第19話 受け入れがたい懇願
大変なことになってしまった。
シエラの侍女メリーナは、かなり動揺していた。
仲睦まじいベスキュレー公爵夫妻の新婚旅行。
きっと甘い蜜月になるだろう、と何の心配もしていなかった。
それなのに――。
植物園にイザベラ王女と行くことになった時から、嫌な予感はしていたのだ。
偶然にも幼馴染のモーリッツと出会い、夫妻は謀らずも別行動をとることになってしまう。
メリーナは当然ながらシエラに付き従った。
濃厚な薔薇の香りが、鼻腔をかすめる。薔薇園を抜けてきたはずなのに。
不思議に思いながらも、それどころではなかった。
「ちょっと、モーリッツ! 放して」
「なんだよ、数年ぶりに会えた幼馴染に対してそう怒ることはないだろう」
「だからって、アルフレッド様たちから離れなくてもいいじゃないの。それに、わたしは新婚旅行中なのよ。大好きな旦那様と一時だって離れていたくないの」
イザベラとアルフレッドの距離が近いことに気が気ではなかったシエラは、二人を残してきたことに不満たっぷりの顔でモーリッツを睨んだ。メリーナも同感だった。
「本気で好きなのか」
苦々しく、モーリッツが問う。
彼がシエラを好きなことを、メリーナは昔から知っていた。
「えぇ。だって、わたしはずっと、アルフレッド様のことだけを想ってきたのだもの」
しかし、主人であるシエラが誰を好きであるのかも、メリーナは知っていたのだ。
ようやく初恋の人を見つけた、と涙を浮かべていたシエラをメリーナははっきりと覚えている。
名前も素性も分からない初恋の人を忘れずに、シエラはずっと想い続けていた。だから、初恋の人と結婚したいと言ったシエラを、メリーナは祝福した。
その相手が、恐ろしい噂の絶えない【包帯公爵】だと知るまでは。
クルフェルト伯爵家、楽団員皆が反対していた。もちろん、シエラを大切に見守ってきた使用人たちも。それはもう、大変な騒ぎだった。
しかし今となっては自分たちの心配が杞憂だったと分かる。
実際に会ってみたアルフレッドは、包帯を巻いているというのは事実だったが、噂話は噂でしかなく、シエラに優しかった。
そして何よりも、アルフレッドの花嫁になって、シエラはとても幸せそうに笑うのだ。だから、メリーナは応援した。その初恋が実るように。
賊に襲われる、という恐ろしい出来事はあったものの、アルフレッドは皆を助けてくれたし、それにより夫婦の絆は深まったようだった。
それに、なんと十年前に失われたシエラの視力が戻ったのだ。
奇跡を起こしたのは、夫婦の愛だとシエラは幸せそうに微笑んでいた。
領地リーベルトでは、ミュゼリアの加護を得た歌姫が真実の愛を見つけて、奇跡を起こしたのだと実しやかに囁かれている。
だから、今更モーリッツが出てきたところで、シエラの心に付け入る隙なんてないのだ。
「モーリッツ様、公爵夫人に対して無礼な態度はおやめください」
主人の幸せのため、メリーナは心を鬼にして、古くからの知り合いであるモーリッツに厳しい言葉を向ける。
「メリーナ。お前も本当にシエラがあの【包帯公爵】と結婚して幸せになれると思っているのか? 伯爵さまは本当にお認めなのか?」
「当然です。旦那様は奥様にメロメロですし、奥様はアルフレッド様と結婚して本当に幸せそうですもの。もちろん、クルフェルト伯爵様も認めています。なにより、お二人の結婚は国王陛下のお計らいによるもの。モーリッツ様とて覆すことはできません」
「そうよ! モーリッツには祝福してもらえると思っていたのに、どうしてそんなに怒っているの?」
シエラの残酷な問いに、モーリッツの瞳が揺れる。
まったくモーリッツの気持ちに気づいていなかったからこその、言葉。
「……俺は心配なんだよ! ずっと音楽しかやってこなかったシエラが、いきなり公爵夫人として社交界でやっていける訳がない。苦労するにきまってる。それに、あれだけ顔が良くて身分が高い男なら、女に苦労しないだろ。包帯を巻いているのだって、素顔を知られて女遊びが激しいことがバレたら厄介だっただけじゃないのか? シエラは騙されて――」
「それ以上アルフレッド様を侮辱したら、モーリッツのこと許さない」
メリーナも初めて聞く、シエラの冷たい声だった。
愛する人を侮辱されて、本気でシエラは怒っている。
「悪かった! 本当は、こんなことが言いたい訳じゃなくて……」
顔を歪めたモーリッツは、胸元のポケットから何かを取り出した。
「シエラ、これ」
