですか?」
結婚する時は強引だった。それでも心が通じ合い、本物の夫婦になったはずだ。
もしアルフレッドが本気で離婚を考えていたらどうしよう。
アルフレッドが答えに窮しているから尚更、シエラも不安な気持ちになる。
「……もちろん、思い出してくれて嬉しい。でも、私のことだけではなく、その、昔のことも忘れていたと聞いていたから。シエラがまた傷ついたのではないか、と心配で」
十年前のトラウマを再び思い出し、辛い想いをしたのではないか――と。
忘れられたアルフレッドの方がずっと傷ついただろうに、シエラの心を案じてくれる。
アルフレッドのことを愛している。彼の妻になれて本当によかった。
シエラは心からそう思った。
だから、彼を安心させるように、にっこりと笑みを浮かべる。
「わたしは大丈夫ですわ。十年前のように独りよがりな不幸に嘆くだけだった弱いわたしはもういません。それに、今のわたしには、大好きなアルフレッド様がおりますもの。だから、何があっても笑っていられるのですわ。アルフレッド様が、わたしを強くしてくださるのですよ」
アルフレッドがいなければ、呪われた暗闇だけの世界で、希望を見出すことなんてできなかった。
大好きな歌を続けることも、笑顔を浮かべることも、誰かに恋をすることもなかった。
シエラにとって、アルフレッドの存在は生きるために必要なもの。
「私は、シエラが側にいないだけで酷く情けない男になってしまう。こんな男でも、まだ側にいて、愛してくれるのか?」
目の前に膝をつき、アルフレッドはシエラを見上げる。
アルフレッドの甘えるような、縋るような表情に胸がきゅんとなる。
(この表情は反則ですわっ!)
ただでさえ、旦那様の美しい素顔にはまだ慣れていないのに。
せっかく結婚生活の中で毎日アルフレッドの素顔を見て少しずつ耐性をつけていたところだったが、記憶喪失のせいでまた一からやり直しのようだ。
ドキドキしすぎて、身体が熱い。耳まで真っ赤に染まっていることだろう。
しかし、それこそ今更のことだ。シエラは、アルフレッドの妻なのだから。
「もちろんですわ。だって、アルフレッド様を駄目にできるのはわたしだけということでしょう?」
「シエラには本当に敵わないな」
そう言って、力なく笑ったアルフレッドの顔がたまらなく愛おしくて。
シエラは思わず、自分からアルフレッドの唇にちゅっと軽く唇を合わせた。
「……そんな可愛いことをされると、理性が壊れてしまう」
アルフレッドのそんな呟きが聞こえたかと思うと、今度はしっかりと後頭部を優しく支えられ、シエラの唇は愛しい熱に侵されていた。
「シエラ、私の元へ戻って来てくれてありがとう」
愛している、という甘い囁きが耳に吹き込まれる。
優しく、甘く疼く熱に、腰が砕けそうだった。
すべてをアルフレッドにとろかされて、足に力がはいらない。
もう、何も考えられなくなる。
「ちょっと! あなたたち、わたくしの存在を忘れていちゃつくんじゃないわよっ!」
雷が落ちたかのような衝撃が、二人に走った。
完全に状況を忘れていた。
はっと我に返った二人が振り返れば、包帯の拘束を解いたイザベラ王女が顔を真っ赤にして立っていた。




