第18話 心に与えた大きな傷
寝台に横たわる、愛しい妻の手を握る。
顔色は悪く、時折額に汗が浮かぶ。
「……シエラ、目を開けてくれ」
そして、傷つけてしまったことを謝らせてほしい。
アルフレッドは懇願するように、シエラの名を呼び続ける。
「旦那様、イザベラ王女殿下とエドワード王太子殿下がお呼びです」
「断ってくれ」
メリーナの声かけに、アルフレッドは固い声で答えた。
包帯を外し、素顔に戻っている。
正直、愛するシエラの目が覚めない現状で、他国の王族に会えるほど、アルフレッドは強くない。
それに、シエラがショックを受けた出来事は、イザベラが原因である。
自国の王子の婚約者だとか、友好国の王女だとか、そんなことはもうどうでもいい。
(私にとって必要なのはシエラだけだ)
シエラを守るために、公爵としての地位を盤石なものにしようと社交界へ復帰した。
その結果が、これなのか。それならば、これまでの数年で王家への恩は返した。
アルフレッドが社交界で生きる意味はない。
どこか遠く離れた地で、シエラと共に二人だけで暮らそう。
本気でアルフレッドはそう考えていた。
「ベスキュレー公爵、このようなことになって大変申し訳なかったと思っている。しかし、僕の話も聞いてくれないか」
侍女であるメリーナに、王族を追い払うことなどできなかった。
背後に聞こえたのは、エドワードの声。
謝罪の言葉には、たしかに感情がこもっているように聞こえた。
「……どのような話でしょうか」
それに対し、アルフレッドは振り返らずに淡々と問う。
「私に協力を申し出ておきながら、ストレイ伯爵、コーネット侯爵、バルモント伯爵の三名の情報を開示しなかったことですか。それとも、イザベラ王女殿下が【包帯公爵】のファンなどという馬鹿げた話ですか」
自分でも驚くほどに、冷ややかな声が出た。
それこそ、シエラに出会う前の、他人を遠ざけようとしていた頃のような。
「何故その名を……いや、すまない。ベスキュレー公爵を責めることはできないな」
エドワードが嘆息する。
ヴァンゼール王国の良からぬ噂を積極的に広めていた、三名の貴族。
ストレイ伯爵、コーネット侯爵、バルモント伯爵。
シエラが【盲目の歌姫】としてロナティア王国の夜会に参加した際、何度か言葉を交わしたことがあったため、覚えていた。
しかし、他国の貴族であるため、彼らを取り巻く情報についてはさすがのシエラも分からなかった。
「名前だけなら、ヴァンゼール王国でも耳にしたことがあります。貿易の交渉や人材派遣の際に揉めたことがある、と……彼らは資源がないヴァンゼール王国を属国だと認識しているようですね。我が国の技術と芸術によって文化が発展したことを棚に上げて」
「そこまで掴んでいるのか……あなたは本当に優秀な人間のようだ」
「シエラのおかげですよ。イザベラ王女の近くで、少し様子をみようかと思っていたところでした。こんなことになるまで、ですが」
言葉に感情はこもっていなかった。
どうでもいいからだ。
シエラ以外のことは、アルフレッドにとってどうでもいい。
それなのに、肝心な時に間違えてしまった。
「……シエラが目覚めたら、すぐにでもここから発ちます」
早く領地に帰って、誰にも邪魔されることなくシエラと穏やかな時を過ごしたい。
アルフレッドの胸にあるのはそれだけだった。
「あぁ、分かった。僕も、早く目覚めて欲しいと願っている」
そう言って、エドワードは寝室を出て行った。
アルフレッドは一度も彼を見ようとしなかったが、それを責めることもなく。
しばらくして、再び扉が開く音がした。
メリーナかと思ったが、違っていた。
「シエラはまだ目覚めないのですか」
刺々しい問いは、倒れる直前までシエラの側にいた男――モーリッツだ。
「何故、お前がここにいる? 今すぐ出て行け」
「俺はシエラの幼馴染です。結婚したからといって、俺が旦那の言うことを聞く義理はないはずです。まして、シエラを傷つけた男の言うことなんて」
「黙れ」
心が荒ぶるのを抑えられない。
しかし、内心は怒りと苛立ちで燃え盛るほどに、発する声は底冷えしていく。
「シエラが何故、意識を失うほどのショックを受けたかあなたに分かりますか!?」
激しい感情が乗せられたモーリッツの言葉に、アルフレッドはぐっと拳を握る。
シエラはいつも優しく、アルフレッドを受け入れてくれた。
可愛らしい笑顔はあたたかく、美しい歌声は心を癒してくれる。
アルフレッドはシエラに甘えすぎていた。
(愛し合っていれば何をしても許される訳ではない。まして、不可抗力のものであったとしても)
明らかにアルフレッドの意思ではなかった口づけだった。
しかし、事実は事実。
