第20話 心に空いた穴
甘い、薔薇の香り。
寝台近くに薔薇が活けられているのだろう。
シエラは、うっすらと目を開けた。
見える場所には誰もいない。
しかし、隣の部屋からかすかに声が聞こえてくる。
「……あの男はシエラを愛してなんかいない。シエラは包帯公爵に捨てられたんだ!」
「モーリッツ様、おやめください。隣ではシエラ様が眠っているのですよ」
「シエラが記憶喪失になったのは、あの男のせいだ。あんな男と一緒にいて、シエラが幸せになれるはずない。それに、あっさり身を引こうとするなんて、メリーナも最低だとは思わないのか」
「それは……」
モーリッツとメリーナの声だ。
医者にも言われたが、シエラは今、記憶の一部が失われているらしい。
自分ではまだ実感がないが、たしかに目覚めた時に側にいた人のことが思い出せない。
美しい金色の髪と、海のような瞳を持つ、端正な顔立ちの男性だった。
シエラが忘れてしまったせいで、きっとひどく傷つけてしまった人。
(……どうして、あの人のことを思い出そうとすると、胸が苦しいの)
ぎゅうっと胸が締め付けられる。
それ以上考えさせないように、頭もズキズキと痛む。
シエラを診てくれた医者に言われた。
無理に思い出そうとするのは良くない、と。
忘れてしまったのは、心の問題だとも。
その原因が、あの男性なのだとモーリッツは言う。
メリーナも、それを否定しない。
ロナティア王国へは、新婚旅行で訪れていたらしい。
そこで、何らかのトラブルに巻き込まれてしまったのだろうか。
シエラが意識を失った時のことは、誰も教えてくれない。
心にぽっかりと穴が空いたような心地で、落ち着かなかった。
自分の名前も、家族のことも、歌のことも憶えているのに、どうしてこんなにも心細いのだろう。
「こういう時こそ、歌わなくちゃ」
シエラは寝台から起き上がり、深呼吸する。
肺におもいきり空気を吸いこんで、吐く。
窓の外に見える豊かな緑と空の青。
どんな歌を歌おうか。
目を閉じて、メロディを口ずさもうとした時。
「……~っ!」
自分の歌に違和感を覚えた。
いつもと違う、いや、いつもの歌はどんなだった?
歌えないことに混乱して、シエラの身体から力が抜ける。
「シエラ!」
物音に気づいて入ってきたモーリッツが、慌ててシエラの身体を支えた。
(この手じゃ、ない……)
身体に触れるその手を、シエラは思わず振り払っていた。
「シエラ、大丈夫か?」
「え、えぇ……ごめんなさい、ちょっと、びっくりして」
「何があった?」
モーリッツは心配してくれているだけなのに、心がざわつく。
「……なんでもないわ」
「そうか。まだ混乱しているのかもしれないな。ゆっくり休め」
そう言って、モーリッツはシエラをベッドまで誘導する。
「シエラ。お前は忘れてしまっているが、お前が結婚した男は、【包帯公爵】という異名で畏れられる男だ。あの男はシエラを本気で愛してなんていない。ミュゼリアの加護を得た歌姫を手に入れたいだけだったんだ……大切にされていなかったから、シエラは結婚していたことすら簡単に忘れたんだろう。きっと、忘れたかったんじゃないのか」
シエラは黙ってモーリッツの話を聞いていた。
メリーナが席を外しているせいで、モーリッツの話が本当なのかどうか、確かめようもない。
しかし、つい先程の違和感の正体が掴めた気がした。
「モーリッツ、心配してくれるのは分かるわ。でも、違う。あの人はわたしを大切にしてくれていたと思うのよ」
だって、目覚めた瞬間に見えた彼の表情は、本気だった。
心配してくれていたし、目が覚めたことに安堵していた。
そして、真っ先に謝罪の言葉を口にした。
それも、シエラを気遣いながら。
「シエラは騙されているんだ。あの男は利用価値がないと知れば、きっとすぐにシエラを手放す。そんな男のために思い出してやる必要はない。忘れたままで、いいじゃないか。俺は、シエラが心配なんだよ」
「でも……っ」
「俺は、ずっと昔からシエラのことが好きだったんだ。あんな最低な男よりもシエラを分かっているし、大切にする。俺と一緒に、ヴァンゼール王国へ帰ろう」
真剣な瞳が、本気であることを訴える。
シエラは、モーリッツのこんな表情初めて見る。
(昔から、ずっと……モーリッツがわたしのことを好きだったなんて)
全然気が付かなかった。というよりも、自分の初恋に夢中だったのだ。
そして気づく。
その初恋の思い出さえも、自分から失われていることに。
「……ごめ、なさい」
シエラの頬に涙が伝う。胸が苦しい。
大切なものだったはずなのに。
「今すぐにとは言わない。でも、俺のことも少しは考えてほしい」
モーリッツはシエラの涙をそっと拭って、優しく微笑んだ。
たしかな好意を感じる。
モーリッツのことは好きだ。
しかしそれは幼馴染としての好き。
胸が痛くなるほどの切なさや、あたたかくて溶けてしまいそうな幸せを伴う恋愛感情ではない。
(わたしは、幸せ過ぎて苦しいぐらいの恋心を知っている気がする)
しかしそれを失った今、シエラは歌姫としても失格だ。
シエラの歌は、身心の影響を受けやすい。
今まで、どうやって歌ってきたのだろうか。
どんなに辛いことがあっても前を向けた。
あの強さは、どこから湧いてきたのだろうか。
いつものように、笑えない。
それでも、これ以上モーリッツに心配をかける訳にはいかないから。
「ありがとう」
シエラはぎこちなく、口元に笑みを浮かべた。