「……モーリッツ」
シエラは怒りを鎮めて、幼馴染を見つめる。
モーリッツが差し出したのは、赤いリボンが結ばれた小箱。
「これは、ローズガーデンの名産品、薔薇の香油だ。“幸せを呼ぶ香り”らしい。シエラ、結婚おめでとう。幸せに、なれよ」
苦し気に顔を歪めながらも、モーリッツは祝いの言葉を口にした。
「ありがとう。嬉しいわ」
そう言って、シエラはモーリッツから薔薇の香油を受け取る。
「せっかくだから、今使ってみてくれないか? ちゃんと気に入るものをあげたいから」
「分かったわ」
箱から出てきたのは、ガラス瓶。
赤く色づいた香油が中に入っている。
箱を開けただけで、薔薇の香りがふわりと漂った。
「良い匂いだわ。モーリッツ、素敵な贈り物をありがとう」
手の甲に香油をなじませて、シエラが微笑む。
(きっと、モーリッツ様はご自身の気持ちの整理をするために……)
アルフレッドの目の前ではどうしても素直になれないから、シエラを呼び出したのだ。
メリーナはモーリッツの言動を観察して、そう結論づけた。
「そろそろ、アルフレッド様のところへ戻りましょう」
「えぇ、そうですね」
一刻も早く愛する旦那様のもとへ戻りたいのだろう。シエラはそわそわしていた。
そんなシエラを微笑ましく思いながら、メリーナは頷いた。
そうして、元来た道を戻っていった先に待っていた光景は……。
アルフレッドとイザベラが不自然な体勢で抱き合い、キスをしていた。
「――アルフレッド様っ!?」
直後、シエラは気を失った。
咄嗟に動けなかったメリーナとは違い、モーリッツはシエラを抱きとめた。
「シエラを傷つけたあなたに、今は任せられません」
シエラを取り戻そうとするアルフレッドに、モーリッツは冷たく言い放つ。
包帯で顔を覆うアルフレッドがどんな表情をしていたのか、メリーナには分からない。
しかし、アルフレッドがどんな言い訳をしたところで、妻以外の女性とキスをした事実は変わらない。
シエラがショックを受けて倒れたことも。
だから、シエラを抱えたモーリッツにメリーナはついて行った。
「あなたは、誰ですか?」
まさか、十年越しの初恋を実らせた主人が、その愛する人を忘れることになるとは思わずに。
医者からの注意は、受け入れがたいものだった。
心因性であるため、原因であるアルフレッドが側にいては悪化するかもしれないーーなど。
「メリーナ、君に頼みがある」
涙を流していたメリーナに、アルフレッドが声をかけてきた。
「シエラは、結婚していることさえ覚えていないようだ。私は、これ以上シエラを傷つけたくない。もし忘れたままの方がシエラのためになると君が判断するなら、私のことは教えないでくれ」
「旦那様……本当にそれで良いのですか? 奥様は誰よりも旦那様のことを愛しております。奥様のことを想うなら、旦那様のことを思い出させてさしあげたい。それを、旦那様も望んで」
「だが、それではシエラがまた苦しんでしまう。君も見ただろう? 私を見るだけで、シエラは苦しんでいた。無理やり、シエラの心の傷を開いたのは私なんだ。シエラの心を守るためにも、私のことは黙っていて欲しい」
メリーナの訴えを、アルフレッドは聞き入れなかった。
逆に、メリーナがアルフレッドの懇願に黙るしかなくなる。
ひどく思い詰めたような表情で、アルフレッドは固い決意を語った。
「幸い、私とシエラは白い結婚だ。事情も事情なら、陛下も離婚をお許し下さる。さすがに結婚していた事実までも消すことはできないだろうが、【包帯公爵】相手ならシエラに同情がいくだろう」
「それはあんまりですわ! どんな想いでお嬢様が公爵様と結婚したと思っているのですか!? ……もういいです、そういうことなら分かりました。絶対に、お嬢様には公爵様のことはお教えしませんから」
シエラは、アルフレッドと本当の意味で夫婦として結ばれることを願っていた。大切にしていたその想いが、こんな風に使われるなんてあんまりだ。
メリーナは初めて、アルフレッドに怒りの感情をあらわにした。
結婚前の呼称に戻したことで、メリーナが本気であることも伝わっただろう。
(シエラ様の恋がこんな形で終わっていいはずがありませんわ)
もちろん、メリーナは二人に別れて欲しい訳ではない。
追い打ちをかけるようで申し訳なかったが、シエラのことを想うと怒らずにはいられなかったのだ。
これからどうすればいいのだろう。
メリーナは寝台に眠るシエラを見て、大きな溜息を吐いた。




