第26話 幼馴染の独白
月の隠れた、暗く、静かな夜。
ロナティア王国の楽団用に用意されている宿舎で、モーリッツはシエラのことを考えていた。
(……どうして、シエラはあんな辛そうな笑顔を俺に向けるんだ?)
心の傷を忘れたなら、もっと幸せそうに笑うものだと思っていた。
それなのに、シエラは無理やり笑みを浮かべていた。
その様子が痛々しくて、モーリッツは練習があると嘯いてシエラの前から逃げたのだ。
ずっと、シエラが好きだった。シエラの歌に癒されていた。
いつか自分がシエラを幸せにするのだと、そのために頑張ってきた。
【包帯公爵】なんかにシエラを渡したくなかった。
あの男に、シエラを幸せにすることなんてできない。
――【包帯公爵】の側にいる人間は不幸になる。
今は相思相愛で幸せなのだとしても、きっとそれは失われる。
幸せが大きければ大きいほど、失う時のショックは計り知れないだろう。
モーリッツは、シエラの傷が浅いうちに救ってやりたかった。
だから。
「シエラを傷つける記憶を、消したのに……」
黒猫に誘われるようにして導かれたあの日。
モーリッツはシエラを苦しみから救うためのものを授けられた。
濃厚な薔薇の香りがする、香油。
“幸せを呼ぶ香り”――それは、嘘じゃない。
だって、その香りはシエラの心の傷を忘れさせてくれる、特別な力を持つのだから。
それは誰からだったのか。
思い出そうとするが、闇に覆われて何も分からない。
しかし、そんなことはどうでもいい。
シエラに思い出させてはいけないのだ。
十年前の出来事を。
そして、これからシエラを不幸にするだろう男のことを。
「俺だけが、シエラを救えるんだ」
グッと拳を握り、モーリッツは立ち上がった。
忘れたままでいい。
思い出そうなんて馬鹿な考えを持たせてはいけない。
メリーナはきっとシエラの記憶を取り戻そうとする。
シエラ自身も、忘れたままでいることをよしとしないだろう。
しかし最も厄介なのは、シエラに愛されていた【包帯公爵】だ。
(目の届く範囲にいるから、シエラが気にしてしまうんだ。きっと、あの男がいなくなれば、シエラは俺の方を向いてくれるだろう……?)
モーリッツは不思議な黒猫を探すため、部屋を出た。