シエラを傷つけたのは、アルフレッドの行動だ。
そこに感情が一切なかったとしても。
アルフレッドが逆の立場でも穏やかではいられないだろう。
いや、相手の男を再起不能にしてしまうかもしれない。
シエラが自分以外の相手とキスをするなど、想像するだけで苦しい。
そんな苦しみをシエラに与えてしまうなど。アルフレッドが一番許せないのは自分自身だった。
だから、早くシエラに責め立てて欲しい。
どれだけ罵倒されてもいい。
アルフレッドはただ、謝罪する機会を与えて欲しいのだ。
「……そんなことは分かっている」
「いいや、あなたは分かってない!」
何故、モーリッツこそがシエラを理解しているような言葉を吐くのか。
その理由を問おうとした時、アルフレッドが握るシエラの手がぴくりと動いた。
「シエラっ!」
ゆっくりと、シエラの瞼が開く。
その虹色の瞳にアルフレッドを映し、発した言葉は。
「あなたは、誰ですか?」
衝撃が、アルフレッドに走る。
思わず、シエラの手を離していた。
「シエラ、怒っているのか? それならそうと言ってくれ」
「……メリーナ、モーリッツ。この方は、一体? それに、ここはどこ?」
アルフレッドの背後に二人を見つけ、シエラは不安そうに問う。
認識していないのは、アルフレッドのことだけだ。
嘘をついているようには見えない。
それに、シエラがこんな嘘をつくような女性ではないことを何よりアルフレッドは知っている。
「そんな、奥様。本当にお分かりにならないのですか?」
「奥様? どうしてそんな風に呼ぶのよ。わたしは誰の奥様でもないじゃない」
シエラの言葉に、メリーナの涙は引っ込んでいた。
その言葉に驚いているのは、モーリッツも同じ。
しかし、アルフレッドの比ではないだろう。
「シエラ……本当に、分からないのか?」
もう一度、シエラはアルフレッドを見た。
しかしアルフレッドを見るなり、大きな瞳からは涙が溢れてきて、シエラは頭を押さえた。
「……うぅ、頭が、痛い」
モーリッツによりアルフレッドがシエラの前から引き離されると、頭痛は治まったようだった。
その後、エドワードが手配した医者に言われたのは、外傷がないことから、心因性の記憶障害だろうということ。
さらに、ショックの原因であるアルフレッドが側にいれば、またさらに症状が悪化するかもしれない、と。
つい先程のシエラの様子を思うと、今は離れていた方がいいのだろう。
そうして、アルフレッドはエドワードの計らいで別の客室を借りることになった。
シエラの様子が知りたくて、彼女の客間の扉の前に立つ。
偶然か必然か。
出てきたのはモーリッツだった。
「ベスキュレー公爵、あなたはシエラのことを分かっていなかった」
責めるようなモーリッツの言葉。
「……シエラにとって、愛する人の浮気現場を目撃することは、母親を失った最大のトラウマなんです。あの時のシエラは、本当に見ていられない程に憔悴していた。その上、視力まで失って。それでも歌があったから、乗り越えることができたんですよ……まあ、今のシエラしか知らない公爵様には分からないでしょうね」
当時を知っているモーリッツは、何かを堪えるように言った。
そして、モーリッツはシエラの部屋へと戻っていく。
アルフレッドが近づけない、その部屋へ。
しかし、それどころではなかった。
知っていた、はずだった。
それは、シエラが“呪われし森”へ行き、自らを呪おうとした原因でもあった。
母親が父親以外の男と親しくしている場面を見たことで、家族の関係性も、最愛の母も喪った。
愛する人の裏切りを、その目に映したことで、愛する人を失ったのだ。
いくら“呪われし森”から救い出したのがアルフレッドだからといって、その後のシエラの人生を側で見守り続けた訳ではない。
心に抱えた大きな傷を癒せた訳ではない。
その傷を、その痛みを、本当の意味で理解できていただろうか。
シエラはアルフレッドに寄り添い、支えてくれていたのに。
魔女の呪いを解くほどの強い想いと愛情が、二人の間にはあったはずだった。
しかし、大切にしたい彼女をアルフレッドが傷つけてしまった。
それも、彼女が最も傷つく方法で。
浮気なんてしていない、と言ったところであの光景がシエラにどう映っていたのか。
それを思うと、アルフレッドの胸は激しい後悔に襲われる。
「忘れたままの方が、シエラのためになるのなら……」
シエラと過ごした、甘くて、とても愛しい時間。
幸せになる資格はない、と諦めていた自分にはもったいないほどの幸せな思い出だ。
それだけで、十分ではないか。
思い出してほしいなんて、贅沢は言わない。
「シエラの幸せが、私の幸せだ」
たとえそこに自分がいなくても。




